Ⅳ. 大巡思想の循環的経済観の価値

Ⅳ. 大巡思想の循環的経済観の価値

1. 陰陽合徳と経済動機の回復

陰陽合徳・神人調化・解冤相生・道通真境という大巡思想の循環的経済観は、それぞれ経済動機の回復、経済倫理の再生、経済理念の調和、環境危機の克服という経済問題に実際的に適用される。陰陽合徳に基づく待対的(待対的)自由至上主義財富観は経済動機の回復に、神人調化に基づく回帰的(回帰的)社会契約主義分配観は経済倫理の再生に、解冤相生に基づく功利主義的労働観は経済理念の調和に、道通真境に基づく流行的(流行的)共同体主義財貨観は環境危機の克服に寄与する。

まず、陰陽合徳に基づく待対的(待対的)自由至上主義財富観を経済動機と関連して考察すると、待対的(待対的)自由至上主義財富観は、今日、道教資本主義を発展させた自由至上主義が意図せずもたらした経済動機の喪失を、循環の力によって回復させる。

最初、自由の拡大という経済動機の問題を解決しようとして成立した道教は、儒教の力に押されて循環論に偏っていたところ、西洋に伝播して西教の積極的博愛精神と結合し、プロテスタンティズムのような自由至上主義へと発展し、人類の経済動機を大きく振作する。しかし、自由至上主義が振作させた人類の経済動機は、西教が持つ循環性の不足によってかえって大きく後退し、物質的欲望は肥大して精神的動機は虚弱な賭博資本主義へと転落する。相剋的な自由至上主義がもたらす精神的傷によって、人類は自由の拡大という経済動機を喪失し、上流層ではカジノ資本主義、一般人はロト資本主義に埋没する。資本主義を生きる現代人は、賭博のような偶然に運命を委ね、辛うじて一日一日を耐え抜き、何の積極的自由も実現できずにいる。

人類の経済動機の危機に対して、大巡の待対的自由至上主義は、ただ市場で商品を購入しうる自由のみを自由と規定した自由至上主義とは異なり、経済の循環性に立脚して、制度の基礎構造改革という自由の原初的な力の復活を、現代の経済動機危機の代案として提示する。大巡の待対的自由至上主義は、第一に、道教資本主義の循環的経済動機回復思想をまず強調し、第二に、自由至上主義の経済動機回復の問題点を循環性の危機として診断し、第三に、自由至上主義的財富観の経済動機危機の代案として陰陽合徳を提示し、第四に、陰陽合徳思想によって変化した自由至上主義である待対的自由至上主義がいかなる形態かを示す。

まず、大巡の待対的自由至上主義が道教資本主義の循環的経済動機回復思想を強調することを考察すると、大巡思想において財富は循環の結果であるため、循環を妨げない限り、財富に対する欲望は待対性(待対性)によって極めて強調される。580)

我が事は、他人が死なんとするとき善く生きんとする事であり、他人が善く生きるときに栄華と福禄を享受せんとする事なり。(『典経』教法一章六節)

上文は、自由の拡大という経済動機の回復が人間の根源的な欲望であり、その欲望は他人と比較したときにもいっそう強調される重要な徳目となることを明確に提示している。とりわけ、人間として現実的な生と栄華・福禄という自由の拡大を追求することを強力に要請している。581)東洋の古典的な「道人」という観念のために、大巡の財富観をしばしば財富観を否定するものと誤解するが、大巡思想の財富観は、循環を前提とする限り、自由至上主義財富観よりもさらに肯定的である。

次に、大巡の待対的自由至上主義が自由至上主義の経済動機回復の問題点を循環性の危機として診断することを考察すると、大巡思想において教育は経済循環のための核心的鍵であるため、循環を放棄して官吏・俸禄など現実的利益に偏る公利中心の教育を極めて批判する。

「この世に学校を広く建てて人を教えるのは、やがて天下を大きく文明化して三界の事に付し、神人(神人)の解冤を解こうとするものであるが、現下の学校教育は、学ぶ者をして官吏・俸禄などの卑劣な公利にのみ陥らせるため、それゆえに局外で成道することになった」と告げられ、言葉を終えられた。(『典経』教運一章十七節)

上文は、自由至上主義は自由を強調して、儒教に押されてまともに発展できなかった道教資本主義を受け入れて拡大発展させるのには寄与したが、自由の基盤である社会を無視して過度に自由を強調し、かえって自由の基盤である社会を崩し、基本的な自由まで崩して経済動機を極めて疲弊させたことを示す。とりわけ、自由の本質である社会制度改革を機能とする学校を、官吏・俸禄という個人的目的で運用することによって、全体の経済循環を決定的に崩したことを指摘している。

次に、大巡の待対的自由至上主義が自由至上主義的財富観の経済動機危機に対して提示する代案を考察すると、待対的自由至上主義は、倫理と財利のうち財利を優先する自由至上主義とは逆に、倫理を優先して提示する陰陽合徳を示す。陰陽合徳とは、太極において上にある火と下にある水の上下の順序を変え、水を上に、火を下に置いて力の均衡を回復し、自動的に循環させるのと同じ理をいう。582)根本である倫理が水、財利が火であるとすれば、待対的自由至上主義は、火(財利)を水(倫理)の上に置く自由至上主義とは異なり、水(倫理)を火(上)に置く地天泰卦を実践する。

『大学(大学)』に「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば、則ち道に近し(物有本末 事有終始 知所先後 即近道矣)」とあり、また「其の厚くする所の者に薄くして、其の薄くする所の者に厚きは、未だこれあらざるなり(其所厚者薄 其所薄者厚 未之有也)」とあるが、これを鏡として働け。(『典経』教法二章五十一節)

あらゆる事は、根本を厚く先にし、末を後に薄くせねばならないのに、根本である倫理道徳は薄く後にし、末(末)である財物は厚く先にする現代人のような人は失敗することを警告している。『典経』が強調する『大学』では、道徳を本(本)、財物を末(末)とし、財物を道徳より優先する場合に大きな危機に直面することを警告している。しかし現代人は、末端(末端)である財物を徳より優先して、自分でも知らぬうちに危機を助長している。

