Ⅱ. 諸宗教の経済観と制限的循環性
1. 経済倫理と諸宗教の循環性
宗教の経済思想は、抽象的な宗教の思想を具体化して表現する、極めて核心的な宗教の構成要素といえる。宗教は、経済思想として表現されたとき、その隠れた意味を把握しうる。宗教は、経済思想として現れるとき、宗教思想よりも具体的な経済倫理として現れるといえる。
現代資本主義経済学は極力否認するが、経済と倫理はヤヌスのように、常に相反しながらも同時に現れる、極めて密接な関係である。リンゴ一つをどう食べるかという日常的な状況においても、経済と倫理は常に相反的に現れる。経済と倫理は相反する形態で頻繁に登場するため、「経済の逆が倫理、倫理の逆が経済」といえるほど密接な関係にある。歴史的に、経済と倫理は互いに長期関数のような関係を示してきたという。
[図2.1] 経済と倫理の歴史的推移136)
諸宗教の核心倫理は目に見える経済思想として現れ、宗教の経済思想は主に倫理学的な形態として現れるとするとき、諸宗教の経済倫理を考察することは、宗教を理解するうえで極めて重要な作業となる。また倫理学もまた経済学と密接な関係にあるといえるため、倫理学・経済学・宗教の三者は共通の理論体系を持っているといえる。137)宗教・経済学・倫理学の関係については、まず日常に近い倫理学を中心に体系を立てたうえで、経済学との関係を照明し、再び宗教と関連づける順序で考察しうる。
第一に、まず倫理学の体系を考察すると、倫理学は時代順に、徳(卓越)138)を強調するアリストテレスの倫理学139)、正(正、正義)を強調するカントの義務論的倫理学、善(善、効率)を強調する自由至上主義的あるいは功利主義的倫理学という三つの伝統を持っている。140)
日常生活を例にとれば、利益と倫理が相反する状況で良心を守る倫理的行為の基準は、古代ギリシアでは「我が存在」である内面的な徳の問題であったが、カントに来ると社会契約制度による「我が倫理的義務と権利」の問題となり、さらに現代に来ると「我と社会全体の利益」という行為の問題として倫理学はアプローチする。
抽象的な倫理学概念を具体的な社会科学である経済学に適用するには、理論と実践という両面を持つ倫理学の体系は、次の九つの体系に分けてみることができる。
〈表2.1〉倫理学の体系141)
| 評価対象\価値概念 | 基本的価値言語 | 操作的価値言語 | 究極的目的 |
| :---: | :---: | :---: | :---: |
| 行為 | 善(善) | 効率 | 効用 |
| 制度 | 正(正) | 正義 | 権利 |
| 存在 | 徳(徳) | 卓越142) | 能力 |
実際、経済学も倫理学と同様に、行為(善—限界効用学派)・制度(正—制度学派、歴史学派)・存在(徳—贈与論的経済学)という三つの課題を中心に理論を展開する伝統として現れる。
リンゴ一つを得る場合、新古典学派である限界効用学派は、最後のリンゴ一つを得るときに持つ効用すなわち限界効用と費用を計算して利益を取る効率的行為を重視し、制度学派は、リンゴ一つが我が手に入るまでの制度がいかに公正かという歴史と制度を重視し、贈与論的経済学では、誰が我にリンゴを与えたかという存在問題を重視する。
あらゆる社会に経済と倫理があり、経済と倫理が社会の核心となるのは、経済と倫理が「普遍的価値」という基準で社会を統合する二つの主要方案となるためである。相反する経済と倫理が常に共に現れるのは、経済(効率)と倫理(正)が善(善)という共通点を持っているためである。善もまた、二つの相反する属性が一つに統合されている。効用を善(善)とするとき、善は個人的多元性と質的多様性を持っているため、個人的多元性という側面では効率と正義、質的多様性という側面では自由と卓越という二つの結合をなしうる。自由は経済と倫理の双方に共通する基本的な価値規範となる。
[図2.2] 課題の構成143)
上記の課題に従って、経済の世界と倫理の世界は善を中心に統合される。統合された経済と倫理の世界は、政治あるいは宗教という徳を通じて仲裁される。経済・倫理・政治(宗教)はそれぞれ行為・制度・存在を代表する。
[図2.3] に見られるように、希少な資源から財物が生じ、不足する徳から能力が生じ、制限された正(正)から権利が生じる。経済と倫理は卓越性という政治的徳(徳)の領域で調節され、三つはすべて善へと統合される。
[図2.3] 経済の世界と倫理の世界の統合144)
倫理思想のうち経済倫理を考察すると、倫理思想は経済と関連したとき、正(正)・善(善)・徳(徳)のうちどの部分を強調するかによって特性が現れる。倫理学の伝統は、まず正(正)と善(善)の論争から始まった。アダム・スミスから始まる功利主義の伝統は、正(正)よりも善(善)を強調して「最大多数の幸福こそが道徳的である」と主張し、善(善)より正(正)を強調するロールズの社会契約主義が出るまで主導的な経済倫理思想を構築してきた。功利主義の伝統は、最大多数の幸福のためには個人は犠牲になってもよいとした。
ロールズは、カントの義務主義倫理を現代化して功利主義の弱点を指摘し、個人の自由に立脚した社会契約主義的正義論を復活させた。145)個人の幸福が犠牲になれば最大多数の幸福は意味がないため、個人の幸福を保障する義務がより重要であるとする。ロールズの社会契約主義は功利主義より一歩進んだ側面があるが、自由と平等の問題を引き起こしたため、再び共同体主義者と自由至上主義者の批判を受けた。「個人の義務も重要だが共同体がより優先する」とする共同体主義146)は、全体論的観点から、倫理的義務意識である正(正)よりも実用的な徳(徳)を強調し、自由至上主義は、個人論的観点から、正(正)よりも積極的自由という徳(徳)を強調した。このとき自由は、正(正)・善(善)・徳(徳)のすべてに共通する基本規範といえる。
