儒教資本主義やプロテスタンティズムのように、儒教・西教・仏教に比べて、道教は資本主義と関連して学界の論争ブームを巻き起こすことはできなかったが、最も資本主義に近く、中国人に影響の大きかった思想といえる。[194]今日、共産主義中国で最も人気のある宗教は道教であり、実際、物質を最優先価値とする現代中国は、[195]儒教国家というよりは道教国家に近いといえる。[196]儒教に反対した毛沢東は道教を相対的に優遇し、共産主義を常に道教と比較して強調してきており、[197]鄧小平の改革開放は道教の柔軟さと関連がある。[198]道教は、中国人の理財(理財)に明るい属性と極めて符合する特性を示してきた。現代の道教寺院の神は、財物を司る神明で満ちている。[199]中国の道教志向的な経済体制は中国式道教資本主義と呼びうる。[200]
中国式道教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、自由至上主義および新古典派経済学と類似した財富観を持っていることが現れる。[201]
まず道教の東西洋交流の歴史を考察すると、道教はマテオ・リッチによって間接的に初めてヨーロッパに紹介された後、[202]経済理論では見えざる手を主張したアダム・スミス、限界効用論を主張した新古典学派に影響を与え、経済倫理という側面では自由至上主義に影響を与えた。[203]ウェーバーによって資本主義の起源とみなされた清教徒主義を創始したカルヴァンが住んだジュネーヴは、当時マルコ・ポーロなどの中国情報が流行する商業地域であり、資本主義の本格的発展となった職業召命説・予定説・高利貸の承認は、中国で道教の勧善説(勧善説)や財富観の影響を受けて施行されていたものである。[204]救済の予定の証明としてのカルヴァンの財富観は、「神の恩寵としての財物」という道教的財物観に通じるところがあり、道教はプロテスタンティズムの財富観と極めて類似している。[205]腎臓(腎臓)が身体の銀行のように万物を濾過して新たな活力を肝(肝)に送るように、経済においても、未来の期待のなかで財産を貯蓄する財富観が経済発展の核心といえる。[206]ウェーバーが述べたのとは異なり、資本主義を発生させたカルヴァン主義は、実は西教と正反対の思想から発生した。[207]西教は原則として博愛を主張するため、財富観的な行為は博愛と対立するといえる。[208]ウェーバーは西洋資本主義の起源をカルヴァンの予定説とみたが、カルヴァンの禁欲主義は、アダム・スミスの道教的資本主義思想と結合した後にようやく本格的に作動した。[209]
カルヴァンは、すべてを分け与える西教の博愛精神に反して、中国やインドのように、当時イスラムでも違法と規定した高利貸を認めて貯蓄の基盤を整える。カルヴァンは、必要な商品の完全な取引を妨げる独占を、殺人と同様のものとみる。カルヴァンの主張に従って、当時ジュネーヴ市は、生活必需品に属するワイン・パン・肉などについて価格統制を実施したという。[210]当時の宗教改革家たちは、おおむね全般的な破綻と蔓延した失職に脅かされている商業都市を運営していた。[211]カルヴァンの政策によって、ジュネーヴは一世代のうちに、取るに足らない地方都市から国際的な商業・財政中心地へと浮上した。[212]大陸とは異なり個人主義が発達してルターよりカルヴァンの影響力が相対的に大きかった英国のアダム・スミスは、カルヴァンの思想を継承し、ケネーから学んだ老子と孔子の思想に支えられて、見えざる手の無為自然を活用する。[213]
思想史的に、道教の小国寡民[214]思想は孔子と孟子の自由放任的経済思想に影響を与え、再びこれがカルヴァンやアダム・スミスらへとつながったといえる。[215]自由至上主義と限界効用学派の思想的起源はアダム・スミスの『国富論』であるが、『国富(国富)論』はその題目からして道教の富国(富国)強兵策から来ており、『国富論』の代表的理論である自由放任が、道教の無為を含む「無為之治」を翻訳した語から出たためである。(脚注70)
教理的な側面でも、貯蓄は現実を否定して未来への期待により希望を懸けるため、「Xは–X」という循環的論理を持つ道教の経済思想となる。小国寡民、水の哲学は代表的な貯蓄思想である。道教は、生産—流通—分配—貯蓄の四側面において、貯蓄を基盤に循環を促進しようとする。
