自生的(自生的)近代性とリミナリティ
近代性と自生的近代性
近代性と聖(聖)・俗(俗)の統摂(統攝)
「近代性(Modernity)」という概念は、人類を暗黒の桎梏から脱せしめ、理性の力を取り戻させてくれた特性として、東西を通じて文明の象徴として崇拝されてきた概念である。科学技術を世界認識の土台とし、それに資本と国家が結合して自然と人間を対象化し、効率的に管理する生のあり方を「近代性」と規定することができる。 이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021, pp.164-165. 近代性は長い人類史の試行錯誤を通じて人類が発見した普遍的価値であり、これによって「近代性」は世界が共通して志向するところとなった。人類は近代が到来する前は権力の支配の下にあり、共同の努力によって絶対権力から解放された後に近代性を見いだすこととなった。李道欽は近代の力を次のように表現する。
이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021, pp.164-165.
人類は「呪術の庭」たる中世から脱して、理性と科学が支配する現代を切り開いた。現代の力は実に途方もないものであった。無知蒙昧と野蛮が支配していた世界を理性と科学を通じて打破し、合理性の原則と科学に依拠して再びデザインした。 이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」 『동학학보』 10, 2005, p.9. 百万年を超える人類進化の歴史のなかで、近代は初めて人類を自然と餓死という物質の恐怖から脱せしめ、たとえ相対的剥奪感はあったとしても、一般市民がかつての皇帝のごとき物質的豊かさを享受させた空前絶後の時期であった。三十年にも満たなかった人類の寿命は近代以後、今日では八十歳まで延び、神のごとき地位に上った人間はついにそのほとんどが無神論者となり、代わりに物質主義者となった。
이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」 『동학학보』 10, 2005, p.9.
近代化(modernisation)、近代性(modernity)、モダニズム(modernism)は現代社会の中心主題として扱われてきた領域であり、近代化(modernisation)・近代性(modernity)はモダニズム(modernism)と比較すると、定義に関して異論があまりないという。近代化(modernisation)は産業革命およびその影響と関連する一連の技術的・経済的・政治的発展を意味し、近代性(modernity)はそのような発展の結果として現れた社会的条件と経験のあり方であると言える。 찰스 해리슨, 『모더니즘』, 파주: 열화당, 2003, p.6
찰스 해리슨, 『모더니즘』, 파주: 열화당, 2003, p.6
しかし、たがの外れた欲望の結果、近代は再び人類を前代未聞の絶滅の危機に直面させ、近代に対する批判理論である脱近代性(post-modernism)理論が大いに流行することとなった。近代性に対する批判は激しいが、これはそれほど近代が人類に空前絶後の恩恵を与えた時期であったからであり、ただ人類はなぜこうした恩恵が与えられたのかについては、いまだ研究が進行中である。
まず、古典的近代性の代表的理論家として知られるウェーバーは、近代性を「全社会の合理化」へと圧縮し、①合理的資本主義、②合理的法・行政体系(法治国家)、そして③合理的社会分化へと細分化した。近代性に対するウェーバーの論旨は、有名な『宗教社会学論集』の「著者序文」に集約されて現れるという。 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011.p.52에서 재인용; 막스 베버 지음, 김덕영 옮김, 『프로테스탄트 윤리와 자본주의 정신』, 서울: 길, 2010. pp.11- 38. ウェーバーの文章において、近代性はすなわち「合理性」へと圧縮される。これに対して、近代性に対する批判理論家である脱近代論者は、この合理性を近代性の核心的問題として指摘する。脱近代論者は、近代の合理性はデカルト(René Descartes, 1596-1650)の「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」という方法論的懐疑(methodological skepticism)に立脚した理性中心主義へと要約され、この合理性が近代性の数多くの問題の原因であると指摘した。イデアや神を否定し、自己から認識と存在、価値に関するすべての法則を再構築するナルシシズム(narcissism)的な同一者としての近代性は、結局「他人は地獄である」というサルトル(Jean-Paul Sartre, 1905-1980)のような結論を導き出さざるをえないと脱近代論者は主張する。 벵쌍 데꽁브 지음, 박성창 옮김, 『동일자와 타자: 현대 프랑스철학(1933-1978) 』, 서울: 인간사랑, 1991. これに対して、他者を受容する相互関係的で生成的・過程的・脱構築的な合理性が必要であるという。脱近代性とは、こうした近代性に抵抗しながらその代案を追求してきた傾向と規定することができる。 이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021, pp,164-165.
근대성에 대한 베버의 논지는 유명한 『종교사회학논총』의 「저자서문」에 집약되어 나타난다고 한다. 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011.p.52에서 재인용; 막스 베버 지음, 김덕영 옮김, 『프로테스탄트 윤리와 자본주의 정신』, 서울: 길, 2010. pp.11- 38.
벵쌍 데꽁브 지음, 박성창 옮김, 『동일자와 타자: 현대 프랑스철학(1933-1978) 』, 서울: 인간사랑, 1991.
이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021, pp,164-165.
デカルトの還元主義的合理性に対する批判は、遠くはスピノザ(Baruch Spinoza, 1632-1675)、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)の表現主義的形而上学から始まり、その現代的契機はニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)、ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)、フッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)からそれぞれ異なる分野で発展し、フーコー、ドゥルーズ、デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)、ラカンなど代表的な脱近代性理論家へと至ってきた。 이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021; 이정우, 『세계철학사 4: 탈근대 사유의 지평들』, 서울: 길, 2024. ポストモダニズムは、今日キリスト教の救済者とも呼ばれるルネ・ジラール(René Girard, 1923-2015)によってアメリカに紹介され、分析哲学が支配的なアメリカにおいても異例なほど大いに活性化し、今日ヨーロッパとアメリカの人文・社会科学の主要な思潮となった。これに対して、既存の英米哲学や 앨런 소칼, 장 브리크몽 지음 ; 이희재 옮김, 『지적 사기: 포스트모던 사상가들은 과학을 어떻게 남용했는가』, 서울: 한국경제신문 한경BP, 2014. 正統な近代性の立場からの批判も高まっている。 정일권, 『르네 지라르와 현대 사상가들의 대화: 미메시스 이론, 후기구조주의 그리고 해체주의 철학』, 서울: 동연, 2017.
이정우, 『세계철학사 3: 근대성의 카르토그라피 』, 서울: 길, 2021; 이정우, 『세계철학사 4: 탈근대 사유의 지평들』, 서울: 길, 2024.
앨런 소칼, 장 브리크몽 지음 ; 이희재 옮김, 『지적 사기: 포스트모던 사상가들은 과학을 어떻게 남용했는가』, 서울: 한국경제신문 한경BP, 2014.
정일권, 『르네 지라르와 현대 사상가들의 대화: 미메시스 이론, 후기구조주의 그리고 해체주의 철학』, 서울: 동연, 2017.
近代が前時代に比して成し遂げた発展と、近代以後の変化、すなわち脱近代理論家が主張する「近代性」と「脱近代性」の差異を要約すると〈表1〉のようになるという。本稿において「脱近代性」は「脱現代性」と同一に用いられる。
ポストモダニズム論争は一九六八年五月のフランス学生運動から触発され、一九九〇年代の韓国においても大いに活性化する。ポストモダニズム論争は、ヨーロッパ、とりわけフランスにおいてサルトルの実存主義(Existentialism)とレヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)の構造主義(Structuralism)の論争から始まったが、その後この論争はサルトルの実存主義に代表される近代的合理性と共産主義に対する批判へとつながり、後期構造主義(post-structuralism)理論のような現代哲学の巨大な流れを形成した。後期構造主義は、構造の変化可能性をより柔軟に捉える第二世代の構造主義である。大きな範疇では代表的理論家としてラカン、フーコー、デリダなどを挙げることができる。
후기구조주의는 구조의 변화 가능성을 보다 유연하게 간주하는 2세대 구조주의이다. 큰 범주에서 대표적 이론가로 라깡, 푸코, 데리다 등을 들수 있다.
〈表1〉中世・現代・脱現代概観 이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」 『동학학보』 10, 2005, p.11.
이도흠, 「탈현대 사상으로서 동양 철학의 가능성과 한계」 『동학학보』 10, 2005, p.11.