各思想の関係をより具体的に考察すると、ミルとベンサムあるいはパレート147)に代表される功利主義は、ハイエク・フリードマンに代表される自由至上主義とは異なり、「全体の利益になれば個人の自由は拘束されうる」とし、社会契約主義とは異なり、義務よりも利益が優先される。
経済より倫理を重視する倫理学は社会契約主義と共同体主義148)であるが、ロールズに代表される社会契約主義は、共同体主義とは異なり、方法論的個人主義を採り、全体の利益のために個人を犠牲にしない。マッキンタイアに代表される共同体主義は、資本主義の下で社会福祉を施行しうる最高の代案であるが、個人の犠牲に対する反対給付の不透明性によって現実性が疑問視される。149)価値理念という側面から見れば、経済倫理と関連した功利主義と自由至上主義は適応を通じた効率を強調し、倫理を強調する社会契約主義は連帯を通じた正義を、共同体主義は自由を通じた卓越を追求するといえる。以上のような課題を統合するために、現代の経済倫理と経済学は四つの位相において問題を解決する。
〈表2.2〉現代道徳哲学の位相
| 方法\価値 | 善(善)—制度内秩序 | | 正(正)—制度の基礎構造 | |
| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |
| 個人主義 | 市場均衡論(理論経済学) | | 社会契約主義(正義) | 自由至上主義(自由) |
| 全体主義 | 功利主義(効率) | 共同体主義(徳) | 制度進化論(歴史学派経済学) | |
四つの倫理学は、個人/共同体、効率(経済)/正義(政治)という基準に従って四象限に分けてみることができる。
[図2.4] 四つの経済倫理の関係
第二に、宗教の側面を考察すると、経済倫理と宗教思想との相互関係は、宗教思想の教理体系にある循環論理の構成から考察しうる。数多くの宗教のうち循環的経済観を持つ宗教を儒仏仙と西教に限定しうるのは、諸宗教理論の論理的思考の枠に現れる。150)循環的論理が表現しうる論理の枠が制限されているため、東西洋の宗教思想は儒仏仙と西教に圧縮されうる。経済学もまたゲーム理論のように一つの論理学でありながら互いに循環関係にあるといえるため、経済倫理と宗教は互いに統合されうる。
円は丸いため、循環論では命題Xと命題–X151)は直線理論とは異なり、相補的(相補的)に現れる。152)循環の諸様相は、数理論理を用いて、位相数学の一つである隣接構造論的に考察しうる。153)弁証法のように、円の循環論理では、出発点でXとして出発した命題は折り返し点で–Xとなり、再びXとなる。154)結局、循環論において現れうる論理は、
XはXであり–Xは–Xであるとする儒教155)、
Xは–Xであり–XはXであるとする道教156)、
XはXでも–Xでもないとする仏教157)に制限され、
西教は「Xはすべて」158)であるとする博愛(博愛)によって、三つの循環論理が作用するよう連結させる。
実際、XはXであり–Xは–Xであるとする儒教の論理は、159)
学び(X)、それを時に習えば(X)喜ばしく、160)
同志(同志、X)が訪ねてくれば(X)楽しく、161)
君主(X)は君主(X)らしくあり、臣下(-X)は臣下(-X)らしくあらねばならない。162)
知ること(X)を知る(X)とし、知らぬこと(-X)を知らぬ(-X)とすること、これが知ること(X)であり、163)
友(X)は友(X)であり、仇(-X)は仇(-X)である。164)
儒教の論理に対して、道教は逆説で応酬する。
Xは–Xであり–XはXであるとする道教では、165)
道(X)を道(X)といえば道ではなく(-X)、166)
最も強きもの(X)は最も弱き水(-X)であり、167)
天地(X)は不仁(不仁、–X)であり、168)
友(X)は仇(-X)であり、仇(-X)は友(X)である。169)
中国大陸において道教と儒教が互いに対峙するなか、インドの仏教が仲裁する思想として中国を席巻した。
「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、「仇が友である」とする道教に対して、
「友(X)も仇(-X)もなく」、すべては空(空)であるとする。170)
[図2.5] 諸宗教の相関関係
諸宗教の経済思想の循環関係は、宗教教理の核心といえる「永生を追求する方法」を中心に集中的に現れる。「Xはすべて」とする西教は、神と人間共同体との間で十戒に立脚した契約的循環を通じて霊魂永生(霊魂永生)を追求する。171)「Xはすべて」という論理は、個人より共同体、物質より精神を追求させるため、霊魂を通じた永生を追求することになる。172)「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、縁起論による法輪における万物の循環を通じて輪廻転生(輪廻転生)を追求する。「XはXでも–Xでもない」のであれば、肉体と精神の区別がなくなり、我と汝の区別がなくなるため、人間は死して輪廻し、身を換えながら輪廻転生を通じて来世の完成を成し遂げうる。「XはXであり–Xは–X」である儒教は、父と子、君と臣という人倫における循環を通じて招魂再生(招魂再生)を追求する。物質は物質、精神は精神、我は我、汝は汝であるなら、来世より現世を、個人より共同体を志向することになる。「Xは–X、–XはX」である道教は、自然の理に合わせる無為自然の循環を通じて肉身永生(肉身永生)を強調してきた。173)精神が肉体であり肉体が精神であり、死が生であり生が死であるなら、共同体より個人、来世より現世である肉身永生を志向することになる。宗教において循環は、永生を追求する各宗教のアイデンティティの核心であったため、循環を壊しうる経済の無限発展を警戒してきた。諸宗教は、志向する永生の個人174)/共同体175)、来世志向性176)/現世志向性に従って四つに分けてみることができる。