次に、大巡の待対的自由至上主義は、西洋の自由至上主義が陰陽合徳思想によって変化した待対的自由至上主義がいかなる形態かを示す。

我らの事は、他人をよくする功夫(勉学)である。他人がよくなり、残ったものだけを占めてもよいのであり、全明淑(全琫準)が挙事するとき、常人を両班とし、賤人(賤人)を貴くしようとする心を持っていたがゆえに、死してよくなり、朝鮮の冥府となったのである。(『典経』教法一章二節)

上文は、大巡の待対的財富観が、社会の力を借りずに個人の力で「社会保障がしてくれること」と同一の効果を創出しうることを示す。また、個人の財富をすなわちその人の能力とみる西洋の自由至上主義的財富観とは異なり、大巡の待対的自由至上主義は、他人の必要によって能力を発揮することになる「必要主義」であり、他人のために働いた功徳も財富となることを表す。あわせて、待対性によって物質より倫理を優先していることも示す。

道教と自由至上主義財富観において、社会的正義は個人の自由を妨げうるとする。道教は、儒教の仁と礼を「自然がその機能を喪失したとき最後に出てくるものが道(道)である」と表現した。583)カルヴァンにとって財富は神の救済の予定に対する証明であり、他人が関与する問題ではなかった。道教とカルヴァン主義・自由至上主義は、いずれも最小限の国家介入を要請し、個人の自由を拘束しない社会福祉を希望する。自由至上主義を違背せずに社会保障を増進させるというジレンマは、資本主義の核心問題である。待対的財富観では、社会的保障を提供する個人も損にはならない。大巡思想では、私がよくなるには、私がまず与えればよい。宇宙は循環するため、私が与えた財富(財富)はどんな形であれ再び返ってくるからである。待対的財富を増やすには、「他人が与えてから返す」のではなく「他人が与える前にまず与える」という順序一つだけを変えればよいだけであるという。待対的財富を積むための順序を知るとき、道(道)に近いといえる。

自由至上主義的経済動機回復が失敗した理由は、自由至上主義的経済動機回復が追求する自由が、社会契約主義の正義、功利主義の共同体利益、共同体主義の共同体の卓越性と互いに衝突して、自由への懐疑感が生じたためである。584)待対的自由至上主義において、「私がよくなるために他人をよくする」人間像は、社会契約主義と功利主義・共同体主義をすべて包んで経済動機を回復した人間像を示す。

以上、待対的自由至上主義が個人—経済の側面にある「経済動機」という経済問題を解決する過程を要約すると、次の表で表すことができる。

〈表4.1〉大巡思想の待対的財富観

| | 詳細内訳 | 『典経』関連の一節 |

| ----- | :---- | ----- |

| 自由至上主義的財富観の承認 | 現実の成功が生の重要な目的となる | 他人が善く生きるときに栄華と福禄を享受する功夫(教法一章六節) |

| 自由至上主義的財富観の問題点 | 自由の範囲の濫用(陰陽合徳がならない)/倫理より利益を優先/人性より公利中心の教育 | 学校の学問が官吏・俸禄に偏る(教運一章十七節) |

| 自由至上主義的財富観の問題点の解決方案 | 陰陽合徳/私が受けて与えるのではなく、まず与えて受けることへ順序を変える | 先後する所を知れば則ち道に近し(教法二章五十一節) |

| 大巡の待対的自由至上主義財富観 | 能力主義 VS 必要主義/社会正義も「功徳」という財富となる/待対性によって物質より倫理を優先 | 他人をよくする功夫(教法一章二節) |

2. 神人調化と経済倫理の再生

神人調化に基づく回帰的(回帰的)社会契約主義分配観を経済倫理と関連して考察すると、回帰的(回帰的)社会契約主義分配観は、今日、菩薩資本主義を発展させた社会契約主義が意図せずもたらした経済倫理の失踪を、循環の力によって再生させる。

最初、正義の実現という経済倫理の問題を解決しようとして成立した仏教は、儒教の力に押されて循環論に偏っていたところ、西洋に伝播して西教の積極的博愛精神と結合し、カント主義のような社会契約主義へと発展し、人類の経済倫理を大きく振作する。しかし、社会契約主義が振作させた人類の経済倫理は、西教が持つ循環性の不足によってかえって大きく後退し、倫理的欲望は肥大して現実的反映は貧弱な倫理的虚無主義へと転落する。融通の利かない社会契約主義がもたらす精神的疲弊によって、人類は正義の拡大という経済倫理を喪失し、上流層では極端な相対主義、一般人はアノミーに埋没する。資本主義を生きる現代人は、不義と妥協し、倫理的自負心に傷を負い、辛うじて一日一日を耐え抜き、何の積極的正義も実現できずにいる。

人類の経済倫理の危機に対して、大巡の回帰的社会契約主義は、ただ市場で他人より損をしない正義のみを正義と規定した西洋の社会契約主義とは異なり、経済の循環性に立脚して、制度の基礎構造改革という正義の原初的な力の復活を、現代の経済倫理危機の代案として提示する。ここまで論じてきた大巡の回帰的社会契約主義を考察すると、回帰的社会契約主義は、第一に、菩薩資本主義の循環的経済動機回復思想をまず強調し、第二に、社会契約主義の経済倫理再生の問題点を循環性の危機として診断し、第三に、社会契約主義的分配観の経済倫理危機の代案として神人調化を提示し、第四に、社会契約主義が神人調化思想によって変化した回帰的社会契約主義がいかなる形態かを示す。

まず、大巡の回帰的社会契約主義が菩薩資本主義の循環性重視の分配観を復活させて経済倫理を振作させることを考察すると、大巡思想において分配は循環の結果であるため、循環を妨げない限り、分配に対する欲望は回帰性(回帰性)によって極めて強調される。

上帝は卑賤な人にも必ず敬語を使われた。金亨烈は、自分の下男である池南植に対するたびに敬語を使われる上帝に接するのが極めて畏れ多く、「この者は私の下男ですから、お言葉を下げてくださいませ」と請うた。これに上帝が「その人はあなたの下男であって、私と何の関係があろうか。この田舎では幼い頃から習慣となって言葉を改めるのは難しかろうが、他の村に行っては、どんな人に対しても皆敬え。以後は嫡庶の名分も班常の区別もない」と告げられた。(『典経』教法一章十節)