中世/現代/脱現代 上部構造/神中心/人間中心/生態論的パラダイム 神聖の支配/理性と合理性の原則/理性中心主義の解体 神が真理/真理の絶対性と普遍性/真理の相対性・不可知性 迷信と呪術/科学/科学(的真理)の不確定性 善、または神が美/芸術の世俗化と自己目的性の追求/芸術の異種性・混種性と解体 神に従属した自我/主体/相互主体性 生の空間/現実/シミュラシオン ローマと中国中心主義/ヨーロッパ中心主義/世界化と地域化 中心の文字/国家の文字/イメージ 土台 封建体制/資本制/後期資本制 前産業社会/産業社会/脱産業社会
中世
現代
脱現代
上 部 構 造
神 中心
人間 中心
生態論的パラダイム
神聖の支配
理性と合理性の原則
理性中心主義の解体
神が真理
真理の絶対性と普遍性
真理の相対性、不可知性
迷信と呪術
科学
科学(的真理)の不確定性
善、または神が美
芸術の世俗化と自己目的性の追求
芸術の異種性、混種性と解体
神に従属した自我
主体
相互主体性
生の空間
現実
シミュラシオン
ローマと中国中心主義
ヨーロッパ中心主義
世界化と地域化
中心の文字
国家の文字
イメージ
土
台
封建体制
資本制
後期資本制
前産業社会
産業社会
脱産業社会
脱近代性の議論がますます重要になる理由は、画期的な発展を成し遂げた近代がかえってより大きな危険として人類に迫ってきたからである。これに対して、近代性批判に注力した脱近代性論に関する研究のみならず、代案的近代性に関する研究も数多くなされた。代案的近代性に関する研究は、脱近代性論のように理論的模索よりも、西欧とは異なる文化圏に現れた近代性の歴史に注目する多元的近代性(multiple modernity)概念を中心になされた。多元的近代性は代案的近代性と区別される。多元的近代性論は、一九九八年に学術誌『Daedalus』の"early modernities"特集号で初めてその陣容を現したという。アイゼンシュタット(Shmuel N. Eisenstadt, 1923-現在)、ウィトロック(Björn Wittrock, 1945-現在)、アルナソン(Johann Páll Árnason, 1940-現在)など比較歴史社会学者がこの立場を代表するという。 Eisenstadt, Shmuel N. and Schluchter, Wolfgang, “Introduction: Paths to Early Modernities: A Comparative View”, Daedalus 127(3), 1998. pp.1-18 등 Eisenstadt(2002), Eisenstadt, Riedel, Sachsenmaier(2002), Wittrock(1998), Anarson(2001), Kaya(2004), Hung (2004). 쉬무엘 N. 아이젠스타트 지음 ; 임현진 [외]옮김, 『다중적 근대성의 탐구: 비교문명적 관점 』, 파주: 나남, 2009; 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp.35-36에서 재인용; S. N. Eisenstadt, Multiple modernities. New Brunswick, N.J.: Transaction Publishers, 2002; Johann P. Arnason, Sternberg, Yitzhak and Ben-Rafael, Eliezer, “Identity, Culture and Globalization.” The Multiplication of Modernity. Brill. 2001; B. Wittrock, “Early modernities: Varieties and transitions.” Daedalus 127(3), 1998; I. Kaya, “Modernity, openness, interpretation: a perspective on multiple modernities”, Social science information 43(1), 2004; Hung, “Early modernities and contentious politics in mid-Qing China, c. 1740–1839.” International Sociology 19(4), 2004. 一方、代案的近代性論は、文化理論、文芸・政治批評、人類学など多様な領域から提起されているという。 Appadurai(1996), Gilroy(1993), Ong(1999), Gaonkar ed.(2001). 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp.35-36에서 재인용; A. Appadurai, Modernity at large: Cultural dimensions of globalization. Minn.: University of Minnesota Press, 1996; P. Gilroy, The black Atlantic: Modernity and double consciousness. Harvard University Press, 1993; A. Ong, Flexible citizenship: The cultural logics of transnationality. Duke University Press, 1999.
Eisenstadt, Shmuel N. and Schluchter, Wolfgang, “Introduction: Paths to Early Modernities: A Comparative View”, Daedalus 127(3), 1998. pp.1-18 등 Eisenstadt(2002), Eisenstadt, Riedel, Sachsenmaier(2002), Wittrock(1998), Anarson(2001), Kaya(2004), Hung (2004). 쉬무엘 N. 아이젠스타트 지음 ; 임현진 [외]옮김, 『다중적 근대성의 탐구: 비교문명적 관점 』, 파주: 나남, 2009; 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp.35-36에서 재인용; S. N. Eisenstadt, Multiple modernities. New Brunswick, N.J.: Transaction Publishers, 2002; Johann P. Arnason, Sternberg, Yitzhak and Ben-Rafael, Eliezer, “Identity, Culture and Globalization.” The Multiplication of Modernity. Brill. 2001; B. Wittrock, “Early modernities: Varieties and transitions.” Daedalus 127(3), 1998; I. Kaya, “Modernity, openness, interpretation: a perspective on multiple modernities”, Social science information 43(1), 2004; Hung, “Early modernities and contentious politics in mid-Qing China, c. 1740–1839.” International Sociology 19(4), 2004.
Appadurai(1996), Gilroy(1993), Ong(1999), Gaonkar ed.(2001). 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp.35-36에서 재인용; A. Appadurai, Modernity at large: Cultural dimensions of globalization. Minn.: University of Minnesota Press, 1996; P. Gilroy, The black Atlantic: Modernity and double consciousness. Harvard University Press, 1993; A. Ong, Flexible citizenship: The cultural logics of transnationality. Duke University Press, 1999.
さらにこれらの論者は、今日の近代性は西欧的近代性を含む地球的近代性(global modernity)として理解されるべきであり、これは中国の宋の事例に見られるように、複数の文明の相互交流による重層的近代性(Multilayered Modernities)であるという。すなわち、西欧的近代性が存在する以前に原型近代性(proto modernity)があり、西欧的近代性以後に植民・被植民近代性(colonizing-colonized modernity)があった後、今日の地球近代性という重層近代性となったという。 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, p.41. 近代性を西欧でのみ始まったと見るヨーロッパ物神主義(fetishism of European modernity)は、今日、代案的近代性の構築に大きな障害となるという論旨である。
김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, p.41.
代案的近代性論者は、デカルト式合理性を中心とする西欧的近代性の代案モデルとして統摂(統攝, encompass)モデルを提案する。統摂は、ウィルソン(Edward Osborne Wilson, 1929-2021)が提案した生物学的統摂ではなく、聖(聖)と俗(俗)の境界を転換する宗教社会学的近代性モデルである。統摂とは、中心が外部を排除せずに包含しつつ統制することである。近代性とは、枢軸時代(Axial Age) 枢軸時代とは、奇しくもほぼ同時代に聖人が出現し、世界が宗教を中心とする文明に進入した紀元前八〇〇~二〇〇年の間を指す言葉で、ヤスパース(Karl Jaspers, 1883-1969)が初めて用いた。 以後、聖(聖)が俗(俗)を統摂した「統摂1」から、俗(俗)が聖(聖)を統摂する「統摂2」への転換を意味する。統摂2もまた、統摂の過程において聖(聖)が統制の座から退いただけであって、消えたのではなく、むしろより重要になったのである。この統摂理論は、カルヴァンの予定説などウェーバーの西欧的近代性に対する説明や、西欧的近代性ではない性理学を通じた宋の初期近代的発展もよく説明することができる。聖(聖)と俗(俗)の再配置を通じた神性(神性)の強化である聖(聖)と俗(俗)の統摂関係は、宗教社会学が説明するとおり人類普遍の現象だからである。聖と俗の再配置を通じた神性の強化による歴史の発展は、中国思想史に隠された発展公式であるという(왕후이 지음, 박자영, 최정섭, 진성수 외 3인 옮김, 『근대중국사상의 흥기』, 파주: 돌베개, 2024)。
기축시대는 공교롭게 거의 동시대에 성인들이 출현하여 세계가 종교를 중심으로 하는 문명에 진입한 기원전 800-200년 사이를 지칭하는 말로 야스퍼스((Karl Jaspers, 1883-1969)가 처음 사용하였다.
성과 속의 재배치를 통한 신성의 강화를 통한 역사의 발전은 중국사상사에 숨겨진 발전공식이라고 한다.(왕후이 지음, 박자영, 최정섭, 진성수 외 3인 옮김, 『근대중국사상의 흥기』, 파주: 돌베개, 2024)
統摂は合理化の裏面にある宗教化を説明してくれ、いまだよく理解されていない東西の近代性において儒教が果たした相反する役割をよく説明してくれる。ウェーバーと同時代を生きた中国の代表的近代化理論家である梁啓超(梁啓超, 1873-1929)が儒教を通じた中国近代化を試みたが失敗した原因は、その代表的な例である。西洋の近代的合理性は内面に宗教性を統摂した近代性であることを知らずに、宗教性を脱色した儒教で近代性を成し遂げようとしたことが梁啓超の儒教的近代化が失敗した原因であった、というウェーバーの指摘は正確であったという。 김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp 33-79; 172-182.
김상준, 『맹자의 땀 성왕의 피: 중층근대와 동아시아 유교문명』, 서울: 아카넷, 2011, pp 33-79; 172-182.
多元的近代性は東学にも適用できるという。東学は、壬辰倭乱以後、丁若鏞に至るまでの朝鮮の「全国民の両班化」思潮の決定版として解釈することができる。東学と西欧近代性の嚆矢となった宗教改革との類似性は、多くの学者によって指摘されてきた。近代性が俗(俗)が聖(聖)を統摂する統摂の転換であるとすれば、東学思想は代案的近代性として理解することができる。実際、百二十年余り前の東学思想以後に現れた大巡思想においては、こうした近代がかえって人類に大きな脅威と災厄となることを予見していた。 『전경』「교운」 1-9.
『전경』「교운」 1-9.
百二十年余り後、近代性は実際に現代の人類絶滅の危機の原因として指摘され、再定立の解決策を見いだすために数多くの研究が進められた。脱近代性の議論は、いまやベックなど近代性に対する反省を強調する省察的近代性や、 울리히 벡 지음, 홍성태 옮김, 『위험사회: 새로운 근대(성)를 향하여』, 서울: 새물결, 1997. 意思決定を妨げる過程的で流動的な特性を強調するバウマン(Zygmunt Bauman, 1925-2017)の液体近代性(Liquid Modernity)としても議論される。 지그문트 바우만, 『액체근대』, 서울: 강, 2009. いまやポストモダニズム(Postmodernism)はヨーロッパ大陸と英米思想界の主流思想の一つとなった。しかし、世界の社会科学の代表的知性であるハーバーマス(Jürgen Habermas, 1929-現在)が述べたように、多くの研究にもかかわらず、いまだ近代は後期近代を論じることができない未完のプロジェクトであり、再定立の対象である。 김덕영, 『환원근대: 한국 근대화와 근대성의 사회학적 보편사를 위하여』, 서울: 길, 2014, p.41. 実際、「近代(modern)」という語の語源をたどると、近代性そのものが近代と脱近代の意味を同時に持ちうる。
울리히 벡 지음, 홍성태 옮김, 『위험사회: 새로운 근대(성)를 향하여』, 서울: 새물결, 1997.
지그문트 바우만, 『액체근대』, 서울: 강, 2009.
김덕영, 『환원근대: 한국 근대화와 근대성의 사회학적 보편사를 위하여』, 서울: 길, 2014, p.41.