[図2.6] 諸宗教の永生観の相関関係177)
循環的世界観において万物は、互いにフラクタル(fractal、相同性)のように類似した関係を示し、とりわけ宗教と密接に関連した経済と倫理は、なおさらそうであるといえる。フラクタル(fractal、相同性)とは、互いに似た構造を意味する。現代科学では、最も小さい原子と最も大きい銀河が類似した構造を持ち、コンピュータと分子が類似した構造を持つことを明らかにした。
[図2.7] 宗教と経済倫理の相関関係
万物を分割して究極の粒子を見出す還元主義の方法とは異なり、万物の関係のなかから法則を見出す創発主義的で全一(全一)論的方法を用いる循環論では、万物はすべて循環し、互いに待対性を帯びる構造は互いに似た構造を持つ。178)
[図2.4] 四つの経済倫理の関係と[図2.5]の諸宗教の相関関係において、それぞれX軸である効率(経済)—正義(政治)、現世志向—来世志向、そしてY軸である個人—共同体には共通する点があるといえるため、二つのグラフは[図2.7]のように重ね合わせることができる。
道教は、循環論において遠くを見渡せば「友(X)は敵(-X)であり、敵(-X)は友(X)」であるため、個人は他人との連繋なしに自らの自由を追求する自由至上主義的性格として現れる179)とすれば、「友(X)も敵(-X)もない」とする仏教は、自らがなすべき義務だけを尽くす社会契約主義的な宗教となる。友は友、敵は敵で、敵と友が明確な儒教では、自分の側のための最大幸福を追求するが、全体の利益のために個人の利益は無視される功利主義180)を志向する。道教・仏教・儒教が生産の側面ですべてを集めておいたとすれば、「Xは皆のもの」とする西教は、博愛(博愛)という共同体主義によって、集めたものを火のごとくすべて分け与える。181)
第三に、経済を考察すると、世界の宗教は循環論の論理構造に従って儒仏仙と西教に分かれ、経済は貯蓄・生産・流通・分配という循環と関係する構造を持つ。
[図2.8] 経済観の相関関係182)
経済循環に既存宗教の論理を適用すると、
「Xは–Xであり–XはX」183)とする道教は、未来に備えて今日を準備する財富観(財富論)を通じた経済循環に注力し、184)
「XはXであり–Xは–X」とする儒教の論理は、財富観を通じて蓄積された財産で人間と社会を組織して生産に臨むことになる。儒教によって生産された財貨は西教の博愛思想によって広く贈与—流通され、流通の終わった財貨は、
「XはXでも–Xでもない」とする仏教によって公平に分配され、残ったものは再び貯蓄されて、[図2.9]のように新たな循環となる。
[図2.9] 諸宗教と経済観の相関関係 [図2.10] 宗教と経済倫理・経済観の相関関係
倫理学が自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義という待対性(待対性)を持つため、諸宗教の経済思想は[図2.10]のように、貯蓄・生産・流通・分配という経済活動過程を中心に、道教と自由至上主義的財富観、儒教と功利主義的185)労働観、西教と共同体主義的財貨観、仏教と社会契約的分配観へと再編されうる。
また、経済思想と経済学は歴史的相関関係を持つため、[図2.11]のように、自由至上主義は効用という使用価値を強調する新古典派経済学、功利主義は有効需要と革新としての記号価値を強調するケインズ/シュンペーター主義経済学、共同体主義は贈与としての象徴価値を強調する社会福祉主義制度学派経済学、社会契約主義は公正な交換を強調するため労働価値論に立脚した交換価値を強調する古典学派やマルクス主義と近いといえる。
[図2.11] 宗教と経済倫理・経済学の相関関係
各経済学派の思想を要約すると次のとおりである。新古典派経済学は、よく高校社会教科書に出てくる需要と供給の法則に代表される経済学をいう。需要と供給の法則は高校社会教科書に載っているため、論争の余地のない経済学の基本理論として知られているという常識とは異なり、需要と供給の法則は、供給中心の古典経済学に対する批判理論である新古典派経済学の理論にすぎない。新古典派経済学は、経済の全体的な流れよりも個人の主観的な選好に焦点を置き、経済を需要と供給・効用という観点で主観化させた。代表的な新古典派経済学者はマーシャル・ハイエク・フリードマンなどで、彼らは最小政府・市場経済・自由を至上価値とみなすため、自由至上主義者の経済学的根拠を提示する。新古典派経済学者にとって価値とは、その事物がどれほど使用する価値があるかという使用価値となる。