上文は、基本的正義に関する社会契約主義的分配観を認めている。基本的正義はまた、公正な機会均等へとつながる。585)仏教の因果応報のような縁起論のように、循環論である大巡思想においても、捨てられて名色のなかったことを原因として、機会が公平に巡る。公正な機会均等は、自尊感の社会的基礎の土台となる。過去の韓国の身分制度はインドに匹敵したが、韓国はカースト制度が残るインドに比べてほとんど身分制度が残っておらず、先進国である英国・米国・日本などと比べても最も民主化された国と数えられている。『典経』が記録された当時、嫡庶の名分と班常の区別をなくすということは信じがたい事実であったが、歴史は『典経』と一致する方向へ流れていった。東洋の古典的な「年長者尊重」という観念のために、大巡の分配観をしばしば階層的な分配観と誤解するが、大巡思想の分配観は、循環を前提とする限り、社会契約主義分配観よりもさらに積極的である。

次に、大巡の回帰的社会契約主義が社会契約主義の経済倫理再生の問題点を循環性の危機として診断することを考察すると、大巡思想において公正(公正)は経済循環のための核心的鍵であるため、外面の収拾など共同体的参与を否定する社会契約主義的人事(人事)を極めて批判する。

このように万事が解けた後、上帝が京五に「私はあなたに銭七十両があることを知って請求したのに、なぜそのように欺くのか」と仰せになると、彼は正色して「本当にございませんでした」と申し上げた。その翌日、京五の家に火賊が入り、その銭をすべて失った。その事実を聞かれて上帝が仰せられた。「その銭に咎神(척신)が犯していることを知って、蒼生を救おうとして請うたのに、彼は聞かなかったのである。」(『典経』行録三章十六節)

上文は、社会契約主義は正義を強調して、儒教に押されてまともに発展できなかった菩薩資本主義を受け入れて拡大発展させるのには寄与したが、正義の基盤である共同体を無視して過度に個人的義務を強調し、かえって正義の基盤である社会を崩し、基本的な正義まで崩して経済倫理を極めて疲弊させたことを示す。とりわけ、正義の本質である社会制度改革を機能とする財貨を、財利という個人的目的のみで運用することによって、個人的な経済循環すら決定的に崩したことを指摘している。

次に、大巡の回帰的社会契約主義が社会契約主義的分配観の経済倫理危機に対して提示する代案を考察すると、回帰的社会契約主義は、個人の義務遂行と違法者に対する制裁のうち、個人の義務遂行を優先する社会契約主義とは逆に、違法者に対する制裁倫理を優先して提示する神人調化を示す。586)神人調化とは、ドミノにおいて最初の原因が決して消えず、大きくなったり小さくなったりして最後に自分に必ず回帰するフィードバック(feedback、回帰の輪)のような理をいう。違法者に対する制裁倫理を神(神)、個人の義務遂行を人(人)とするとき、回帰的自由至上主義は、人(人、個人の義務遂行)より神(神、違法者に対する制裁倫理)を上に置く社会契約主義とは異なり、神(神、違法者に対する制裁倫理)を人(人、個人の義務遂行)と対等に置く神人調化を実践する。

上帝が教訓されて仰せられた。「人間は欲望を満たせなければ憤りが破裂して大病にかかる。いまや、まず乱法を立て、その後に真法を下すのであり、あらゆる事を解いて各自の自由意思に任せるから、凡事に心を正しくせよ。邪曲なものはあらゆる罪の根本であり、真実は万福の根源となる。いまや神明をして人に臨ましめ、心に墨縄を当てさせ、私情の鑑定を稲妻の火に付するであろう。心を正しく持てず邪曲を行う者は、至気が下るとき心臓が破裂し、骨節が弾け飛ぶであろう。運数はよいが、首を越えるのが難しかろう。」(『典経』教法三章二十四節)

あらゆる事は、目に見えない神(神)の領域を厚く先にし、目に見える人(人)の領域を後に薄くせねばならないのに、根本である神(神)の領域は薄くし、末(末)である人(人)の領域を厚く先にする現代文明は失敗することを警告している。しかし現代人は、末端(末端)である人間の欲望を神明より優先して、自分でも知らぬうちに危機を助長している。

次に、大巡の回帰的社会契約主義は、西洋の社会契約主義が神人調化思想によって変化した回帰的社会契約主義がいかなる形態かを示す。

(中略)お前たちは市場や集会に行って、「私の言葉を信じれば生きる道が開けるのに」と思いさえすれば、彼らは知らずとも彼らの神明は知るであろうから、徳はお前たちに返るであろう。(『典経』教法一章二節)

上文は、大巡の回帰的分配観が、社会契約主義よりさらに厳格な「神明」という分配ネットワークから成っていることを示す。回帰的社会契約主義の分配観は、社会契約主義よりさらに徹底した分配観であり、単に「投入した分だけ算出される」単純系ではなく、「投入したものが増幅されたり減少したりして出てくる」複雑系であり、したがって「最初から何の怨恨もないようにする」という「無咎(無척)」が極めて重要であることを示す。

仏教と社会契約主義分配観において、個人的自由は社会の正義を妨げうるとする。仏教は、儒教の仁と礼を「無用の分別」と強調し、分別を超越するのが空(空)であると表現した。カントにとって正義は個人の存在に対する証明であり、他人が関与する問題ではなかった。仏教とカント主義・社会契約主義は、いずれも最小限の国家介入を要請し、個人の自由を拘束しない社会福祉を希望する。587)

回帰的分配観では、個人の恩恵も咎もすべて返ってくる。社会的保障を提供する個人も損にはならない。大巡思想では、私がよくなるには、私がまず贈与すればよい。宇宙は循環するため、私が贈与した財富(財富)はどんな形であれ再び返ってくるからである。回帰的分配を増やすには、他人に恩恵であれ咎であれ受けたければ「まず与える」という順序一つだけを変えればよいだけであるという。回帰的分配を積むための順序を知るとき、神明と通じるといえる。

社会契約主義的経済倫理再生が失敗した理由は、社会契約主義的経済倫理再生が追求する正義が、自由至上主義の自由、功利主義の共同体利益、共同体主義の共同体の卓越性と互いに衝突して、正義への懐疑感が生じたためである。回帰的社会契約主義において、「相手は知らずとも相手の神明は知るであろうと信じて他人をよくする」人間像は、自由至上主義と功利主義・共同体主義をすべて包んで経済倫理を回復した人間像を示す。