近代性(Modernity)の語源であるモード(mode)は「いま、ここ」であると、オックスフォード辞典は規定している。長きにわたる論争にもかかわらず、その語源の由来はいまだ明確でないのが実情である。近代性に対する多くの理論があったが、いざ、なぜ中世に対する新たな思潮を近代性(Modernity)という名で名づけたのかは、いまだ明らかにされていない。ただ、ローマ時代以前から使われてきた「いま、ここ」という意味のmodeが、漢字の「巫(mu)」とも関係するキリスト教以前の霊知主義(グノーシス)の伝統と関係しているがゆえに、キリスト教に対する対抗文化として出発した近代が、対抗性を強調するために採用したという理論がある。 박용숙, 『천부경 81자 바라밀』, 파주: 소동, 2018. 近代性と脱近代性は今日の現実において重畳して現れるため、「いま、ここ」は近代性と脱近代性の両方を意味しうる。ひとまず、近代性(Modernity)の語源は、近代性そのものが「近代」と「脱近代」の意味を同時に持ちうることを示している。
박용숙, 『천부경 81자 바라밀』, 파주: 소동, 2018.
本稿は、代案的近代性、多元的近代性、脱近代性、重層近代性、省察的近代性、液体近代性などを総合しうる近代性概念として、自生的近代性(Autogenous Modernity)に注目しようとする。自生的近代性とは、われわれの伝統に近代性があり、西洋の近代性に対して、われわれの伝統を生かした近代性があったということである。ウェーバーを克服した近代に対する意識と西欧的視角を脱すれば、歴史に立脚した客観的視角から、東学思想と大巡思想において自生的近代性を見いだすことができる。バーマン(Harold J. Berman)の先駆的な方式を考察することが有用である。彼は一九八三年に西欧の法律的伝統の形成に関する研究書を著したことがある。彼によれば、われわれが過去を改めて叙述する際には「マルクスとウェーバーを超えねばならず」、また多様な西欧の民族主義の誤り、宗教的先入観、そして一九世紀の歴史的唯物論および理念型分析などを克服せねばならないという。例えば地域名称の場合もそうである。東アジア、東南アジアの区分は歴史的実際と内的論理構造によるものではなく、第二次世界大戦以後のアメリカの戦略的地域構図による恣意的区分であって、これは下手をすると知的探求を麻痺させかねない誤った慣行となりうる。 알렉산더 우드 사이드 지음, 민병희 옮김, 『잃어버린 근대성들』, 너머북스, 2012년, p.18.; 김덕삼, 이경자, 최원혁, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, 2014, pp.115-142. 日本と中国の場合、京都学派(京都學派)や汪暉などによって試みられ、広く知られてきた。 왕후이 지음, 백원담 옮김, 『근대중국사상의 흥기』, 파주: 돌베개, 2024.; 이종민, 『중국 사상과 대안 근대성: 왕후이의 『근대 중국 사상의 흥기』 읽기와 쓰기』, 서울: 현암사, 2017.
버먼(Herold J. Berman)의 선구적 방식을 살펴보는 것이 유용하다. 그는 1983년에 서구의 법률적 전통의 형성에 대한 연구서를 낸 바 있다. 그에 따르면, 우리가 과거를 다시 서술할 때는 “마르크스와 베버를 넘어서야 하고” 또한 다양한 서구의 민족주의의 오류, 종교적 선입견 그리고 19세기의 역사적 유물론 및 이상형 분석 등을 극복해야한 한다. 예를 들어 지역 명칭의 경우도 그렇다. 동아시아, 동남아시아의 구분이 역사적 실제와 내적 논리 구조에 의한 것이 아니라, 2차 세계대전 이후 미국의 전략적 지역구도에 의한 자의적 구분으로서 이는 잘못하면 지적인 탐구를 마비시킬 수 있는 잘못된 관행이 될 수 있다. 알렉산더 우드 사이드 지음, 민병희 옮김, 『잃어버린 근대성들』, 너머북스, 2012년, p.18.; 김덕삼, 이경자, 최원혁, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, 2014, pp.115-142.
왕후이 지음, 백원담 옮김, 『근대중국사상의 흥기』, 파주: 돌베개, 2024.; 이종민, 『중국 사상과 대안 근대성: 왕후이의 『근대 중국 사상의 흥기』 읽기와 쓰기』, 서울: 현암사, 2017.
西洋において近代性は、宗教改革など宗教の世俗化を通じて、教会権力によって失われた個人の自由を取り戻し、産業化を成し遂げさせた概念であり、東洋において近代性は、たとえ西欧によって数多くの被害を被ったとはいえ、非合理的な抑圧から民衆を解放した概念であった。したがって、近代性を論じる際、西洋では主に宗教改革、産業革命を通じた脱呪術性(dis-enchantment)を強調し、東洋では主に自生性、すなわち民族主義運動を強調してきた。近代性の象徴とも言える二〇世紀のモダニズムもまた、日常的に最も明確に現れる美術分野においても、一六世紀から本格化した極東アジア文化のヨーロッパ伝播による文化的変種として解釈される(유현준, 『모더니즘: 동서양 문화의 하이브리드』, 서울: 미세움, 2008, pp.73-92)。西欧近代性の東洋的起源を主張する学者は、重層近代性に対してさえも、西洋の近代性そのものがすでに極東アジア文化のヨーロッパ伝播による文化的変種であるため、現実を説明しうる十分な近代性概念ではないという。
근대성의 상징이라 할 수 있는 20세기 모더니즘 또한 일상적으로 가장 명확하게 드러나는 미술 분야에서도 16세기부터 본격화한 극동아시아 문화의 유럽전파에 의한 문화적 변종으로 해석된다. (유현준, 『모더니즘: 동서양 문화의 하이브리드』, 서울: 미세움, 2008, pp.73-92). 서구 근대성의 동양적 기원을 주장하는 학자들은 중층 근대성에 대해서마저도 서양의 근대성 자체가 이미 극동아시아 문화의 유럽전파에 의한 문화적 변종이므로 현실을 설명할 수 있는 충분한 근대성 개념이 아니라고 한다.
自生的近代性もまた、近代性と脱近代性という二つの性格が同時に現れる。西欧以外の地域が圧縮的近代を成し遂げた物質的近代化のように、代案的近代性もまた近代性と脱近代性を圧縮的に構築する。脱近代性理論家は、西洋に求める脱近代性よりも、西欧以外の地域に現れる自生的近代性が代案的近代性としてより適合しうるという。これを「外部の思惟」と称し、構造主義以後の脱近代理論の主要な根拠となった。さらに、近年強調される西欧近代性の東洋的起源は、脱近代性としての多元的近代性、すなわち自生的近代性にいっそう注目させる。新科学以後、多くの研究者が近代性の代案を実際に東洋思想に求めてきた。ポストモダニズムの登場以後、科学分野のみならず人文・社会科学まで拡大し、とりわけ近代性と脱近代性は東西の宗教思想が出会う接点を成してきた。近代性は中世および脱近代性と比較され、その特性が常に明確に現れる。
多元的近代性の統摂理論や省察的近代性理論のように、今日の近代性は省察、すなわち限界を脱しようとする力、つまり聖と俗の境界、すなわちリミナリティの問題となる。とりわけ東洋の場合、東洋哲学の思惟方法論である相関的思惟のリミナリティの問題となる。究極的なリミナリティは、聖と俗において聖を選び取ろうとする意志 윤승용, 「신종교의 반구조(communitas)적 성격에 관한 소고: 조선 말기 종교현상을 중심으로」, 서울대 석사학위논문, 1982. となる。人間は絶えず俗を脱して聖を求めようとするため、究極的実在を求める宗教が生まれる。
윤승용, 「신종교의 반구조(communitas)적 성격에 관한 소고: 조선 말기 종교현상을 중심으로」, 서울대 석사학위논문, 1982.
これと関連して、今日の韓国の近代性は東学に求められている。 이선민, 『한국의 자주적 근대화에 관한 성찰』, 파주: 나남, 2021; 조혜인, 『동에서 서로 퍼진 근대 공민사회』, 파주: 집문당, 2013.; 황태연, 『유교적 근대의 일반이론』, 서울: 한국문화사, 2023. 東学から初めて韓国に国民国家の概念が生まれたというのである。しかし、この東学から始まる近代性概念は論争が多い。植民地近代化論者は東学をイデオロギーとみなした。植民地近代化論者にとって東学は、ただ力なき民衆の抵抗にすぎない。 이선민, 『한국의 자주적 근대화에 관한 성찰』, 파주: 나남, 2021. 内在的発展論者にとって東学は近代の萌芽の発露であるが、思想的背景はない。しかし東学は、東洋思想の内在性、すなわち「宇宙の原理が身に備わっているがゆえに、民心はすなわち天心である」という思想に基づく東洋の自生的近代性、すなわち相関的思惟のリミナリティと関係する。東学という用語を用いたことは、東学独特の問題意識を表現したものと言える。運則一(運則一)、道則同(道則同)、理則非(理則非)なり。運は一であり、道は同じであるが、理は異なる。西学には元亨利貞の理がないと水雲は批判する。元亨利貞という全一的な理がなく、状況に合わせて真理を捉えるために中心がないという西学の弱点を、水雲は鋭く指摘する(배영순, 「동학과 서학의 차별성 문제: "運則-道則同 理則非"를 중심으로」, 대구사학』 73, 대구사학회, 2003, pp.203-210)。崔水雲は『東経大全』「論学文」において、西洋は分析的であるがゆえに状況に応じて言葉が変わり、神を信じるようでいて信じないために、結局は虚無に陥ると述べる。西洋の帝国主義に対抗した全世界の文明のうち、唯一、韓国の東学のみが、ニスベットのように学問の方法論を抵抗の主要な主題とした。これまで東学は民衆抵抗運動の観点からのみ研究されてきたため、パラダイムと思惟方法論という内在性の立場から新たに議論される必要がある。伝統と同様に、近代性においても均衡のとれた観点が必要である。 김덕삼, 최원혁. 이경자, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, 2014, pp.115-142.
이선민, 『한국의 자주적 근대화에 관한 성찰』, 파주: 나남, 2021; 조혜인, 『동에서 서로 퍼진 근대 공민사회』, 파주: 집문당, 2013.; 황태연, 『유교적 근대의 일반이론』, 서울: 한국문화사, 2023.
이선민, 『한국의 자주적 근대화에 관한 성찰』, 파주: 나남, 2021.