道教の重点経済活動を考察すると、生産—流通—分配—貯蓄という経済サイクルにおいて、道教と関連する経済分野はとりわけ貯蓄といえる。東洋思想が西洋思想に比べて相対的に内向性を志向し、[216]東洋思想のうちでも儒教が「進む」宗教であるなら道教は「還る」宗教であるとするとき、道教は老子から無(無)・止(止)を強調してきており、これは経済サイクルにおいて貯蓄に相当するといえる。曹操から受けた財物を一つも使わずに集めておき、劉備へ還るときに財物をすべて分け与えた義理の神・関雲長は、道教において財物の神となり、[217]道教の核心教理である無為自然は、経済活動において貯蓄となった。[218]道教信者は勧善書(勧善書)と功過格(功過格)を作り、自らの善行がどれほど未来の財富を蓄えたかを確認した。[219]
道教は、積極的な活動よりも消極的な観望の知恵を強調している。貯蓄は、分配がすべて終わり、明日を期して、あらゆるエネルギーを蓄えている状態であり、五行では「水」のごとく、色では黒色のごとくといえる。実際、道教は「水の宗教」と呼ばれるほど水の知恵を強調し、黒色を象徴色とする。[220]
道教の国家観を考察すると、理想的国家を最小限の政府とみる小国寡民(小国寡民[221])思想として現れる。小国寡民(小国寡民)は、無政府主義のように、効用中心の最小限の国として現れる。黄台淵はアダム・スミスが儒教の無為而治を学んだとしたが、[222]儒教の無為而治もまた道教から学んだものといえる。道教は、心身関係においても最小限のエネルギーを使う無病長寿を祈願し、元祖といえる老子は富国強兵と民衆の財富増加に集中する。
社会観を考察すると、道教は政治社会的な活動を人為的な努力として否定し、経済的な活動だけで万物を貯蓄を通じて循環させる役割を果たすため、自由至上主義的財富観と共通点を持っている。自由至上主義は、経済倫理において共同体より個人、正義より自由を優先する経済倫理といえる。自由至上主義的経済倫理は、自由を制限するいかなる社会制度も不可であり、経済は個人の貨幣使用に従って見えざる手によって自然に発展する。
平等観を考察すると、道教は、法の前の平等や市場の前の平等のように、道(道)の前の絶対平等を主張する。儒教が共同体に立脚した大同(大同)の平等思想を展開したとすれば、荘子は道の前での絶対平等[223]あるいは天生平等説(天生平等説)を追求したという。荘子の絶対平等は、自由至上主義の「法の前の絶対平等」と類似している。
社会制度と士農工商について言えば、道教はまた技術・工(工)を強調する。道教の教理は気功術から始まり、神との合一のための呪文・縮地法・錬金術などあらゆる技術で武装している。道教が生まれた南部中国は、また、尭・舜の時代に土木を担当した共工(工共)族が住んでいた地域であった。
分配と関連して最も重要な価値理論を考察すると、道教は実利を尊重するため、道教的な価値理論は新古典派の限界効用理論と類似しているといえる。限界効用論[224]は、限界財である最後の財の効用である限界効用が価値を決定するとする価値論である。たとえば、同じリンゴでも、腹が空いているときに食べるリンゴが、満腹のときに食べるリンゴよりはるかに効用が大きいように、価値とは、労働価値論のように需要者と無関係に一方的に決定されるのではなく、需要者によって決定されるとする価値論である。需要者が空腹であればリンゴの価値も上がり、需要者が満腹であればリンゴの価値が下がる。とすれば、最も価値を高めうる方法は、リンゴを中心にみれば、最も空腹な人の順に食べることが最も価値を高めることである。商品が最も価値あるように動くなら、最も空腹な人の順に循環するというのが、限界効用論に隠蔽されている循環の原理であり、「資源の効率的配分」という限界効用論の長所といえる。また分配は、限界効用の分だけ分配されることを正義とする。限界効用論において分配は、商品に投入された労働の価値によって受け取るのではなく、「我が感じる効用」の分だけ受け取る主観的なものとなるため、分配の不平等を主張するのが難しくなる。
限界効用論において財貨が最も効率的に動くのは、最も効用が急ぐ順に物が消費される場合である。限界効用論は財貨の交換から始まり、商品の循環で締めくくられる。空腹な人は、自分が持っている他の財貨を交換してリンゴを購入するため、交換で始まって最も効率的な循環をするのである。限界効用論においても、循環が多くなり速くなるほど価値も上がるといえるため、実際に価値が生じるのは効用ではなく循環であることが分かる。
限界効用論が実現される場が流通過程であるとすれば、発生する場は道教の貯蓄である。与えられた資源の下で最善の選択を決定する限界効用均等の法則は、自由競争の理論のように、前提条件である経済循環が可能なときに妥当な概念である。[225]流通は、火のように、水が集めておいたものを撒くだけである。限界効用が均等になるには、最も空腹な人にパンが回ればよい。したがって限界効用もまた制限的な循環を担っている。