以上、回帰的社会契約主義分配観を通じた経済倫理問題の解決を要約すると次のとおりである。

〈表4.2〉大巡思想の回帰的分配観

| | 詳細内訳 | 『典経』関連の一節 |

| :---- | :---- | ----- |

| 社会契約主義的分配観の承認 | 基本的自由/公正な機会均等/自尊の社会的基礎 | どんな人に対しても皆敬え(教法一章十節) |

| 社会契約主義的分配観の問題点 | 個人間の疎通の不在/恩恵を返さなくても責任なし/単純系 | 京五に咎神が犯した銭を盗賊に奪われることを説明(行録三章十六節) |

| 社会契約主義的分配観の問題点の解決方案 | 神人調化/永劫回帰/複雑系 | 神明をして人に臨ましめ心に墨縄を当てさせる(教法三章二十四節) |

| 社会契約主義と大巡の分配観の比較 | 大巡は社会契約主義よりさらに厳格な分配ネットワークで連結/構造的に徹底した分配観/無咎は複雑系の初期条件 | 彼らは知らずとも彼らの神明は知る(預示一章四十三節) |

3. 解冤相生と経済理念の調和

解冤相生に基づく中和的(中和的)功利主義労働観を経済理念と関連して考察すると、中和的(中和的)功利主義労働観は、今日、儒教資本主義を発展させた功利主義が意図せずもたらした経済理念の不和を、循環の力によって調和させる。

最初、公益の実現という経済理念の問題を解決しようとして成立した儒教は、儒教自体の典憲に押されて循環論に偏っていたところ、西洋に伝播して西教の積極的博愛精神と結合し、資本主義・共産主義のような功利主義へと発展し、人類の経済理念を大きく振作する。しかし、社会契約主義が振作させた人類の経済理念は、西教が持つ循環性の不足によってかえって大きく後退し、理念的宣伝は華麗だが現実的発展は貧弱なイデオロギーへと転落する。弱者への配慮なき功利主義がもたらす冷戦によって、人類は公益の拡大という経済理念を喪失し、資本主義では貧富差の極大化、共産主義では成長停滞に埋没する。資本主義を生きる現代人は、理想を畳み、人間的自尊心に傷を負い、夢の挫折した一日一日を耐え抜き、何の積極的公益も実現できずにいる。

人類の経済理念の危機に対して、大巡の中和的功利主義は、ただ政治で他人より得票を多く得る公益のみを公益と規定した西洋の功利主義とは異なり、経済の循環性に立脚して、市場の効率性提高という公益の原初的な力の復活を、現代の経済理念危機の代案として提示する。ここまで論じてきた大巡の中和的功利主義を考察すると、中和的功利主義は、第一に、儒教資本主義の循環的経済理念調和思想をまず強調し、第二に、功利主義の経済理念調和の問題点を循環性の危機として診断し、第三に、功利主義的分配観の経済理念危機の代案として解冤相生を提示し、第四に、功利主義が解冤相生思想によって変化した中和的功利主義がいかなる形態かを示す。

まず、大巡の中和的功利主義が儒教資本主義の循環性重視の労働観を復活させて経済理念を振作させることを考察すると、大巡思想において労働—生産は循環の結果であるため、循環を妨げない限り、生産に対する欲望は中和性(中和性)によって極めて強調される。588)

上帝が己酉(己酉)年に入って埋火(埋火)公事を行われ、四十九日間、東南風を吹かせられるとき、四十八日となった日、ある人が訪ねてきて病を治してくれるよう哀願したので、上帝が公事に専念しておられる最中であったため応じられなかったところ、その人は帰って怨んだ。これより東南風が止まったので、上帝が悟られ、すぐに人を遣わして病者を慰安させられた。このとき上帝が「一人が怨恨を抱いても天地の気運が塞がる」と仰せられた。(『典経』公事三章二十九節)

上文は、天地公事のために甘受した少数の犠牲も天地の気運を塞ぐほどであり、「大(大)のために小(小)を犠牲にする」功利主義の場合、問題を多く引き起こす。功利主義は最大多数の最大幸福を追求するため、「大(大)のために小(小)を犠牲にする」場合が多い。しかし上文は、多数の利益のために少数が犠牲になるからといって、決して少数の力が多数の力より弱くないことを示す。東洋の古典的な「士農工商」589)という観念のために、大巡の労働観をしばしば回避的な労働観と誤解するが、大巡思想の分配観は、循環を前提とする限り、功利主義労働観よりもさらに肯定的である。

次に、大巡の中和的功利主義が功利主義の経済理念調和の問題点を循環性の危機として診断することを考察すると、大巡思想において効率は経済循環のための核心的鍵であるため、市場制度内的効率性を否定し、政治的に別の代案を掲げる功利主義的政治を極めて批判する。

元一が自分の家に上帝を迎え、聖人の道と雄覇の術を仰せ聞いた。それは次のようであった。

「済生医世(済生医世)は聖人の道であり、災民革世(災民革世)は雄覇の術である。すでに天下が雄覇の遺した苦しみを受けて久しい。ゆえに、いまや私が相生(相生)の道によって化民正世しよう。お前はいまから心を正しく持て。大人を学ぶ者は、常に好生の徳を積まねばならぬ。どうして億兆の蒼生を殺して生きることを望むのが合当であろうか。」(『典経』教運一章十六節)

上文は、功利主義は公益を強調して儒教的典憲に陥り、公益の基盤である個人を無視して過度に共同体的利益のみを強調し、かえって公益の基盤である個人を無視して基本的な公益まで崩し、経済理念を極めて疲弊させたことを示す。とりわけ、公益の本質である社会制度改革を機能とする雄覇の術を、個人的目的のみで運用することによって、社会的な経済循環すら決定的に崩したことを指摘している。

次に、大巡の中和的功利主義が功利主義的分配観の経済倫理危機に対して提示する代案を考察すると、中和的功利主義は、少数の配慮と多数の利益に対する選択のうち、多数の選択を優先する功利主義とは逆に、少数者に対する配慮倫理を優先して提示する解冤相生を示す。解冤相生とは、二つ以上の異なる力が互いに循環的利得を取る構造を含む。多数者による少数者の被害を冤(冤)とするなら、多数者の少数者に対する配慮を解冤(解冤)とし、解冤がなされた後の相生を解冤相生といえる。中和的功利主義は、冤(冤)(多数者による少数者の被害)より解冤(解冤)(多数者の少数者に対する配慮)を前に置いた。