동학이란 용어를 쓴 것은 동학의 독특한 문제의식을 표현한다 할 수 있다. 운즉일(運則一), 도즉동(道則同), 이즉비(理則非)야. 운은 하나이고 도는 같으나 이는 다르다. 서학은 원형이정의 이치가 없다고 수운은 비판한다. 원형이정이라는 전일적 이치가 없이 상황에 맞게 진리를 간주하므로 중심이 없다는 서학의 약점을 수운은 예리하게 지적한다. (배영순, 「동학과 서학의 차별성 문제: "運則-道則同 理則非"를 중심으로」, 대구사학』 73, 대구사학회, 2003, pp.203-210) 최수운은 『동경대전』「논학문」에서 수운은 서양은 분석적이라 상황에 따라 말이 달라지고 신을 믿는 듯하나 믿지 않기 때문에 결국 허무에 빠진다고 한다. 서양의 제국주의에 대항한 전 세계의 문명 중 유일하게 한국의 동학만이 니스벳과 같이 학문의 방법론을 저항의 주요 주제로 삼았다. 지금까지 동학은 민중 저항운동의 관점에서만 연구되었기에 패러다임과 사유 방법론이라는 내재성의 입장에서 새로 논의될 필요가 있다.
김덕삼, 최원혁. 이경자, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, 2014, pp.115-142.
この点に注目し、本稿は、東学思想を哲学的思惟方法として研究する既存の先行研究を「伝統の連続と変化」という側面から通時的に提示し、 정재식, 『전통의 연속과 변화』, 서울: 아카넷, 2004. 東学思想の哲学的思惟方法論を深層的な方法で理解し、これを通じて東学思想と大巡思想が提示した自生的近代性の脈絡と妥当性を理解しようとする試みである。
정재식, 『전통의 연속과 변화』, 서울: 아카넷, 2004.
かつて大巡思想は、東洋を排除した歪曲された西洋近代性概念による人類絶滅の危機を、百二十年余り前に予測した。ウェーバーは、プロテスタントの清教徒精神によって始まった初期資本主義と、今日の経済的能率にのみ集中した現代資本主義は区分されるという(대니얼 팰스 지음, 조병련, 전중현 공역, 『종교에 대한 여덟 가지 이론들』, 고양: 한국기독교연구소, 2013)。近代性の特徴である資本主義の性格が変わったというウェーバーの指摘は正しいが、資本主義が西洋のキリスト教的立場からのみ発生しうるというウェーバーの理論は、今日の東洋による西洋の追い越しによって理論的にも実践的にも論破された(토마스 메츠거, 『곤경의 탈피: 주희·왕양명부터 탕쥔이·펑유란까지 신유학과 중국의 정치문화』, 민음사, 2014, pp.62-65)。大巡思想が提示した、東西が融合した解冤相生の近代性概念は、近代性概念の再定立問題に対する新たな解決策として注目される。 고남식, 「수운과 증산의 민족주의적 요소 비교」, 『신종교연구』 26, 한국신종교학회, 2012; 이경원 , 「대순진리의 근대성과 변혁사상」, 『동학학보』10집, 동학학회, 2005. また、韓流が世界的ブームを巻き起こしているのは、大巡思想によく現れているような韓国宗教哲学だという分析もある(박종현, 「한류 문화 현상의 종교철학적 기원과 분석」, 『신학논단』 76, 연세대학교 신과대학 연합신학대학원, 2014)。大巡思想が提示した近代性概念は、他の東洋思想と同様に、西洋科学が最先端へと発展した今日になってようやくその真意が明らかにされつつある。当時、西洋の物質文明によって華やかに包装された西洋の近代性に隠れ、大巡思想が東西の思想を総合して提示した近代性はほとんど理解されなかった。西洋の近代性が現代の危機の震源地となり、ポストモダニズムなど数多くの近代性再定立の努力によって、西洋の人文・社会・自然科学の全領域において存在論・認識論・価値論の新科学的転換が起こり、新科学の次の段階として東洋学が提示されるにつれ、理解の糸口が生まれたのである。 전수준, 『신과학에서 동양학으로』, 서울: 대원출판, 1995. pp.281-283.
베버는 개신교의 청교도정신에 의해 시작된 초기자본주의와 오늘날 경제적 능률에만 집중된 현대 자본주의는 구분된다고 한다.(대니얼 팰스 지음, 조병련, 전중현 공역, 『종교에 대한 여덟 가지 이론들』, 고양: 한국기독교연구소, 2013) 근대성의 특징인 자본주의의 성격이 바뀌었다는 베버의 지적은 옳지만 자본주의가 서양의 기독교적 입장에서만 발생할 수 있다는 베버의 이론은 오늘날 동양의 서양 추월로 이론적으로도 실천적으로도 논파되었다.(토마스 메츠거, 『곤경의 탈피: 주희·왕양명부터 탕쥔이·펑유란까지 신유학과 중국의 정치문화』, 민음사, 2014, pp.62-65)
고남식, 「수운과 증산의 민족주의적 요소 비교」, 『신종교연구』 26, 한국신종교학회, 2012; 이경원 , 「대순진리의 근대성과 변혁사상」, 『동학학보』10집, 동학학회, 2005. 또 한류가 세계적 붐을 일으키는 것은 대순사상에 잘 나타난 것과 같은 한국 종교철학이라는 분석도 있다. (박종현, 「한류 문화 현상의 종교철학적 기원과 분석」, 『신학논단』 76, 연세대학교 신과대학 연합신학대학원, 2014)
전수준, 『신과학에서 동양학으로』, 서울: 대원출판, 1995. pp.281-283.
西欧近代性と自生的近代性の東洋的共同起源
非西欧文明のうち唯一、東アジア三国が西欧を凌駕する経済成長を成し遂げた今日、停滞した文明として東アジアを評価していた過去とは異なり、西欧の近代がかえって東洋の影響を受けたという研究が続出している。最近の東アジア文化研究の成果に従い、これまで旧時代の独自の遺産程度とみなされてきた近現代韓国の自生的近代性もまた、再評価を受けている。 주겸지 지음, 전홍석 옮김, 『중국이 만든 유럽의 근대- 근대 유럽의 중국문화 열풍 』, 청계, 2003.
주겸지 지음, 전홍석 옮김, 『중국이 만든 유럽의 근대- 근대 유럽의 중국문화 열풍 』, 청계, 2003.
漢字を知らなかったウェーバーとは異なり、漢字を知り、ウェーバーの方法を適用してウェーバーとは正反対の結論を導き出したメッツガー(Thomas A. Metzger, 1933-現在)の研究を見ると、東洋の「自生的近代性」を理解し始めたように思われる。 토마스 메츠거, 『곤경의 탈피: 주희·왕양명부터 탕쥔이·펑유란까지 신유학과 중국의 정치문화』, 민음사, 2014. 最近、西欧近代文化の東洋影響説と関連して明らかにされつつある東洋的近代性の萌芽は、韓国の自生的近代性と伝統を再構成させる要素である。また、ジュリアン、フランク、ホブソン、クリール、ウッドサイド(Alexander Woodside, 1938-現在)など西欧の学者が東洋文化の近代性を東洋的視角から解釈することも、韓国の自生的近代性と伝統を再考察させる要因である。 김덕삼, 최원혁, 이경자, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, pp.115-142.
토마스 메츠거, 『곤경의 탈피: 주희·왕양명부터 탕쥔이·펑유란까지 신유학과 중국의 정치문화』, 민음사, 2014.
김덕삼, 최원혁, 이경자, 「근현대 패러다임의 전환과 내재성에 대한 고찰-전통과 근대에 대한 한국적 재고(再考)를 중심으로」 『인문과학연구』 23, pp.115-142.
東学関連思想が当時の世界の他の宗教運動と区別されて現れる特徴は、西欧近代性に対する東洋的起源を主張した点である。東学において「東学」「再びの開闢」のような間接的表現で現れた西欧近代性に対する東洋的起源は、真東学を主張した大巡思想においては、東洋の文明神と道通神を西洋へとそれぞれ移動させたというマテオ・リッチ 『전경』「교운」 1-9; 안신, 「마테오 리치와 대순사상의 관계성에 대한 연구: 대순사상의 기독교 종장에 대한 종교현상학적 해석」, 『대순사상논총』 36, 2020, と震默 『전경』「공사」 3-15; 김태수, 「『진묵조사유적고』와 『전경』에 나타난 진묵 설화의 차이에 대한 재해석: 문헌 전승과 구전 전승의 차이를 중심으로」, 『대순사상논총』 41, 2022, 大師の事例として明確に現れる。東学思想が成立する当時にも、中国では西洋学問の起源が中国から始まったという西学中源論が勢いを得ており、韓国でも徐命膺以後さらに発展していた。 이봉호, 『정조의 스승, 서명응의 철학(서양 과학에 대한 조선학자의 대응)』, 고양: 동과서, 2013.
『전경』「교운」 1-9; 안신, 「마테오 리치와 대순사상의 관계성에 대한 연구: 대순사상의 기독교 종장에 대한 종교현상학적 해석」, 『대순사상논총』 36, 2020,
『전경』「공사」 3-15; 김태수, 「『진묵조사유적고』와 『전경』에 나타난 진묵 설화의 차이에 대한 재해석: 문헌 전승과 구전 전승의 차이를 중심으로」, 『대순사상논총』 41, 2022,
이봉호, 『정조의 스승, 서명응의 철학(서양 과학에 대한 조선학자의 대응)』, 고양: 동과서, 2013.
中国の五・四革命以来、東洋の伝統的学問は非合理的な前近代性の学問として罵倒されたが、当時ヨーロッパにおいても東洋の伝統的学問を否定したのは、わずか百年余りにも満たない現象であった。むしろヨーロッパにおいては、マテオ・リッチ以後、啓蒙の時期に至るまで、いわゆる「中国熱風」と称されたように、ヴォルテール(Voltaire, 1694-1778)、アダム・スミス(Adam Smith, 1723-1790)、ルソー(Jean-Jacques Rousseau, 1712-1778)など、今日の近代思想の起源を成した学者たちは異口同音に、マテオ・リッチが伝来した中国思想に自らの主張の根拠を求めた。ヨーロッパが中国文明を前近代的と見るようになったのは、啓蒙主義以後、植民地支配が始まってからのことであった。今日公開された当時の記録は、隠蔽されていた西欧近代性の東洋的起源を明確に示している。 황태연, 『유교적 근대의 일반이론: 서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화 』, 서울: 한국문화사, 2023.