道教は財富観を強調したが、儒教の威勢に押されて資本主義へ発達しなかった。ウェーバーは、プロテスタンティズムが持つ予定説による肯定的財富観が儒教では欠如しており、中国では資本主義が発達しなかったとしたが、[226]道教はプロテスタンティズムより財富を強調する。ただ、道教が儒教に抑圧され、財富が蓄積されると再び略奪されることによって、資本主義に至らなかった。
今日、自由至上主義はノージック[227]、新古典派経済学はフリードマン[228]、ハイエク[229]などに代表される。
道教の自由至上主義的財富観の長所と短所を考察すると、長所としては、限界効用均等の法則を通じて経済を循環させる道教の財富観は、与えられた現実への適応はよくするが、与えられた枠を果敢に変えることはできないという限界がある。適応のみを強調する冷徹な自由至上主義社会では、階層の高下を問わず、賭博資本主義に陥る危険がある。
また、制度が不備な場合、道教が現実逃避思想へ流れたように、財富観が容易に堕落しうるという点である。実際、カルヴァンの財富観に従って資本を蓄積させた西洋の財富観は、賭博資本主義へと変わる。ウェーバーが述べたように、禁欲的労働を強調するプロテスタンティズムの肯定的財富観は、ニーチェが宣言した「神の死」と、共産主義の失敗に象徴される「人間の死」の後、誇示的消費と仮想的満足を追求する「賭博資本主義」的財富観へと大きく変化する。
科学が発達すると人間についての秘密が明かされ、いまや人間は神を捨てて自分のために金を稼ぐようになった。「神は死んだ」に代表されるニーチェの言葉のように、神が死んだ世界において、貨幣は「救済」の徴とはなりえず、ただ他人の欲望に対する徴となる。貨幣によって欲望が均質化された資本主義において、貨幣を持っているということは、他の人の欲望をすべて持っているということになる。貨幣は、神と人間の循環に対する徴であったのが、人と人との間の循環に対する約束の徴となった。
共産主義という計画経済の失敗は、人間の理想に対する信頼の喪失によって、他人の欲望としての貨幣に対する信頼も崩れることになった。いまや貨幣は、神のための救済の徴でもなく、他人のための利他主義的欲望の徴でもない、単に他人の欲望を模倣する徴となった。貨幣が人類の理想の徴としての機能を喪失すると、貨幣は賭博資本主義の象徴となった。貨幣はいまや貨幣のための貨幣となってその循環性を喪失し、それ自体が宗教となった。人間が、宗教的損失の状況においても宗教の教主を怨まないように、現代人は財貨をすべて失っても資本主義を怨まなくなった。[230]現代資本主義の財富観は、循環性を喪失した賭博資本主義の財富観となった。
〈表2.4〉道教資本主義と自由至上主義比較表
| 道教資本主義 | 自由至上主義/新古典派経済学 | |
|---|---|---|
| 影響史 | マテオ・リッチ、カルヴァンに影響 | 現代主流経済学に影響 |
| 理論 | Xは–X、現実否定・未来準備 | 自由尊重 |
| 重点経済活動 | 貯蓄・財富観・財物崇拝・器局主義[231] | 私有財産の増殖、予定と人類理想の徴 |
| 国家観 | 小国寡民、太平実現 | 最小政府、警察国家 |
| 社会観 | 人為排撃 | 政府干渉排除 |
| 平等観 | 道の前の平等、天生平等論 | 法/市場の前の平等 |
| 制度観 | 最小主義 | 市場強調、商業強調 |
| 価値理論 | 実利崇拝、上善若水的適応 | 効用価値、適応を通じた効率 |
| 代表思想家 | 老子、荘子 | カルヴァン、アダム・スミス、ハイエク、フリードマン |
| 長所 | 経済動機の誘発 | 資源の効率的配分 |
| 問題点 | 社会制度否定による虚無主義・現実逃避 | 過度な自由尊重による共同体破壊、神の死による賭博/カジノ資本主義化 |
| 差異点 | 循環/自由のうち循環優位 | 循環/自由のうち自由優位 |
| 問題解決方案 | 過不足の警戒 | 自律に対する責任の承認、良心の回復 |
道教資本主義と自由至上主義の財富観の差異点と関連して問題点を考察すると、道教資本主義と自由至上主義はともに貯蓄と自由を大切にする財富観を持つが、究極的に、道教資本主義は自然が優先であるため自由より自然の循環を優先し、自由至上主義は人間が優先であるため循環より人間の利益を優先する。現代の自由至上主義は道教の影響を受けて資本主義の発展に大きく寄与したが、自然の循環すら無視して人間の利益を追求し、今日の大きな危機を呼び起こしたため、自由至上主義には「自らの責任を否定せずに自由を追求する循環の回復」が、道教資本主義には「過不足の警戒」が緊急に求められる。ここまで財富観と関連して、道教資本主義に現れた自由至上主義/新古典派経済学的特性を要約すると〈表2.4〉のとおりである。