全琫準(全琫準)が虐政(虐政)に憤慨して東学徒たちを集め、義兵を起こした後、いっそう世態は凶動し、彼らの怒りが天を衝き、その気勢は日ごとに激しくなっていった。このとき上帝は、その東学軍の前途が不利であることを知られ、夏のある日「月黒く雁の飛ぶこと高し、単于夜に遁逃す。将に軽騎を将いて逐わんと欲すれば、大雪弓刀に満つ(月黑雁飛高 單于夜遁逃 欲將輕騎逐 大雪滿弓刀)」の文を多くの人に唱えて、東学軍が雪の降る時期に至って失敗することを明らかにされ、多くの人に東学に入らないよう勧誘された。果たしてこの年の冬、東学軍が官軍に敗滅され、上帝の言葉に従った人は禍を免れた。(『典経』行録一章二十三節)

あらゆる事は、目に見えない根本の領域を厚く先にし、目に見える領域を後に薄くせねばならないのに、根本である「市場内での効率」に対する検討は薄くし、末(末)である制度外的名分のみを厚く先にする東学のような体制は失敗することを警告している。『典経』の病勢文では、天下の勢に暗い人は死ぬ気運に陥ることを警告している。590)しかし現代人は、末端(末端)である名分を実利より優先して、自分でも知らぬうちに危機を助長している。

次に、大巡の中和的功利主義は、西洋の功利主義が解冤相生思想によって変化した中和的功利主義がいかなる形態かを示す。

上帝が丁未年の臘月二十三日に、辛京守をその家に訪ねられた。上帝が尭(尭)の「暦象日月星辰、敬授人時(暦像日月星辰敬授人時)」について仰せられた。「天地は日月でなければ空の殻であり、日月は知人(知人)でなければ虚影(虚影)であり、唐尭(唐尭)が日月の法を悟り出して百姓に教えたがゆえに、天の恩と地の理が初めて人類に与えられたのである」と仰せられた。このとき上帝が「日月無私治万物、江山有道受百行(日月無私治万物 江山有道受百行)」を教え、五呪(五呪)を作って天地の津液(津液)と名づけられた。その五呪は次のようである。

新天地家家長歳 日月日月万事知

侍天主造化定永世不忘万事知

福禄誠敬信 寿命誠敬信 至気今至願為大降

明徳観音八陰八陽 至気今至願為大降

三界解魔大帝神位願趁天尊関聖帝君(『典経』教運一章三十節)

上文は、大巡の循環的経済観において、人間が真ん中の位で中和(中和)する「中察人事」する存在となるため、与えられた枠を変えていきうる存在となることを示す。中和的功利主義の解冤が功利主義的革新に優先して、あらゆる革新が解冤となるとき、革新に到達するための誠敬信はすべて寿命と福禄、すなわち価値の根源となることを示す。

大巡の中和的労働観は、個人の力を借りずに共同体の力で「社会保障がしてくれること」と同一の効果を創出しうることを示す。儒教と功利主義労働観において、共同体の利益は個人の利益を侵害しうるとする。儒教は、仏教の空と道教の気を「荒唐な虚無寂滅」と批判し、591)個人を超越するのが大同(大同)であると表現した。592)公益は共同体の存在に対する証明であり、あらゆる個人が関与する問題であった。儒教と資本主義・共産主義は、いずれも最大限の国家介入を要請し、少数の利益を侵害しない社会福祉を希望する。功利主義を維持しつつ少数の福祉を増進させるというジレンマは、資本主義の核心問題である。

中和的労働観では、多数の利益も少数の利益もすべて一つとみなされる。社会的保障を提供する社会的多数も損にはならない。大巡思想では、私がよくなるには、私がまず与えればよい。宇宙は循環するため、共同体が配慮した財富(財富)は、極端を脱した中庸によって593)どんな形であれ再び共同体に返ってくるからである。中和的生産を増やすには、少数者の権益もまず配慮するという順序一つだけを変えればよいだけであるという。中和的分配を積むための順序を知るとき、解冤相生となるといえる。

功利主義的経済理念調和が失敗した理由は、功利主義的経済理念調和が追求する公益が、自由至上主義の自由、社会契約主義の社会正義、共同体主義の共同体の卓越性と互いに衝突して、公益への懐疑感が生じたためである。中和的功利主義において、「自らの誠実・敬虔・信念を人は知らずとも天は知るであろうと信じて他人をよくする」人間像は、自由至上主義と社会契約主義・共同体主義をすべて包んで経済理念を調和した人間像を示す。

ここまで、経済理念問題を解決するための大巡の中和的功利主義についてを要約すると次のとおりである。

〈表4.3〉大巡思想の中和的労働観

| | 詳細内訳 | 『典経』関連の一節 |

| :---- | :---- | ----- |

| 功利主義的労働観の承認 | 個人より共同体を優先/共同体正義の分だけ共同体利益を優先/革新および効率の尊重 | 一人が怨恨を抱いても天地の気運が塞がる(公事三章二十九節) |

| 功利主義的労働観の問題点 | 質的差別の無視・画一化/倫理より利益を優先/少数者の無視 | 雄覇の遺した苦しみを受けて久しい(教運一章十六節) |

| 功利主義的労働観の問題点の解決方案 | 中和的循環/革新より解冤相生を優先/忠孝烈を誠敬信で評価 | 東学に入らないよう勧誘(行録一章二十三節) |

| 功利主義と大巡の労働観の比較 | 人間は枠自体を革新する存在/能力ではなく必要による労働/解冤のための忠孝烈 | 福禄誠敬信 寿命誠敬信(教運一章三十節) |

4. 道通真境と環境危機の克服

道通真境に基づく流行的(流行的)功利主義労働観を環境危機と関連して考察すると、流行的(流行的)共同体主義財貨観は、今日、西欧資本主義を発展させた共同体主義が意図せずもたらした環境危機を、循環の力によって克服させる。

最初、共同体の実現という経済環境の問題を解決しようとして成立した西教は、西教自体の独断に押されて循環論に偏っていたところ、西洋に伝播した儒仏仙の積極的啓蒙精神と結合し、社会主義・社会福祉主義のような共同体主義へと発展し、人類の経済環境を大きく振作する。しかし、共同体主義が振作させた人類の経済環境の改善は、西教が持つ循環性の不足によってかえって大きく後退し、物質的発展は華麗だが自然環境は貧弱な環境危機へと転落する。人間の自然に対する配慮なき共同体主義がもたらす環境危機によって、人類は共同体の拡大という理想的経済環境を喪失し、人類共同体の絶滅危機に埋没する。資本主義を生きる現代人は、環境危機に対する対策を放棄し、人類の未来に対する希望なく、夢の挫折した一日一日を耐え抜き、何の積極的共同体的対応も実現できずにいる。