황태연, 『유교적 근대의 일반이론: 서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화 』, 서울: 한국문화사, 2023.
当時の記録を見ると、宗教がなくともヨーロッパより道徳的な中国社会は、宗教の不在が道徳性の堕落につながるという名分のもと、宗教戦争という骨肉相争いさえ辞さなかったヨーロッパ社会には、優れた代案として現れた。科挙制という自由・平等の基本的な機会すらなかった当時、キリスト教的伝統の強かったヨーロッパでは、中国の世俗化された合理的な伝統を、皇帝の専制的属性という副作用なしに受容しうる土壌が整っていた。 소건생 지음, 조경희, 임소연 옮김, 『송나라의 슬픔』, 파주: 글항아리, 2021. 実際、今日の近代性を代表するスミスの見えざる手(invisible hand)、ルソーの天賦人権説(Natural Right)は、当時中国文明を研究していたヨーロッパの知識人が東洋思想から着想を得て開発した概念であるという。 황태연, 『공자와 세계: 패치워크문명 시대의 공맹 정치철학』, 파주: 청계, 2011; 황태연, 『유교적 근대의 일반이론: 서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화』, 서울: 한국문화사, 2023.
소건생 지음, 조경희, 임소연 옮김, 『송나라의 슬픔』, 파주: 글항아리, 2021.
황태연, 『공자와 세계: 패치워크문명 시대의 공맹 정치철학』, 파주: 청계, 2011; 황태연, 『유교적 근대의 일반이론: 서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화』, 서울: 한국문화사, 2023.
ウェーバーが合理性を人類の普遍的価値である近代性として定義するに至った出発点は、ヘーゲルの絶対理性(Absolute Geist)であるように思われる。「普遍的」という語の語源は「カトリック(catholic)」に由来するだけに、西欧においては非常に伝統的な問題であったように思われる。西洋はキリスト教を「カトリックcatholic」と称して普遍の真理としたが、中世の数多くの矛盾を経験した。再び近代に至って普遍性を再定立しようとする西洋の努力が、デカルトを始まりとする西洋近代思想であったと言える。ヘーゲルは、デカルトとカントへとつながる系譜にあるのである。
ウェーバーが発見した合理性は、弁証法を通じて自ら発展していくヘーゲルの普遍的価値あるいは絶対理性を念頭に置いたものと思われる。ヘーゲルは、西欧近代社会を最も発展した近代社会と仮定し、その下に東洋社会などを置き、原始社会から西欧近代社会に至るまでの過程を弁証法的に説明する。東洋社会を西洋社会より絶対精神が発展していない社会と見なすヘーゲルの観点をウェーバーは受容し、東洋社会を前近代社会あるいは家産官僚体制と指摘したのであり、これがウェーバーの東洋社会論となる。
ウェーバーの東洋社会論が今日重要であるのは、ウェーバーの理論が現在に至るまで、今日の東洋社会を見る西欧の視角、あるいは西欧の影響が支配的な東洋社会において東洋の知性人が東洋社会を見る基本的な視角であると言えるからである。ウェーバーが東洋社会論を主張してすでに百年余りになろうとしているが、いまだウェーバーの理論に対する思惟方法論を中心とする反論がないということは、自生的近代性を論じる地点においては第一の出発点とならざるをえない。
メッツガーはウェーバーの理論を適用したが、ウェーバーとは異なり、東洋人こそがプロテスタントのような緊張感を持っていたと主張する。憂患意識として現れた世界に対する東洋人の緊張感は、西洋の民主主義思想が入ってきた際に民主主義の実現のために身を投じた人々の面々のうちに見て取ることができる。東洋の観点からすれば、民主主義は下からの革命というよりは官僚主義の拡大であり、官僚主義の拡大は内聖外王の過程であるため、官僚主義の拡大こそが真の歴史発展である。今日の東アジアの独歩的発展は、東アジアの観点が妥当であることを証明してくれる。実際、東学思想は性理学に対する宗教改革の性格を持ち、実際に朝鮮社会は西欧市民社会よりもいっそう市民社会的な性格が強かったという研究もある。 조혜인, 『동에서 서로 퍼진 근대 공민사회: 유교 예치(禮治) 및 자유 관념의 발전과 서구에의 전파』, 파주: 집문당, 2013.; 조혜인, 『상처받은 절개, 날개접은 발전: 유교적 유산과 한국 자본주의의 부침』, 파주: 나남출판 , 2007.
조혜인, 『동에서 서로 퍼진 근대 공민사회: 유교 예치(禮治) 및 자유 관념의 발전과 서구에의 전파』, 파주: 집문당, 2013.; 조혜인, 『상처받은 절개, 날개접은 발전: 유교적 유산과 한국 자본주의의 부침』, 파주: 나남출판 , 2007.
メッツガーの理論を適用してみると、東洋社会こそがより近代性に近い社会となる。であるならば、東洋社会はなぜ西洋より先に近代化が成し遂げられなかったのか。東洋はなぜ西洋より早くに近代思想が芽生えることができたのかを考察することが鍵となる。メッツガーのように、ウェーバーの言う憂患意識が西洋より東洋が先んじていたにもかかわらず、東洋が西洋より近代化が遅く起こった理由は、東洋文化が持つ共感の強調と関係がある。東洋文化は共感を通じて近代性においては先んじたが、近代性を産業化した近代化においては西欧に後れをとったわけである。
ウェーバーが主張した東洋社会論をさらに集約してみると、東洋には合理性がない、言い換えれば一貫性がない、ということに要約される。ウェーバーがここで言う一貫性とは、カントの影響が支配的であったドイツ社会において言われるカント式の一貫性をいう。ウェーバーから見れば、まず性理学は理(理)を強調するというものの、何の論証もない。論証がないため、性理学の理はウェーバーの言う合理性(rationality)ではないことになる。
しかし、最近ウェーバーの理論は、当時カントの影響を受けてカント以前の議論を排除したためであることが明らかにされつつある。カント以前の西洋において、東洋の思想はカントとは異なり、合理性そのものであった。むしろ啓蒙主義の時期には、西洋の宗教であるキリスト教の教理が迷信を象徴していたため、啓蒙主義という名のもとに中国の合理性を受け入れ、キリスト教の教理の非合理性をなくそうとした。
五・四運動に代表されるように、東学思想が発生する当時、中国は明治維新の日本と同じく、西欧化を近代性の手本としてそのほとんどが据えたが、東学関連思想は西洋近代性の東洋的起源を把握し、東西の統合を模索した。とりわけ西欧近代性がもたらす全地球的危機に対して、両思想は対応策を模索しようとした。したがって、韓国の近代性は近代性の危機に対する代案的近代性となりうる。常識とは反対に、近代性はむしろ東洋で始まり、中国よりも性理学が発達した韓国は、そのなかでも先んじた近代性であった。
一八世紀のヒューム、アダム・スミスは、マテオ・リッチが伝授した孔子の儒教思想を「共感」として解釈し、西洋道徳理論の新たな土台を据えようとした。 이영재, 「공자의 ‘서(恕)’ 개념에 관한 공감도덕론적 해석」, 『한국정치학회보』 47(1), 2013, p.37. 孔子の儒教と啓蒙主義の共通性はすでに注目されてきており、今日では両理論の共通性を偶然の一致と見る重層近代性理論が提起されたが、最近の共感理論の発展と歴史資料の再発掘によって、直接的な影響を受けたものであることが明らかになりつつある。
이영재, 「공자의 ‘서(恕)’ 개념에 관한 공감도덕론적 해석」, 『한국정치학회보』 47(1), 2013, p.37.
西洋は東洋から共感を通じた倫理が可能であることを学んだ後、神に対する一方的服従の反省から近代性を開発する。しかし、西洋の近代性はやがて物質に偏り、人類の傲慢を招いて多くの問題を引き起こす。これに対して、再び近代に対して反省する省察的近代性と脱近代性が模索されたのである。東洋の自生的近代性が重要であるのは、東洋の近代性には、西洋の近代性よりも省察を強調する省察論的近代性であるという点である。とりわけ西洋近代性の起源となったという共感は、省察と結合する時に意義が生じる。
自生的近代性が提示される背景には、ポストモダニズムが提起した近代性と脱近代性の論争がある。近代性は中世に比して数多くの発展を成し遂げたが、また多くの深刻な問題を引き起こしたために、代案的近代性が模索されることとなった。
自生的近代性の形式体系としての「学(學)」
西洋学問の危機が露わになると、西洋学問のみを科学と独断的に主張していた科学哲学においても、反省の声が高まりつつある。今日、西洋の科学哲学において科学は、ファイヤアーベントのように方法論的自由主義(Anarchistic Theory of Knowledge)に立脚した科学の意味でも使われている。 파울 파이어아벤트 지음, 정병훈 옮김, 『방법에 반대한다』, 서울: 그린비, 2019. 科学の方法論的自由主義とは、白猫であれ黒猫であれ鼠さえよく捕まえればよいという鄧小平の白猫黒猫論のように、一貫性があり、予測と結果さえ一致すれば、学界の標準とされる正常科学の理論的枠組みにかかわらず、すべて科学であると言えるという現代科学哲学をいう。 정병훈, 「파이어아벤트: 객관주의와 상대주의를 넘어서」 『과학철학』, 파주: 창비. 2011. 本稿もまた、東洋学問の科学性という意味を方法論的自由主義による観点から用いるが、より限定的に用いる。本稿で主張しようとする東学の科学性は、既存の東洋科学も持っていた方法論的自由主義に加えて、東洋科学を分析的な制度圏科学の理論構造で比較説明しうる反証可能性までをも含む。保守的な科学哲学は、科学を反証可能な学問に限定する。科学を集団的な約束であるパラダイムと見るクーン系列の科学哲学では、二つの科学の通約不可能性を強調するが、方法論の差異によって通約不可能な二つの科学であったとしても、ラカトシュの研究プログラムのように、既存科学の用語で新たな科学を説明し、その関係を明らかにすれば、理論的互換性をもう一つの反証可能性と言うことができる。理論的互換性とは、例えば相対性理論はニュートン理論をすべて説明し尽くし、量子力学は相対性理論をすべて説明し尽くしえたという特性をいう(신중섭, 『포퍼와 현대의 과학 철학』, 서울: 서광사, 1992, pp.209-214)。大巡思想において東洋科学が西洋科学と理論的互換性を持つ理由は、大巡思想に現れるように、利瑪竇(マテオ・リッチ)による東洋科学の西洋伝来であると言える(『전경』「교운」 1-9)。
파울 파이어아벤트 지음, 정병훈 옮김, 『방법에 반대한다』, 서울: 그린비, 2019.