1929年の世界大恐慌を解決したルーズベルト大統領のニューディール政策の理論的立案者として有名なケインズは、世界大恐慌が来ても最小政府と市場経済を信奉して何の対策も立てられない新古典派経済学を批判し、有効需要という功利主義的概念によって恐慌を解決する。「市場にさえ任せればあらゆる問題が解決する」とする新古典派経済学者とは異なり、ケインズは、労働者に消費できる仕事を提供してこそ最大多数の最大幸福を成しうるとして、経済学の理論に大きな変化をもたらした。シュンペーター主義186)は、ケインズ主義と同じく最大多数の最大幸福を追求する功利主義である点は同じだが、経済は有効需要である富ではなく革新によって価値が生じ、最大多数の最大幸福となる社会的革新が経済を循環させるとする。功利主義において価値は、社会的に最大生産をなしうる革新価値すなわち記号価値となる。記号価値は使用価値や交換価値のように明確ではないため、曖昧性を帯びる。また記号価値は他者の欲望を模倣する価値であるため、循環しなければ構成員の内部的分裂によって道徳的弛緩と自滅をもたらしやすい。記号価値(ボードリヤール)は誇示消費の価値(ヴェブレン187))や模倣価値(ジラール188))として現れるという。
新古典派経済学やケインズ主義経済学が、与えられた限界内での最高の適応という効率を強調した経済中心の経済学であるとすれば、制度学派経済学189)は、与えられた枠を問題とし、与えられた枠を変えて新たな価値を創造しようとする経済学である。新古典派経済学やケインズ主義経済学は、経済循環において主に生産に注力して経済にエネルギー過剰現象を引き起こし、蓄積にのみ偏って経済循環を麻痺させる。制度学派は、合理的な消費の枠を作って経済を循環させようとする。代表的な学派と学者としては、贈与論的経済学者モース、消費を主とする一般経済学を主張したバタイユ190)、ボードリヤール、米国制度学派ヴェブレンなどがいる。制度主義経済学は、経済の根源は消費と贈与にあり、生産は消費と贈与のための活動であって、商品の価値は、その商品が贈与されたときにどれほど価値があるかという象徴価値(ボードリヤール)あるいは文化価値191)(塩野谷祐一)として現れるとする。
新古典学派、ケインズ—シュンペーター主義経済学、制度主義経済学が、それぞれ使用価値・記号価値・象徴価値という効用に中心を置いているとすれば、古典学派とマルクス主義経済学は、公正な労働価値という交換に中心を置いている。最初の経済学理論といえる古典経済学は、高校教科書に出てくる需要と供給の新古典派経済学ではなく、労働価値の均等性を強調した古典学派とマルクス主義経済学であった。古典経済学は、あらゆる商品は人間の労働の産物であり、価格が定まるのは商品に投入された労働の平均値であるとし、経済的に効率的なものは労働価値を平準化することであるとする。古典派経済学において人間は、労働を投入しうる労働力という商品とみなされ、人間の価値は労働力を再生産しうる最低生計費とみなされる。賃金は、労働によって生産される価値ではなく、労働力を再生産するのにかかる費用、すなわち最低生計費となる。最低生計費と、労働が投入されて作り出される商品の価値との差が剰余価値となり、資本となる。
各経済思想のうち価値理論は、商品の価値が何かによって「我が受け取る取り分が正当か」を決定するため、価値論の問題は分配問題と直結し、経済学において核心概念となる。ボードリヤールは、あらゆる事物は四つの経済的価値を持つとする。たとえば、手に持っているリンゴは、食べれば使用価値、交換すれば交換価値、記号として使えば記号価値、他人に贈与すれば象徴価値となるとする。192)
ここまでの議論を要約すると次のとおりである。
〈表2.3〉宗教—経済倫理—経済理論対比表
| | 貯蓄 | 生産 | 流通 | 分配 |
| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |
| 宗教 | 道教 | 儒教 | 西教 | 仏教 |
| 経済思想 | 自由至上主義 | 功利主義 | 共同体主義 | 社会契約主義 |
| 経済観 | 財富観 | 労働観 | 財貨観 | 分配観 |
| 経済学 | 新古典派 | ケインズ主義 | 制度学派 | 古典派/マルクス主義 |
| 価値理論 | 使用価値 | 記号価値 | 象徴価値 | 交換価値 |
実際に東西洋の経済史を考察すると、西洋資本主義は、道教の財富観と類似して、私有財産と高利貸を「救済の予定」として認めたカルヴァンのプロテスタンティズム的財富観から始まり、中国から入ってきた儒教的富国強兵論によって火がつくことになる。富国強兵策によって西洋の所有欲が噴出すると、ついには富国強兵論の淵源であった儒教の東洋的循環性を破壊し、さらに人間は連鎖的に神を否定するに至り、神の救済の約束としての財貨という西教的循環をも破壊させることになる。循環性が消えた現代は物質至上主義と賭博資本主義へと変わり、現代はこれを救う循環的宗教思想を必要とするようになった。
大巡思想に現れた循環的経済観を理解するために、各宗教と経済思想ごとに、既存の経済思想の宗教的淵源とその制限的循環性をまず考察することにしよう。
2. 中国式道教資本主義と自由至上主義的財富観193)
儒教資本主義やプロテスタンティズムのように、儒教・西教・仏教に比べて、道教は資本主義と関連して学界の論争ブームを巻き起こすことはできなかったが、最も資本主義に近く、中国人に影響の大きかった思想といえる。194)今日、共産主義中国で最も人気のある宗教は道教であり、実際、物質を最優先価値とする現代中国は、195)儒教国家というよりは道教国家に近いといえる。196)儒教に反対した毛沢東は道教を相対的に優遇し、共産主義を常に道教と比較して強調してきており、197)鄧小平の改革開放は道教の柔軟さと関連がある。198)道教は、中国人の理財(理財)に明るい属性と極めて符合する特性を示してきた。現代の道教寺院の神は、財物を司る神明で満ちている。199)中国の道教志向的な経済体制は中国式道教資本主義と呼びうる。200)