人類の環境危機に対して、大巡の流行的共同体主義は、ただ経済的に他の共同体より有利な共同体に属しているということのみを共同体と規定した西洋の共同体主義とは異なり、経済の循環性に立脚して、人類の危機に対する共同対応という共同体の原初的な力の復活を、現代の環境危機の代案として提示する。ここまで論じてきた大巡の流行的共同体主義を考察すると、流行的共同体主義は、第一に、西欧西教資本主義の循環的環境危機克服思想をまず強調し、第二に、共同体主義の環境危機克服の問題点を循環性の危機として診断し、第三に、共同体主義的財貨観の環境危機克服の代案として道通真境を提示し、第四に、共同体主義が道通真境思想によって変化した流行的共同体主義がいかなる形態かを示す。

まず、大巡の流行的共同体主義が西欧資本主義の循環性重視の財貨観を復活させて経済共同体の環境危機克服を振作させることを考察すると、大巡思想において財貨は循環の結果であるため、循環を妨げない限り、共同体594)と財貨に対する贈与欲望は流行性(性)によって極めて強調される。

この年の七月に、東学党員たちが院坪に集まった。金亨烈は上帝にお目にかかろうとこの所を通り過ぎ、東学党が集まっているのを見て、上帝を訪ねてその事実を申し上げると、上帝はその集まりの趣旨と行動を調べてくるよう、彼を院坪へ遣わされた。彼は院坪で、それが一進会の集まりであり、輔国安民を目的に掲げ、大会場所が忠南(忠南)江景(江景)であることを探知して、上帝のもとに戻って事実を申し上げた。この事実を聞かれて上帝が「彼らをして、今後、甲午(甲午)のような略奪の民弊をなくさせ、彼ら各自が自分の財産を使うようにしよう。私がまず模範を作らねばならぬ」と仰せになり、本宅の暮らし向きと若干の田畑を売って、その銭で全州府中に行かれ、通りすがりの乞食に分け与えられた。これより一進会員たちは略奪せず、自分の財産で行動した。この事によって全州府民は、上帝のなさることに感服しながら敬う心を高めた。(『典経』教運一章十五節)

上文は、大巡思想が、共同体利益の分だけ共同体の正義を優先して、個人の財産を共同の目的に使用する博愛主義的財貨観を認めることを示す。一進会と東学が共同のための目的で起こったにもかかわらず、住民の略奪で命をつなぐことを予測され、あらかじめ共同体主義的な事例を示すことによって、一進会も同じく自分の金で共同体の事に従事させる。大巡の流行的財貨観は、共同体主義財貨観のように、財貨がたとえ個人の所有であっても、個人の任意に取り扱えない存在であることを示す。東学が共同体という大義名分にかこつけて少数の犠牲を当然視したとすれば、大義名分のために自己を犠牲にする大巡の姿は一進会と比較されるに十分であり、一進会も自分の金で行動するようになる。東洋の古典的な「徳本財末(徳本財末)」という観念のために、大巡の財貨観をしばしば無所有的なものと誤解するが、大巡思想の財貨観は、循環を前提とする限り、共同体主義財貨観よりもさらに流行志向的である。

次に、大巡の流行的共同体主義が共同体主義の環境危機克服の問題点を循環性の危機として診断することを考察すると、大巡思想において卓越は経済循環のための核心的鍵であるため、市場制度内的卓越性を否定し、政治的に別の代案を口実とする共同体主義的政治を極めて批判する。

ある日、従徒たちが上帝にお目にかかり、「上帝の権能をもって、どうして張孝純の乱に遭われたのですか」と申し上げた。上帝が「教中(教中)や家中(家中)に紛争が起これば神政(神政)が紊乱になる。それをそのまま放っておけば、世に大きな災殃が至ることになる。ゆえに、私がその気運を受けて災殃を解消したのである」と告げられた。(『典経』行録三章八節)

上文は、家族や学校のような一次共同体はあらゆる組織に優先し、共同体の構成員が共同体の大切さに対する確信が堅固でなければならないことを示す。595)共同体主義は、共同体の卓越を強調して西教の独断に陥り、まともに発展できなかったところ、東洋の儒仏仙を受け入れて共同体の環境を拡大発展させるのには寄与したが、公益の基盤である個人を無視して過度に共同体的卓越性のみを強調し、かえって公益の基盤である個人を崩し、基本的な公益まで崩して経済環境を極めて疲弊させたことを示す。とりわけ、卓越の本質である社会制度改革を機能とする財貨を、名利という個人的目的のみで運用することによって、宇宙的循環すら悪影響を及ぼしていることを指摘している。

次に、大巡の流行的共同体主義が共同体主義的財貨観の環境危機に対して提示する代案を考察すると、流行的共同体主義は、利得に強い少数の横暴と弱い多数の対応のうち、力ある少数の選択を優先する功利主義とは逆に、力の弱い多数者に対する配慮倫理を優先して提示する道通真境を示す。道通真境とは、二つ以上の体系が互いに流行的に作用する循環といえる。

力の弱い多数者の共通した意を道(道)とするなら、力ある者と力弱き者の和合がなされた世界を道通真境といえる。流行的共同体主義は、力の弱い多数者の意に偏った共同体主義とは異なり、回帰的共同体主義は両者の要請を同時に満たす。

上帝が深夜に泰仁邑で従徒たちを連れて山に登り、公事を行われた後、彼らに「この公事に天地大神明が集まったから、彼らが解散するときに必ず惨酷な応懲があるであろう」と言葉を終えられると、思いがけず泰仁邑から群衆の叫び声が起こった。従徒たちが上帝をお連れして山から下り、これを見ると、群衆が辛敬玄(辛敬玄)の酒幕に飛び込んで、家財道具と酒甕をすべて壊していた。元来、辛敬玄は酒商売を始めて以来、邑内の青年たちの好感を得て金を集めたが、その青年たちが窮乏すると冷遇したので、彼らが彼の没人情に憤慨して襲撃したのであった。その翌日、上帝が敬玄の酒幕に行かれると、その夫婦が互いに泣きながら他の所へ引っ越そうとしていたので、上帝は何も仰せにならず、敬玄の婦人に酒を請われたが、その女が「酒甕をすべて割ったので、何の酒がございましょうか」と言うので、「あの櫃のなかに隠しておいた焼酎を持ってこい」と仰せられた。その女は慌てて「先生の前では少しも隠せません」と言いながら、小さな瓶に入った焼酎を注いで差し上げると、上帝が敬玄夫婦に「あらゆる事の是非はすべて私にあるのであって、位置によってあるのではないから、以後はあらゆる事をよく考えて行え。そうすれば前途が再び開け、営業が興盛するであろう」と諭された。この夫婦は諭されたとおり引っ越しを中止し、過ちを改めて商売を続けたところ、ほどなく営業が再び興盛になった。(『典経』教法三章十八節)