정병훈, 「파이어아벤트: 객관주의와 상대주의를 넘어서」 『과학철학』, 파주: 창비. 2011.
보수적인 과학철학은 과학을 반증 가능한 학문으로 제한한다. 과학을 집단적 약속인 패러다임으로 보는 쿤 계열의 과학철학에서는 두 과학의 공약 불가능성을 강조하지만, 방법론 차이로 인하여 공약 불가능한 두 과학이라 하더라도 라카토스의 연구프로그램과 같이 기존 과학의 용어로 새로운 과학을 설명하고 그 관계를 밝혀낸다면 이론적 호환성을 또 하나의 반증 가능성이라 할 수 있다. 이론적 호환성이란 예를 들어 상대성이론은 뉴튼 이론을 모두 설명해 내었고 양자역학은 상대성이론을 다 설명해 낼 수 있었던 특성을 말한다.(신중섭, 『포퍼와 현대의 과학 철학』, 서울: 서광사, 1992, pp.209-214) 대순사상에서 동양과학이 서양과학과 이론적 호환성을 가지는 이유는 대순사상에 나타나듯 이마두에 의한 동양 과학의 서양 전래라 할 수 있다.(『전경』「교운」 1-9)
宗教思想としての東学が他の宗教と最も際立って区別される部分は、宗教を「学(學)」という学術的用語で表現するという点である。宗教思想を「学」という用語で表現することは、儒教を「性理学」と長きにわたって呼んできた東アジアの伝統と符合する。実際、天主教もまた東アジアにおいては「西学」と称し、他宗教も「学」という学術的用語で表現した。伝統的に東洋において宗教が学として表現された理由の一つは、東洋の宗教は天文地理という自然科学的背景を持ち、災異説(災異說)を主張した董仲舒(董仲舒, BC176?-AD104)の事例におけるように、宗教よりは天文地理が優先される傾向があり、自然科学と区分されない総体的な属性を持っているからでもある。
「東学」という用語が初めて現れる『東経大全』の「論学文」には、東洋宗教と西洋宗教の差異は西学の「各自為心(各自爲心)」のような思惟の方法論にあると説明する。伝統儒教と近代の間で、こうした二者択一の極端を超えて比較的均衡のとれた視角を示し、適切に取捨選択をしようとしたもう一つの流れもあった。儒教の枠の内外でなされた儒教改革運動がそれである。朝鮮における儒教改革は、大きく見て二つの流れによってなされた。一つは儒教の枠の内側で朴殷植―李承熙―李炳憲へとつながった改革運動であり、もう一つは儒教の枠の外側で崔済愚と崔時亨によって進められたより急進的な革新運動であったが、朴殷植と崔済愚はこの二つの方向への転換を最初に企てた者でありながら、互いに相反する態度を示したという(황종원, 「최제우와 박은식의 유교개혁 방향, 평등관, 서구 근대문명에 대한 태도」, 『퇴계학과 유교문화』 49, 2011, pp318-319。東学思想において西学に対応する東学を提示することは、東洋に対して西学の方法論が優れているというマテオ・リッチの『天主実義(De Deo Verax Disputatio・天主實義)』を念頭に置いて対応するものとみなすこともある。 김용옥, 『동경대전 2』 통나무, 2021.
전통 유교와 근대 사이에서 이런 양자택일의 극단을 넘어 비교적 균형 잡힌 시각을 보이며 적절히 취사선택을 하려 했던 또 다른 흐름도 있었다. 유교의 틀 안팎에서 이루어진 유교 개혁운동이 그것이다. 조선에서의 유교개혁은 크게 보아 두 가지 흐름으로 이루어졌다. 하나는 유교의 틀 안에서 박은식-이승희-이병헌으로 이어진 개혁운동이고, 다른 하나는 유교의 틀 밖에서 최제우와 최시형에 의해 진행된 보다 급진적인 혁신운동이었는데, 박은식과 최제우는 이 두 방향으로의 전환을 최초로 꾀한 이들이지만 서로 상반된 태도를 보였다고 한다.(황종원, 「최제우와 박은식의 유교개혁 방향, 평등관, 서구 근대문명에 대한 태도」, 『퇴계학과 유교문화』 49, 2011, pp318-319.
김용옥, 『동경대전 2』 통나무, 2021.
東アジア宗教を研究するうえで、方法論的にまず先決すべき課題は、「学」の宗教現象学的意味の定立である。かつて東洋宗教を、今日の宗教学の主要な方法論である宗教現象学(phenomenology of religion)で研究するためには、東アジア固有の現象学が必要であると議論された。 안신, 「스코틀랜드 종교현상학파의 '기원': 니니안 스마트와 앤드류 월스를 중심으로」, 『종교문화연구』 9, 2007, p.230.
안신, 「스코틀랜드 종교현상학파의 '기원': 니니안 스마트와 앤드류 월스를 중심으로」, 『종교문화연구』 9, 2007, p.230.
実際、最近、東学の「学」に注目する研究はさまざまに試みられている。しかし「学」に注目する既存の研究は、今日注目される東学の「修養論」の次元でなされており、韓国宗教特有の哲学的思惟方法としての宗教現象学と宗教人類学的研究に注目する研究はまれであった。
今日、「学」という哲学的思惟方法は、宗教現象学的には大きく世界観に属する領域である。世界観が今日の宗教現象学において研究の対象として本格的に浮上するのは、ニニアン・スマート(Roderick Ninian Smart, 1927-2001)から始まる。ニニアン・スマートから本格化する宗教現象学の研究対象としての世界観の導入は、遠くは自然科学に対比して人文科学の存在価値を解釈学によって立証した解釈学の定礎者ディルタイ(Wilhelm Dilthey, 1833-1911)から始まる(이길용, 「수양론으로 본 한국 신종교의 구조적 특징-동학과 증산교를 중심으로」, 『동학학보』25, 2012, p.153.)。
니니안 스마트로부터 본격화되는 종교 현상학의 연구대상으로서 세계관의 도입은 멀리 자연과학에 대비해 인문과학의 존재가치를 해석학으로 입증한 해석학의 정초자 딜타이(Wilhelm Dilthey, 1833-1911)로부터 시작한다.(이길용, 「수양론으로 본 한국 신종교의 구조적 특징-동학과 증산교를 중심으로」, 『동학학보』25, 2012, p.153.)
ニニアン・スマートは、エリアーデの原型(Archetype)理論的な宗教現象学と、ファン・デル・レーウの「力」中心の現象学を折衷して、「文化横断的」現象学を開発する。「文化横断的」現象学は、宗教学的研究対象としての世界観を大きく二つに区分する。ニニアン・スマートの文化横断的現象学において宗教とは、人間が世界を理解し生きていくために必要なシステムと見ることができ、これはさらに「世界説明体系」(Welterklärungssystem)と「人生問題克服体系」(Lebensbewältigungssystem)に区分される。 이길용, 『종교학의 이해』, 서울: 한들출판사, 2007. ニニアン・スマートはさらにこれを七つの次元に分けたが、「学」という宗教方法論の側面においてこの二つの区分が肝要である。ニニアン・スマートの理論もまた、エリアーデの理論のように、もう一つの類型論として批判されうるが、エリアーデの類型論もまた、曖昧な点を除けば宗教の特性を表す有用な説明体系であることが、ジョナサン・スミスによって認められたことがある。
이길용, 『종교학의 이해』, 서울: 한들출판사, 2007.
니니안 스마트의 이론 또한 엘리아데 이론처럼 또 다른 유형론으로 비판받을 수 있지만, 엘리아데의 유형론 또한 모호한 점을 빼면 종교의 특성을 나타내는 유용한 설명체계임을 조나단 스미스에 의해 인정된 바 있다.
このように宗教を「世界説明体系」(Welterklärungssystem)と「人生問題克服体系」(Lebensbewältigungssystem)に区分してみるならば、宗教現象学は、宗教を人間の問題解決過程として研究する宗教人類学と接続されうる。宗教人類学において、宗教を通じた人類の問題解決は、大きく原理・過程・構造という三つの方向から研究された。
まず原理を見ると、ファン・ヘネップ(Arnold Van Gennep, 1873~1957) Van Gennepは、반 게냅のほかにも방주네프、반 헤넵など、さまざまな語彙で翻訳される。本稿では一般的なローマ字発音の原則によって반 게넵と翻訳する。 の「通過儀礼(通過儀禮, rite of passage)」理論と、「通過儀礼」理論から出発したターナーのリミナリティ(Liminality)理論を挙げることができる。一個人の成人への変化過程を説明する通過儀礼理論は、巨視的には一つの社会を変化させるリミナリティ理論となる。これを東学思想研究に適用すれば、東学思想とその以後に至る大巡思想までを一つの通過儀礼としてみなすことができる。金芝河の場合、東学関連思想のリミナリティ的な性格を「白い影の美学」として表現したことがあり、大巡思想においても天地公事をリミナリティの儀礼の観点から遂行した研究がある。 김태수, 「천지공사에 나타난 의례적 성격 연구」, 대진대학교 박사학위논문, 2013. 金泰洙は、これまで注目されてこなかった天地公事の儀礼的側面のうち形式的側面に注目し、リミナリティ理論に立脚して詳細な研究を遂行した。本稿は、金泰洙の形式的側面研究に基づき、リミナリティに対する最新の研究成果 이영란, 『리미널리티』, 서울: 동방인쇄공사, 2020; Thomassen, Bjørn, Liminality and the modern, Surrey: Ashgate, 2014. を活用して、近代性と関連する内容的側面に集中しようとする。
Van Gennep은 반 게냅외에도 방주네프, 반 헤넵 등 여러 어휘로 번역된다. 이 글에서는 일반적인 로마자 발음 원칙으로 반 게넵으로 번역한다.