中国式道教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、自由至上主義および新古典派経済学と類似した財富観を持っていることが現れる。201)
まず道教の東西洋交流の歴史を考察すると、道教はマテオ・リッチによって間接的に初めてヨーロッパに紹介された後、202)経済理論では見えざる手を主張したアダム・スミス、限界効用論を主張した新古典学派に影響を与え、経済倫理という側面では自由至上主義に影響を与えた。203)ウェーバーによって資本主義の起源とみなされた清教徒主義を創始したカルヴァンが住んだジュネーヴは、当時マルコ・ポーロなどの中国情報が流行する商業地域であり、資本主義の本格的発展となった職業召命説・予定説・高利貸の承認は、中国で道教の勧善説(勧善説)や財富観の影響を受けて施行されていたものである。204)救済の予定の証明としてのカルヴァンの財富観は、「神の恩寵としての財物」という道教的財物観に通じるところがあり、道教はプロテスタンティズムの財富観と極めて類似している。205)腎臓(腎臓)が身体の銀行のように万物を濾過して新たな活力を肝(肝)に送るように、経済においても、未来の期待のなかで財産を貯蓄する財富観が経済発展の核心といえる。206)ウェーバーが述べたのとは異なり、資本主義を発生させたカルヴァン主義は、実は西教と正反対の思想から発生した。207)西教は原則として博愛を主張するため、財富観的な行為は博愛と対立するといえる。208)ウェーバーは西洋資本主義の起源をカルヴァンの予定説とみたが、カルヴァンの禁欲主義は、アダム・スミスの道教的資本主義思想と結合した後にようやく本格的に作動した。209)
カルヴァンは、すべてを分け与える西教の博愛精神に反して、中国やインドのように、当時イスラムでも違法と規定した高利貸を認めて貯蓄の基盤を整える。カルヴァンは、必要な商品の完全な取引を妨げる独占を、殺人と同様のものとみる。カルヴァンの主張に従って、当時ジュネーヴ市は、生活必需品に属するワイン・パン・肉などについて価格統制を実施したという。210)当時の宗教改革家たちは、おおむね全般的な破綻と蔓延した失職に脅かされている商業都市を運営していた。211)カルヴァンの政策によって、ジュネーヴは一世代のうちに、取るに足らない地方都市から国際的な商業・財政中心地へと浮上した。212)大陸とは異なり個人主義が発達してルターよりカルヴァンの影響力が相対的に大きかった英国のアダム・スミスは、カルヴァンの思想を継承し、ケネーから学んだ老子と孔子の思想に支えられて、見えざる手の無為自然を活用する。213)
思想史的に、道教の小国寡民214)思想は孔子と孟子の自由放任的経済思想に影響を与え、再びこれがカルヴァンやアダム・スミスらへとつながったといえる。215)自由至上主義と限界効用学派の思想的起源はアダム・スミスの『国富論』であるが、『国富(国富)論』はその題目からして道教の富国(富国)強兵策から来ており、『国富論』の代表的理論である自由放任が、道教の無為を含む「無為之治」を翻訳した語から出たためである。(脚注70)
教理的な側面でも、貯蓄は現実を否定して未来への期待により希望を懸けるため、「Xは–X」という循環的論理を持つ道教の経済思想となる。小国寡民、水の哲学は代表的な貯蓄思想である。道教は、生産—流通—分配—貯蓄の四側面において、貯蓄を基盤に循環を促進しようとする。
道教の重点経済活動を考察すると、生産—流通—分配—貯蓄という経済サイクルにおいて、道教と関連する経済分野はとりわけ貯蓄といえる。東洋思想が西洋思想に比べて相対的に内向性を志向し、216)東洋思想のうちでも儒教が「進む」宗教であるなら道教は「還る」宗教であるとするとき、道教は老子から無(無)・止(止)を強調してきており、これは経済サイクルにおいて貯蓄に相当するといえる。曹操から受けた財物を一つも使わずに集めておき、劉備へ還るときに財物をすべて分け与えた義理の神・関雲長は、道教において財物の神となり、217)道教の核心教理である無為自然は、経済活動において貯蓄となった。218)道教信者は勧善書(勧善書)と功過格(功過格)を作り、自らの善行がどれほど未来の財富を蓄えたかを確認した。219)
道教は、積極的な活動よりも消極的な観望の知恵を強調している。貯蓄は、分配がすべて終わり、明日を期して、あらゆるエネルギーを蓄えている状態であり、五行では「水」のごとく、色では黒色のごとくといえる。実際、道教は「水の宗教」と呼ばれるほど水の知恵を強調し、黒色を象徴色とする。220)
道教の国家観を考察すると、理想的国家を最小限の政府とみる小国寡民(小国寡民221))思想として現れる。小国寡民(小国寡民)は、無政府主義のように、効用中心の最小限の国として現れる。黄台淵はアダム・スミスが儒教の無為而治を学んだとしたが、222)儒教の無為而治もまた道教から学んだものといえる。道教は、心身関係においても最小限のエネルギーを使う無病長寿を祈願し、元祖といえる老子は富国強兵と民衆の財富増加に集中する。