上文において、力はないが多数である人々が辛敬玄の没人情に憤慨していたが、堪えるだけだった共同体が、特定の気運の変化に従って爆発し、辛敬玄の家を襲撃する。あらゆる事は、目に見えない領域を厚く先にし、目に見える領域を後に薄くせねばならないのに、根本である「市場内での徳(徳)」に対する検討は薄くし、末(末)である制度外的名分のみを厚く先にする辛敬玄のような人は失敗することを警告している。しかし辛敬玄もまた、心をよく改めれば再び生き返りうるようになった。

次に、大巡の流行的共同体主義は、西洋の共同体主義が道通真境思想によって変化した流行的共同体主義がいかなる形態かを示す。

金甲七が常に甘えて固執を張ったが、上帝はうまく宥めて微笑まれるだけで、一度も叱らなかったので、彼はいっそう甚だしく改めなかった。亨烈が堪えられず「あんな性悪な奴がどこにいるか」と叱ると、上帝が亨烈に仰せられた。「お前の言行はまだ解けきっておらず、毒気がある。悪しく取り除こうとすれば草ならざるはなく、好ましく取って見れば総じて花である(惡將除去無非草 好取看來總是花)。言葉は心の叫びであり、行いは心の跡である。他人をよく言えば徳となってよくなり、その余った徳が押し寄せて次第に大きな福となって我が身に至るが、他人をそしる言葉は彼に害となり、余った害が押し寄せて次第に大きな禍となって我が身に至るのである。」(『典経』教法一章十一節)

共同体において、言葉をよく言えば共同体構成員が互いによくなって次第に大きくなり、共同体で言葉を悪く言えば共同体が次第に小さくなる。財貨もまた、他人をよくするために贈与したものは、その余った徳が押し寄せてより大きくなって流行し、他人を悪くするように流行させた財貨は、その禍がいっそう増幅して我へと流行する。

西教と大巡の財貨観を比較すると、西教の共同体主義財貨観は理想は高いが、人間中心主義的思考によって事物の隠れた機能を活かせない。ボードリヤールが『物の体系』596)で明らかにしたように、「人間より先に存在するものが物である」とするように、大巡の流行的財貨観では、神明がおられて共に循環をする。

大巡の流行的財貨観は、個人の力を借りずに共同体の力で「社会保障がしてくれること」と同一の効果を創出しうることを示す。西教と共同体主義財貨観において、共同体の卓越は個人の利益を侵害しうるとする。西教と生態主義は、いずれも最大限の国家介入を要請し、少数の利益を侵害しない社会福祉を希望する。

流行的財貨観では、弱者の利益も強者の利益もすべて一つとみなされる。社会的保障を提供する社会的強者も損にはならない。大巡思想では、私がよくなるには、私がまず与えればよい。宇宙は循環するため、共同体が配慮した財貨(財貨)はどんな形であれ再び共同体に返ってくるからである。流行的財貨を増やすには、多数だが弱者である存在の権益をまず配慮するという順序一つだけを変えればよいだけであるという。流行的財貨を積むための順序を知るとき、道通真境といえる。

〈表4.4〉大巡思想の流行的財貨観

| | 詳細内訳 | 『典経』関連の一節 |

| :---- | :---- | ----- |

| 共同体主義的財貨観の承認 | 必要による財貨の承認/共同体利益の分だけ共同体正義を優先/効率の分だけ贈与を重視 | 私がまず模範を作らねばならぬ(教運一章十五節) |

| 共同体主義的財貨観の問題点 | フリーライド/構成員の裏切り/象徴価値の測定不可能性 | 教中や家中に紛争が起これば神政が紊乱になる(行録三章八節) |

| 共同体主義的財貨観の問題点の解決方案 | 個人的贈与より事物の流行性を活用/少数の強者に対する牽制を維持/対話の重要性を強調 | 青年たちが窮乏すると冷遇した人を共同体によって正す(教法三章十八節) |

| 共同体主義と大巡の財貨観の比較 | 事物自体の流行的循環性/贈与の循環 | 他人をよく言えば徳となって彼がよくなり、徳がより大きくなって我はより良くなる(教法一章十一節) |

共同体主義的環境危機克服が失敗した理由は、共同体主義的環境危機克服が追求する卓越が、自由至上主義の自由、社会契約主義の社会正義、功利主義の公益と互いに衝突して、卓越への懐疑感が生じたためである。流行的共同体主義において、「自らの功徳を人は知らずとも天は知るであろうと信じて他人をよくする」人間像は、自由至上主義と社会契約主義・功利主義をすべて包んで環境問題を解決する人間像を示す。ここまで、環境危機問題を解決するための大巡の流行的共同体主義についてを要約すると〈表4.4〉のとおりである。