김태수, 「천지공사에 나타난 의례적 성격 연구」, 대진대학교 박사학위논문, 2013.
이영란, 『리미널리티』, 서울: 동방인쇄공사, 2020; Thomassen, Bjørn, Liminality and the modern, Surrey: Ashgate, 2014.
次に構造という側面において、各伝統には固有の構造が現れ、各宗教は構造の差異によって説明されうるという理論である。原理の側面が宗教としての世界観を「人生問題克服体系」と見たとすれば、構造の側面から見る説明は「世界説明体系」に近い。構造の側面から宗教を説明する人類学は、大きく英米圏と大陸圏の科学哲学に方法論が起源する。英米圏も大陸圏もともに「学」をパラダイム(paradigm)という用語で説明する。しかし、その意味は異なる。英米圏の場合、パラダイムは共同体の同意と関連する。 토마스 S. 쿤 지음, 김명자 옮김, 『과학혁명의 구조』, 서울: 까치글방, 2013. パラダイム理論において特定の真理とは、一つの連鎖的な仮説の集合にすぎないため、その方法を異にすれば、別のものが真理となりうる。パラダイムとは一種の思考の枠組みのようなものであるが、新たな理論が異なる問題枠を持っている場合、既存の科学者はそれを正常科学(Normal science)ではないという。アインシュタインの相対性理論が科学として認められるまでには、長期にわたる科学集団の合意があった。現在、東洋の陰陽五行が科学に編入されていないのは、科学性の問題というよりは、還元主義のみを科学と認める規範(paradigm)のためであると言える。
토마스 S. 쿤 지음, 김명자 옮김, 『과학혁명의 구조』, 서울: 까치글방, 2013.
パラダイムの側面から見るならば、東洋の「学(學)」は「相関的思惟」を固有の規範とする。「相関的思惟」は「分析的思惟」に対比される用語で、万物が独立しているがゆえに分割して事物を認識すべきであるという分析的認識論とは異なり、万物は互いに連結されており分割できないがゆえに相関関係で認識する思惟方法である。
大規模な実験を通じて、東西の学問の方法論的差異が実際に現代の東西の人々の思考様式にも適用されることを立証した研究もあった。 김명진, 『(Ebs 다큐멘터리) 동과 서』, 서울: 예담, 2008. また、代表的な相関的思惟理論である陰陽理論は、分析的思惟が隠れている相関的思惟であることを明らかにした研究もある。 A. C. 그레이엄 지음, 이창일 옮김. 『음양과 상관적 사유』 청계, p.264, 2001. 相関的思惟の側面から見れば、分析的思惟も内面は循環的思考であるため、結局は表に現れない相関的思惟であるというのである。東洋の相関的思惟を要約した研究としては鄭遇眞の研究がある。こうした研究に基づくとき、今日、東西の哲学的思惟方法論とみなされるものは、大きく東洋の生成論的方法と西洋の存在論的方法の二つに大別してみることができる。 김경수, 『노장(老莊)의 생성론』, 서울: 문사철, 2015. 相関的思惟は、上から下へと生成していく演繹的原則を持つ東洋の生成論的思惟方法に該当し、こうした東洋の生成論的思惟方法は大きく相関的思惟と同時性として現れる。 정우진, 「동양과학의 논리: 감응의 유형에 관한 연구」, 『도교문화연구』 42, 2015, p.122.
김명진, 『(Ebs 다큐멘터리) 동과 서』, 서울: 예담, 2008.
A. C. 그레이엄 지음, 이창일 옮김. 『음양과 상관적 사유』 청계, p.264, 2001.
김경수, 『노장(老莊)의 생성론』, 서울: 문사철, 2015.
정우진, 「동양과학의 논리: 감응의 유형에 관한 연구」, 『도교문화연구』 42, 2015, p.122.
次に過程という側面から見るとき、宗教としての世界観は再活性化として見ることができる。再活性化は、宗教学者ウォレスの再活性化モデルにおいて言及される再活性化モデルで主張された概念である。再活性化は、文化接変の過程において他の学問を受容する過程で現れ、これは宗教としての世界観を考察する重要な方法となる。外部の変化にも変わらない宗教的世界観は、伝統の連続と変化の過程として理解することができ、これは再活性化を通じて成し遂げられるからである。
以上考察した哲学的思惟方法論としての「学(學)」概念を考慮しながら、本研究では、東学思想と大巡思想を比較するために、伝統の連続と変化のなかで宗教としての世界観を研究する宗教人類学の三つの方法を、立体的に同時に用いようとする。東学思想と大巡思想に現れる伝統の連続と変化は、主に用語と概念上の意味の変化において主に現れる。したがって本稿は、両思想の主要な用語に注目しつつ、用語が持つ意味の連続と変化を、構造・原理・過程という三つの観点すべてを用いて立体的に把握しようとする。これを通じて、世界観としての宗教という側面において、大巡思想が東学が継承した東西の伝統の連続と変化においてどれほど忠実であったかを指標とし、真東学としての意義を持ちうるかを検証しようとする。
自生的近代性の理論的背景としての東西の区分
東学思想と大巡思想において、東西の概念、すなわち東西の区分は、東学や真東学のように、きわめて根本的な区分として現れる。東西の区分が哲学的思惟において根本的な区分として現れるとすれば、東西の区分基準と、東西の区分が根本的に重要である理由が何であるのかについての検討が必要である。
東学と西学の差異に関する研究は、東洋と西洋の思惟方法論の差異など、多様な部分でなされた。まず東洋人と西洋人の思惟方法の差異に対する認知心理学(認知心理學, cognitive psychology)の実証的な研究は、最近ニスベット(Richard Eugene Nisbett, 1941-現在)によって実験心理学として立証された。ニスベットは実験において、アジア人にとって世界は複雑な場所であり、個人的な統制よりは集団的な統制の対象として現れ、西欧人にとって世界は相対的に単純であり、きわめて個人的な統制の対象として、二つの世界は実に異なるという。実際、ニスベットは、飛んでいく鳥を見て、西洋人は鳥の数を記憶し、東洋人は背景を記憶すると述べた。 리처드 니스벳 지음, 최인철 옮김, 『생각의 지도: 동양과 서양, 세상을 바라보는 서로 다른 시선』 2004, 김영사. pp.83-106.
리처드 니스벳 지음, 최인철 옮김, 『생각의 지도: 동양과 서양, 세상을 바라보는 서로 다른 시선』 2004, 김영사. pp.83-106.
東西の思惟方法の差異に関しては、多様な説明があった。まず馮友蘭(馮友蘭, 1894-1990)は、商業文化と農業文化の差異によって説明したことがある。馮友蘭は東洋には認識論がなかったと主張したが、東洋に認識論がなかった理由は、取引相手の本質と実体を区分せねばならない商業が西洋で発達したのとは異なり、自然環境が良かった東洋は農業において直観的認識が重要であったため、西洋のように本質と実体を区分する認識論が必要でなかったからであるという。 풍우란, 『중국철학의 정신(新原道)』, 곽신환. 역. 서울: 서광사, 1993.
풍우란, 『중국철학의 정신(新原道)』, 곽신환. 역. 서울: 서광사, 1993.
商業と農業の差異のほかにも、金弼年は、集団性と個人性に集約される東西の差異の起源を、東西の文明の車軸時期であるギリシアと春秋戦国が置かれていた地理環境的差異から分析したことがある。金弼年は、西洋は多人種が集まって暮らすために明確な意思伝達のために論理が発達し、中国は春秋戦国の場合、問題が政治的問題であったために内面倫理が発展したという。 김필년, 『동-서문명과 자연과학』, 서울: 까치, 1992.
김필년, 『동-서문명과 자연과학』, 서울: 까치, 1992.
環境決定論とは異なり、韓国的論理学を開発したと評価される朴東煥は、言語学的モデルで東西の差異、とりわけ韓国の差異を説明したりもする。韓国の論理は、西洋や中国とは異なり、周辺が中心を決定する虚辞決定の循環的論理学であるという。韓国論理学は虚辞決定論の論理学であるため、新たな理論がいくらでも融合される循環的特徴を持っているという。 박동환, 『동양의 논리는 어디에 있는가』, 서울: 고려원, 1993.
박동환, 『동양의 논리는 어디에 있는가』, 서울: 고려원, 1993.
東西の差異として、実際に東西の文化はニスベットが述べたように、全体と部分の関係として類型化されうるという。崔奉永は、各文明は個体と共同体を個別的な観点から見るか全体論的観点から見るかによって分類されうるとし、西教は神と人間を従属関係と見る統体―従属者的世界観から近代の個別者―合体的世界観へ、中国は統体―部分者的(部分者的)世界観、インドは統体(統體)―縁起者的(緣起者的)世界観に分類されるという。 최봉영, 「‘사회’개념에 전제된 개체와 전체의 관계와 유형」, 『동양사회사상』1, 1998, pp.88-101.
최봉영, 「‘사회’개념에 전제된 개체와 전체의 관계와 유형」, 『동양사회사상』1, 1998, pp.88-101.
西洋の場合、レヴィ=ストロースに代表される構造主義人類学者は、実存主義との論争を通じて、原始部族の思惟もまた実存主義のような西欧的思惟に決して劣らない構造的原理を持っていることを立証した。構造主義人類学において原住民の思惟体系を「野生の思考(Savage Mind)」と呼び、 레비 스트로스 지음, 안정남 옮김, 『야생의 사고』, 서울: 한길사, 1996. これは陰陽のような対称的思惟(Symmetrical thinking)からなっているという。構造主義人類学の原理を東西に適用すれば、東西の差異が生じる根本的原因は、野生の思惟である対称的思惟が地域によって異なって適用されたことになる。構造主義人類学によれば、東洋的思惟である全体論的思惟がより対称的思惟に近く、これは西洋の分析的思惟よりも合理的な思惟でありうるという。とりわけ仏教は、最も循環に近い対称性思考を成しているという。仏教は対称性思考の極致である空(空)を持っているため、万物の対称性と一致するというのである。 나카자와 신이치지음, 김옥희 옮김, 『대칭성인류학: 무의식에서 발견하는 대안적 지성』, 동아시아, 2004, pp.197-221.