社会観を考察すると、道教は政治社会的な活動を人為的な努力として否定し、経済的な活動だけで万物を貯蓄を通じて循環させる役割を果たすため、自由至上主義的財富観と共通点を持っている。自由至上主義は、経済倫理において共同体より個人、正義より自由を優先する経済倫理といえる。自由至上主義的経済倫理は、自由を制限するいかなる社会制度も不可であり、経済は個人の貨幣使用に従って見えざる手によって自然に発展する。
平等観を考察すると、道教は、法の前の平等や市場の前の平等のように、道(道)の前の絶対平等を主張する。儒教が共同体に立脚した大同(大同)の平等思想を展開したとすれば、荘子は道の前での絶対平等223)あるいは天生平等説(天生平等説)を追求したという。荘子の絶対平等は、自由至上主義の「法の前の絶対平等」と類似している。
社会制度と士農工商について言えば、道教はまた技術・工(工)を強調する。道教の教理は気功術から始まり、神との合一のための呪文・縮地法・錬金術などあらゆる技術で武装している。道教が生まれた南部中国は、また、尭・舜の時代に土木を担当した共工(工共)族が住んでいた地域であった。
分配と関連して最も重要な価値理論を考察すると、道教は実利を尊重するため、道教的な価値理論は新古典派の限界効用理論と類似しているといえる。限界効用論224)は、限界財である最後の財の効用である限界効用が価値を決定するとする価値論である。たとえば、同じリンゴでも、腹が空いているときに食べるリンゴが、満腹のときに食べるリンゴよりはるかに効用が大きいように、価値とは、労働価値論のように需要者と無関係に一方的に決定されるのではなく、需要者によって決定されるとする価値論である。需要者が空腹であればリンゴの価値も上がり、需要者が満腹であればリンゴの価値が下がる。とすれば、最も価値を高めうる方法は、リンゴを中心にみれば、最も空腹な人の順に食べることが最も価値を高めることである。商品が最も価値あるように動くなら、最も空腹な人の順に循環するというのが、限界効用論に隠蔽されている循環の原理であり、「資源の効率的配分」という限界効用論の長所といえる。また分配は、限界効用の分だけ分配されることを正義とする。限界効用論において分配は、商品に投入された労働の価値によって受け取るのではなく、「我が感じる効用」の分だけ受け取る主観的なものとなるため、分配の不平等を主張するのが難しくなる。
限界効用論において財貨が最も効率的に動くのは、最も効用が急ぐ順に物が消費される場合である。限界効用論は財貨の交換から始まり、商品の循環で締めくくられる。空腹な人は、自分が持っている他の財貨を交換してリンゴを購入するため、交換で始まって最も効率的な循環をするのである。限界効用論においても、循環が多くなり速くなるほど価値も上がるといえるため、実際に価値が生じるのは効用ではなく循環であることが分かる。
限界効用論が実現される場が流通過程であるとすれば、発生する場は道教の貯蓄である。与えられた資源の下で最善の選択を決定する限界効用均等の法則は、自由競争の理論のように、前提条件である経済循環が可能なときに妥当な概念である。225)流通は、火のように、水が集めておいたものを撒くだけである。限界効用が均等になるには、最も空腹な人にパンが回ればよい。したがって限界効用もまた制限的な循環を担っている。
道教は財富観を強調したが、儒教の威勢に押されて資本主義へ発達しなかった。ウェーバーは、プロテスタンティズムが持つ予定説による肯定的財富観が儒教では欠如しており、中国では資本主義が発達しなかったとしたが、226)道教はプロテスタンティズムより財富を強調する。ただ、道教が儒教に抑圧され、財富が蓄積されると再び略奪されることによって、資本主義に至らなかった。
今日、自由至上主義はノージック227)、新古典派経済学はフリードマン228)、ハイエク229)などに代表される。
道教の自由至上主義的財富観の長所と短所を考察すると、長所としては、限界効用均等の法則を通じて経済を循環させる道教の財富観は、与えられた現実への適応はよくするが、与えられた枠を果敢に変えることはできないという限界がある。適応のみを強調する冷徹な自由至上主義社会では、階層の高下を問わず、賭博資本主義に陥る危険がある。
また、制度が不備な場合、道教が現実逃避思想へ流れたように、財富観が容易に堕落しうるという点である。実際、カルヴァンの財富観に従って資本を蓄積させた西洋の財富観は、賭博資本主義へと変わる。ウェーバーが述べたように、禁欲的労働を強調するプロテスタンティズムの肯定的財富観は、ニーチェが宣言した「神の死」と、共産主義の失敗に象徴される「人間の死」の後、誇示的消費と仮想的満足を追求する「賭博資本主義」的財富観へと大きく変化する。
科学が発達すると人間についての秘密が明かされ、いまや人間は神を捨てて自分のために金を稼ぐようになった。「神は死んだ」に代表されるニーチェの言葉のように、神が死んだ世界において、貨幣は「救済」の徴とはなりえず、ただ他人の欲望に対する徴となる。貨幣によって欲望が均質化された資本主義において、貨幣を持っているということは、他の人の欲望をすべて持っているということになる。貨幣は、神と人間の循環に対する徴であったのが、人と人との間の循環に対する約束の徴となった。