脚注

  1. 580)兄である李祥昊とともに『甑山天師公事記』を執筆した李正立は、大巡思想の肯定的な財富観について「在富善視(在富善視)」と表現する。(이정립, 『증산사상의 이해』, 인동, 1986, 157쪽)
  2. 581)大巡思想は儒仏仙のうちとりわけ道教的特徴が強く現れるという点が、新宗教のうちでも差別化される部分といえる。大巡思想において道教的要素は周辺的な部分ではなく、神位など核心的な部分に現れる。(고남식 「증산(甑山)의 도가적(道家的) 경향(傾向)과 《무극도(无極道)》의 도교적(道敎的) 요소(要素)」,『대순사상논총』Vol.17 No.-, 2004, 3~14쪽)
  3. 582)経済人類学者ポランニーは、実際に今日の経済学において市場というものは「自己調節的市場」として社会と分離して独立的に存在しうるようになったとする。(원용찬, 「경제학의 방법론적 비판과 문화경제의 패러다임」, 『문화경제연구』Vol.1 No.1 한국문화경제학회, 1998, 28쪽)
  4. 583)大道廃焉有仁義、大道が廃れて仁義が現れることになった。(『노자』, 김학주 역해, 명문당, 1996, 93~94쪽)
  5. 584)大巡思想において新たな仙道の宗長が崔済愚として現れるのは、東学が道教の役割を担ったことを暗示する。大巡思想において東学が失敗したのは、自由至上主義が持つ限界を待対的自由至上主義へ発展させられなかったものとみることができる。大巡思想では、二度の啓示を通じて、待対的自由至上主義の「真東学」として東学失敗の冤を解いてやる。(고남식 「대순사상에 나타난 동학의 위상과 증산의 참동학 전개」, 『대순사상논총』Vol.16 No.-, 대진대학교, 2003)
  6. 585)(原文は空白。)
  7. 586)大巡思想において神明は精神的背景として現れる。人間が持つ神明性もまた、その外在的な実在として理解されるときにも、常に人間と同行し、また人間の機能を尽くしうるよう助ける役割をする。(이경원, 『한국 신종교와 대순사상』, 문사철, 2011, 172~174쪽)
  8. 587)カントと仏教は共通して、自由を倫理学の根本要請とみなす。(김진, 『칸트와 불교』, 철학과 현실사, 2000, 56~59쪽)
  9. 588)李正立は、大巡思想の肯定的な労働観について「緑路整正(緑路整正)」と表現する。(이정립, 같은 책, 161쪽)
  10. 589)(上略)士之商職也 農之工業也 士之商農之工職業也 其外他商工留所(下略、士は商業の職であり、農業は工業である。士が商業をし農民が工業をすることを職業という。『典経』教運一章四十四節)開化期当時、開化派指導者であった朴珪寿は「士農工商といって人を区別するが、士(士)が農業に臨んで勤勉に土地の財貨を育てて富者になることが重要であり、こうなれば当然農民ではないか。そして士(士)が様々な材料で整えて作り、百姓の必要に応じて器物を開発すれば工匠(工匠)ではないか。士(士)が物の有無を見極めて交易し、四方の珍奇な物を疎通させてよく食べてよく暮らしていけば、これは商人ではないか。身はすなわち器は士(士)だが、職業はする仕事に従って農民と工匠と商人に分かれるのである。」(박규수, 『환재집』,「잡문」, 박기현, 『조선참모실록』, 역사의 아침, 2010, 262쪽)上の一節に照らしてみれば、士之商(士之商)は、士が謙遜に商人のように真理を伝え、農民が積極的に工匠のように技巧を使って工業に従事してこそ初めて職業となるという意味で、循環を強調した一節といえる。士農工商もまた四象分類であるため、最初から士は決断力ある金、農は生産力溢れる木、商は発揚して世界に流通させる火、工はあらゆる情報を集約して自動化する技術である工を念頭に置いたといえるともいう。実際、宗教のように、工業は治水と関係に優れた共工族(工共族)が居住した中国南方で水剋火の理によって道教から発生し、商業は火剋金の理によって西教(火)の気運が強い西洋で隆盛した。インドには宗教(士)が多く、農業は木剋土の原理によって中国で発展したといえる。循環的経済観である大巡思想では、士も自分の見識を公正に広報できなければ、たとえ水一杯であっても、たとえ父母兄弟の間であっても依りえない。(我らの功夫は、水一杯であっても理由なく他人の力を借りえない功夫であるから、たとえ父子や兄弟の間であってもむやみに依るな。『典経』教法一章七節)
  11. 590)(略)知天下之勢者 有天下之生氣 暗天下之勢者 有天下之死氣(略)。(『典経』行録五章三十八節)
  12. 591)宋代(960-1279)に至って、新儒教は仏教を受容して学んだ後に仏教を捨てた。(윤영해, 「주자의 불교비판연구」, 서강대학교 박사논문, 1997, 40쪽)虚無寂滅は、道家の超越境地である虚無と仏家の涅槃の境地を寂滅というが、儒教は仏教の空と道教の気を、個人主義批判の観点から虚無寂滅と批判する。
  13. 592)大同は『礼記』「礼運」の大同論によく現れている。大同は大道が実現された時代で、天下が一個人のものではなく公共のもの(天下為公)であった。(이상익, 「유교와 자유민주주의」, 『정치사상연구』Vol.3 No.-, 한국정치사상학회, 2000, 24~25쪽)
  14. 593)儒学の遅生まれである中庸は、蚩尤から始まった神の秩序の崩壊から、戦国時代が招いた極端の時代を均衡の時代へ転換しようとする意図で著述された。(신정근, 『중용 극단의 시대를 넘어 균형의 시대로』, 사계절, 2010)エリック・ホブズボームは現代もまた「極端の時代」(에릭 홉스봄, 『극단의 시대』, 이용우 역, 까치, 1997)と診断するため、中庸、すなわち均衡と解冤相生は、我々の時代に最も必要な思想となる。英国のギデンズは、共同体と個体・構造と行為を調和する「第三の道」を、危険社会である現代社会の代案として主張する。ギデンズは、ウェーバーの「鉄の檻」を「社会の分節化」という肯定的機能として解釈したジンメルを活用して、現代社会を悲観的に解釈したフーコーとウェーバーの悲観主義を警戒する。(김윤태, 「통합적 사회학의 가능성과 한계-앤서니 기든스의 사회이론」, 『사회와 이론』Vol. No.11, 한국이론사회학회, 2007, 69~75쪽)
  15. 594)李正立は、大巡思想の肯定的な共同体観について「社団社会(社団社会)」と表現する。(이정립, 같은 책, 162쪽)
  16. 595)陰陽合徳を宗旨の冒頭とする大巡思想は、家族の重要性を最優先とする。周易において万物がみな男女という家族関係の複雑系的反映であるように、周易を実体化する大巡思想ではその実践的意味がさらに強力に現れる。社会的環境が悪くなるほど家族問題がさらに表面化するように、大巡思想は混乱期である開化期の家族関係の問題点と解決を優先して強調している。(고남식, 「개화기 강증산 전승에 나타난 가족관계의 문제점과 해결방식」, 『겨레어문학』Vol.26 No.-, 2001, 건국대학교, 27~28쪽)
  17. 596)장 보드리야르, 『사물의 체계』(지식을 만드는 지식, 2011)