레비 스트로스 지음, 안정남 옮김, 『야생의 사고』, 서울: 한길사, 1996.
나카자와 신이치지음, 김옥희 옮김, 『대칭성인류학: 무의식에서 발견하는 대안적 지성』, 동아시아, 2004, pp.197-221.
構造主義人類学の登場以後、西欧では内在性(Immanence)という概念を通じて、西洋の思惟を反省してみることのできる外部の思惟を見いだそうとした。内在性とは、特定の文化において共有される暗黙の規約で、外部からでなければ知ることのできない特性をいう。例えば、生涯水中でのみ生きる魚の場合、水は水の外に出なければ知りがたい内在性となる。後期構造主義者を中心に、西洋が発見した西洋の内在性は、マテオ・リッチが東洋の相関的思惟である陰陽五行論を批判する際に用いた実体論(substance theory)であった。アリストテレスの実体論とは、変化に対して論理的説明が成り立つためには、変化の過程に必ず属性を持つ実体、すなわち原子、地水火風、神などによって説明せねばならないという理論である。アリストテレスの影響を受けたマテオ・リッチの実体論によれば、究極の実体が神であるため、神のように変化を実体によって説明しない陰陽五行や理気論の場合、論理的でないと主張した。循環的世界観において実在の出発は、実体ではなく感応となる(프랑수아 줄리앙, 유병태 옮김, 『운행과 창조: 동서문화비교시론』, 서울: 케이시아카데미, 2003, pp.55-69)。フランソワ・ジュリアンは、東西がともに対立の統一を志向したが、実体を仮定しない東洋の内在性は、たとえ実体概念は不足していたとしても、西洋のような独断を脱することができたという(프랑수아 줄리앙, 『맹자와 계몽철학자의 대화(도덕의 기초를 세우다, 루소 칸트)』, 한울아카데미, 2009, pp.174-180)。感応は、東洋思想の事物理解の方式が感応となる前哨となる。
순환적 세계관에서 실재의 출발은 실체가 아닌 감응이 된다.(프랑수아 줄리앙, 유병태 옮김, 『운행과 창조: 동서문화비교시론』, 서울: 케이시아카데미, 2003, pp.55-69) 프랑수아 줄리앙은 동서양이 같이 대립의 통일을 지향했지만 실체를 가정하지 않는 동양의 내재성은 비록 실체 개념은 부족하지만 서양과 같은 독단을 벗어날 수 있었다고 한다. (프랑수아 줄리앙, 『맹자와 계몽철학자의 대화(도덕의 기초를 세우다, 루소 칸트)』, 한울아카데미, 2009, pp.174-180) 감응은 동양 사상의 사물 이해방식이 감응이 되는 전초가 된다.
ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925-1995)とフーコー(Paul-Michel Foucault, 1926-1984)、デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)など後期構造主義者が「外部の思惟(Outside Thinking)」 신지영, 『내재성이란 무엇인가』, 서울: 그린비, 2009. すなわち西洋の内在性を見いだそうとした理由は、西洋思想において独断の痕跡を発見したからである。実存を発見させもしたが、実存を追い出しもした西洋思想の交差点は、実体が持つ独断にあった。デリダなどが音声中心主義(Grammatology)などと呼んで独断を批判したりもしたが、金益斗が主張したように、西洋の独断を招いたのは、アリストテレスの悲劇理論にも現れる実体論であり、これに対する代案を西欧で見いだせなかった点にある。 프랑수아 줄리앙, 『사물의 성향: 중국인의 사유방식』, 한울아카데미, 2009, pp.27-37.
신지영, 『내재성이란 무엇인가』, 서울: 그린비, 2009.
프랑수아 줄리앙, 『사물의 성향: 중국인의 사유방식』, 한울아카데미, 2009, pp.27-37.
内在性概念を考案したドゥルーズは、実体性は批判したが、東洋に対しては批判しなかった。 신지영, 『내재성이란 무엇인가』, 서울: 그린비, 2009. ジュリアンは、ドゥルーズの内在性概念を通じて、東洋において「外部の思惟」を見いだした。ジュリアンは、対立の統一を志向するが、実体を仮定しない東洋の内在性に注目した。彼によれば、東洋の全体論的思惟は、たとえ実体概念は不足していたとしても、西洋のような独断を脱することができた。さらにジュリアンは、東洋の内在性は西洋とまったく反対であったがゆえに、東洋の内在性に起因する孟子の修養論的実存概念が西洋近代思想の道徳的基盤と性格が同じであり、西洋思想の代案的問題解決の事例となりうることを示してくれる。 프랑수아 줄리앙, 『맹자와 계몽철학자의 대화(도덕의 기초를 세우다, 루소 칸트)』, 한울아카데미, 2009, pp.174-180.
신지영, 『내재성이란 무엇인가』, 서울: 그린비, 2009.
프랑수아 줄리앙, 『맹자와 계몽철학자의 대화(도덕의 기초를 세우다, 루소 칸트)』, 한울아카데미, 2009, pp.174-180.
実際、代案的近代性を中国の思惟に求めてきた汪暉(汪暉, 1959-現在)は、東洋の相関的思惟が古代から変化していく過程において、現代に適用可能な代案的近代性を見いだしうると主張する。汪暉は、周の封建秩序が崩れるにつれ、帝王と貴族を中心とする夏殷周三代の儒教的思惟が転換されたという。汪暉は、孔子の仁(仁)思想を、シャーマニズムから始まった周の礼楽の神聖性を理性化させたものであるという既存の解釈の誤りを指摘し、むしろこれを回復しようとしたものであることを主張する。同じ原理で、封建制から中央集権制の強い郡県制へと変わった漢唐(漢唐)時代の災異論(災異論)や、官僚制中心の宋・元・明・清時代の理気論もまた、崩れた神聖性を回復するものであったと見る。魯迅研究において既存研究の誤りを指摘し、世界的名声を得た汪暉は、中国の思惟に基づく代案的近代性もまた、伝統の回復とともに可能であると主張する。 이종민, 『중국 사상과 대안 근대성 왕후이의 『근대 중국 사상의 흥기』 읽기와 쓰기』, 서울: 현암사, 2017, pp.14-30에서 재인용. 汪暉の代案的近代性理論は、聖と俗の変化によって近代性を説明するという点で、聖と俗の統摂の変化によって近代性を説明する西欧の代案的近代性論と符合する。
이종민, 『중국 사상과 대안 근대성 왕후이의 『근대 중국 사상의 흥기』 읽기와 쓰기』, 서울: 현암사, 2017, pp.14-30에서 재인용.
分析哲学に基づく心身関係、すなわち心身関係論によって儒教思想を研究する林憲圭は、性理学の基盤となった孟子の、井戸に落ちようとする子に関わる心の共感論的解釈は、心理哲学的には立証はまだなされていないが、立証さえされれば、現代心理哲学の心身関係が解決しえない問題を総体的に解決する重要な心身関係哲学理論となりうるという。 임헌규, 『공자에서 다산 정약용까지: 유교 인문학의 동서철학적 성찰』, 서울: 파라아카데미, 2019, pp.350-381. これは、分析哲学によって相関的思惟を批判した議論に対する分析哲学的反論となりうる。 김영건, 『동양철학에 관한 분석적 비판』, 서울: 라티오출판사, 2009.
임헌규, 『공자에서 다산 정약용까지: 유교 인문학의 동서철학적 성찰』, 서울: 파라아카데미, 2019, pp.350-381.
김영건, 『동양철학에 관한 분석적 비판』, 서울: 라티오출판사, 2009.
マテオ・リッチ以後、西欧近代性に現れた合理性の東洋的起源を求めてきた黄泰淵は、実際に西欧の合理性は、ウェーバーの言うカント的意味の合理性ではなく、カント以前に中国哲学を受容していた孔子―孟子の儒教的合理性であるという。 황태연, 『유교적 근대의 일반이론서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화』, 서울: 한국문화사, 2023. 今日、合理性を代表する分析哲学は、儒教的合理性に比するならば、むしろ西洋の実体性に潜在している独断と見ることができるというのである。
황태연, 『유교적 근대의 일반이론서구국가의 유교적 근대화와 유교국가의 서구적 근대화』, 서울: 한국문화사, 2023.
整理してみると、結局、東西の思惟体系の差異はさまざまな理由から発生したが、西洋の部分者的実体と東洋の全体論的属性という内在性の差異に要約される。西洋の実体と東洋の属性について、東洋思想の説明は『黄帝内経』などに現れる陰陽の属性差異として解釈することができる。『黄帝内経』において、人の経絡(經絡)のうち陰の属性を持つ陰経絡(陰經絡)は下から上へと上り、陽の属性を持つ陽経絡(陽經絡)は上から下へと下りてくる。『黄帝内経』が説明する陰陽の差異を東洋と西洋に適用するならば、陽の属性を持つ西洋人は陰経絡のように下から上へ、すなわち自己から宇宙へと進んでいく実体的思惟体系を持ち、陰の属性を持つ東洋人は陽経絡のように上から下へ、すなわち宇宙から自己へと下りていく属性的で全体的な思惟体系を持つこととなる。地気(地氣)が陽である東洋において、人は陰陽の均衡のために陰の属性を持つ陰人(陰人)となり、地気が陰である西洋において、人は陽の属性を持つ陽人(陽人)となる。東学思想においては、これを西洋の各自為心(各自爲心)とし、大巡思想においても、鐘韻(鐘韻)において「天気下降(天氣下降)し、地気上乗(地氣上乘)す」と表現し、陰の原理で自己から世界を上昇的に思考する西洋の近代性が、結局は物質的な財利(財利)に陥ったことを叱責する。