共産主義という計画経済の失敗は、人間の理想に対する信頼の喪失によって、他人の欲望としての貨幣に対する信頼も崩れることになった。いまや貨幣は、神のための救済の徴でもなく、他人のための利他主義的欲望の徴でもない、単に他人の欲望を模倣する徴となった。貨幣が人類の理想の徴としての機能を喪失すると、貨幣は賭博資本主義の象徴となった。貨幣はいまや貨幣のための貨幣となってその循環性を喪失し、それ自体が宗教となった。人間が、宗教的損失の状況においても宗教の教主を怨まないように、現代人は財貨をすべて失っても資本主義を怨まなくなった。230)現代資本主義の財富観は、循環性を喪失した賭博資本主義の財富観となった。
〈表2.4〉道教資本主義と自由至上主義比較表
| | 道教資本主義 | 自由至上主義/新古典派経済学 |
| ----- | :---: | :---: |
| 影響史 | マテオ・リッチ、カルヴァンに影響 | 現代主流経済学に影響 |
| 理論 | Xは–X、現実否定・未来準備 | 自由尊重 |
| 重点経済活動 | 貯蓄・財富観・財物崇拝・器局主義231) | 私有財産の増殖、予定と人類理想の徴 |
| 国家観 | 小国寡民、太平実現 | 最小政府、警察国家 |
| 社会観 | 人為排撃 | 政府干渉排除 |
| 平等観 | 道の前の平等、天生平等論 | 法/市場の前の平等 |
| 制度観 | 最小主義 | 市場強調、商業強調 |
| 価値理論 | 実利崇拝、上善若水的適応 | 効用価値、適応を通じた効率 |
| 代表思想家 | 老子、荘子 | カルヴァン、アダム・スミス、ハイエク、フリードマン |
| 長所 | 経済動機の誘発 | 資源の効率的配分 |
| 問題点 | 社会制度否定による虚無主義・現実逃避 | 過度な自由尊重による共同体破壊、神の死による賭博/カジノ資本主義化 |
| 差異点 | 循環/自由のうち循環優位 | 循環/自由のうち自由優位 |
| 問題解決方案 | 過不足の警戒 | 自律に対する責任の承認、良心の回復 |
道教資本主義と自由至上主義の財富観の差異点と関連して問題点を考察すると、道教資本主義と自由至上主義はともに貯蓄と自由を大切にする財富観を持つが、究極的に、道教資本主義は自然が優先であるため自由より自然の循環を優先し、自由至上主義は人間が優先であるため循環より人間の利益を優先する。現代の自由至上主義は道教の影響を受けて資本主義の発展に大きく寄与したが、自然の循環すら無視して人間の利益を追求し、今日の大きな危機を呼び起こしたため、自由至上主義には「自らの責任を否定せずに自由を追求する循環の回復」が、道教資本主義には「過不足の警戒」が緊急に求められる。ここまで財富観と関連して、道教資本主義に現れた自由至上主義/新古典派経済学的特性を要約すると〈表2.4〉のとおりである。
3. 仏教菩薩資本主義と社会契約主義232)的分配観
アジアの四頭の龍と中国・日本という後背地を持つ儒教資本主義に比べて、仏教の経済思想は相対的に注目されてこなかったが、経済関連の言及が相対的に豊富な仏教は、最近のインドの浮上と生態主義の拡散によって、新たな経済代案として注目されている。233)とりわけ仏教の経済思想は、道教や儒教・西教に比べて相対的に生産よりも分配に偏った差別化された経済思想であり、縁起論という厳格な道徳律によって支配される現代的経済思想といえる。234)分配中心的で倫理中心的な仏教の資本主義は、人間の義務を重視する特性が「菩薩資本主義」という語によく現れるため、仏教の経済思想を菩薩資本主義235)と呼びうる。
仏教菩薩資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などにおいて、社会契約主義および古典経済学と類似した分配観を持っていることが分かる。
仏教資本主義の歴史を考察すると、仏教もまたマテオ・リッチが西洋に初めて紹介する。236)仏教はカントの義務主義倫理学に影響を与える。237)アリストテレスの徳の倫理学から始まった西洋の倫理学は、西教の共同体主義的倫理学、カントの義務論的社会契約主義倫理学を経て、英国功利主義に至る。
社会契約主義の根源である義務主義倫理学の始祖カントは、自らも自らの思想が仏教に近いとは知らなかったが、後代の人々がカント哲学と仏教の類似点を多く指摘した。238)
カントは、二律背反という原理を西洋で初めて導入し、インド哲学のような「3」の体系を導入する。239)仏教とインドは、それぞれ「中(中)」「空(空)」「0(零)」という概念を開発し、男/女・陰/陽の二分法のみで成る世界に仏教的三分法を導入し、カントの「二律背反」概念もまた「0」のような第三の概念であった。カントは二律背反を活用して、大陸の合理論は「内容なき形式」であって空虚であり、英国の経験論は「形式なき内容」であって盲目であると批判し、「0」のように合理論でも経験論でもない先験的な知識を主張しえた。仏教のように現象学的に両者を否定したカントは、再び社会契約主義のように義務論を要請する。240)道徳的でありえない人間は「善」と「神」を要請せねばならないが、こうした要請もまた、仏教において「無我(無我)」が「善(善)」を要請するのと同じである。カントの影響を受けたショーペンハウアー241)、そしてショーペンハウアーの影響を受けたニーチェも仏教を高く評価する。242)仏教は社会契約主義経済倫理と、それに関連した平等思想に大きな影響を与えた。
仏教の重点経済活動は、静止しているかに見える虚空(空)が崩れては成るという意の成住壊空(成住壊空)という仏教の循環観に現れるように、貯蓄—生産—流通—分配のうち、財産とは縁起(縁起)によって生じ、階級を認めないため、243)公正な分配を中心に経済活動が現れる。
仏教の教理体系を見れば、効率性よりも縁起論に従って公正に分配する、分配中心の循環を強調する宗教といえる。仏教において分配を強調する理由は二通りに解釈される。一つは、仏教が発生したインドは天恵の風土のため食糧生産に人為的努力がほとんど必要なく、二期作も可能で、天災が起きてもそれを運命に帰したため、インドのような社会では当然「作る」道徳よりも「分ける」道徳が強調されたという。244)もう一つの解釈は、生産力が極めて低い社会階級においては、生産物の均等配分がなければ人々は共に生きていけず、釈迦在世時のインドは種族社会で生産力が極めて低い社会であったというものである。245)「XはXでも–Xでもない」として新たな動きそれ自体を否定し動きを固定させる仏教は、効率性よりも衡平性と「正義」を強調する点で社会契約主義と類似している。246)
仏教の重点経済活動を見ると、仏教はしばしば世俗的な労働を離れた超越的宗教として認識されもするが、ブッダの教えはそうした認識が偏見であることを示すという。247)
釈迦如来は、何の経済活動もしない人を盲人、財産を得たり増やしたりする方法は知るが善悪を区別する眼のない人を、両眼ある人を「財産を得たり増やしたりする方法も知りながら善悪を区別することもできる人」とし、正しい分配に立脚した経済活動を大切にする。248)
道教的な貯蓄を通じて経済潜在力が膨張した経済は、創造的飛躍をする前に、飛躍後の財富をいかに分配するかをまず考慮する姿となる。社会契約主義もまた、「自由至上主義において最大多数の幸福のための自然的な極大化方法はない」とするA・C・アローの不可能性定理に対する代案として出現したという。249)
循環論では、発展は直線ではなく、「一陰一陽これを道という(一陰一陽之謂道)」250)とするように、一度拡大すれば一度縮むという「乙(乙)」字の形態で発展する。251)道教によって蓄積された力量は仏教的な思想によって養生(養生)された後に生まれ、再び儒教へ飛躍する。仏教は、縁起という循環論的法則に合わせて万物を正確に分配する。252)
仏教の国家観を考察すると、やはり分配を強調する。253)仏教では国王の分配政策を重視し、正しい経済運用の方向を提示してもいる。254)
ブッダは、社会的諸問題は経済的不均等に起因しており、国家は適切な再分配政策を通じて社会的公正を実現せねばならないとする。
ブッダが主張した国家の分配政策の基準は、米国の政治経済学者ロールズ(J. Rawls)の社会契約主義的見解と相当の類似点を持つという。ロールズは、所得分配の公平とは、社会構成員の現在の社会的位置に関係なく、社会構成員の同意があるものであれば、それは公平とみなすべきと主張する。そして、最低所得集団である極貧者の厚生を最大限に上げうる所得分配政策であれば、ひとまず公平といえるとする。255)
国家が、貧しい農夫に生産基盤を、商人に資本を、雇用人に賃金を支払うことによって、正しい方向への財貨の均等分配がなされ、社会正義が実現されうるというのが『究羅檀頭経』256)の説明である。しかし両者がより接近しているといえるのは、道徳的命令にその基盤があるという点である。『究羅檀頭経』において国家の分配政策は、一時的な貧民救済の次元ではなく、貧しい人々が持続的に生計手段を持って生産活動に従事することによって自立の基盤を構築し、窮乏から脱するよう助けているという点にその意味があるという。257)ロールズにおいても、道徳的原則が分配原則に対する判断の基準をなしていることを看過してはならないという。
仏教の社会観として福祉概念を見れば、仏教徒はとりわけ『優婆塞戒経』などで説かれている三つの福田の概念に留意しながら経済生活を営む。その三つの福田とは、功徳田(功徳田=敬田)・報恩田(報恩田)・貧窮田であり、社会福祉について仏教もまた、個人の自発的な動機258)による結果とみなす。259)
仏教の価値理論を考察すると、アダム・スミスの労働価値論と類似している。アダム・スミスの労働価値論は、現象学において判断中止した状態で、商品の流れのなかに価値の根源を求めたのと同じである。アダム・スミスから経済学が始まるというのは、アダム・スミスが「価値の根源は労働である」と初めて労働価値論を主張したためである。260)労働価値論では、500ウォンの商品より1,000ウォンの商品が高い理由は、500ウォンの商品を作るのに必要な労働より、1,000ウォンの商品を作るのに労働がより多く入るからとする(訳注:原文は錯綜しているが趣旨は「投入労働量が価格を決める」)。あらゆる商品の価格を決定する価値の基準が人間の労働であると明らかにされると、経済と関連するあらゆる要素が一貫して整理された。仏教の縁起論は、西洋経済思想において労働価値論として現れる。261)労働価値論とは、商品の価格を構成するのはその商品に投与された労働であるというものであり、「蒔いた分だけ刈り取る」という縁起論と一致する。商品が労働の対価であるなら、人々は労働の対価の分だけ公平に分配されうる。
あらゆる価値の根源が人間の労働であるため、労働を高める労働力の再生産は最も重要な生産となる。アダム・スミスによれば、生産的労働とは、労働力を再生産するのに必要な必需品生産に直接投与した労働をいう。釈迦如来もまた商業労働と生産労働を区別し、生産労働を強調する。
「仕事が多く担うところが多く労力の多くかかる業務と、仕事が少なく担うところが少なく労力の少なくかかる業務とがある。前者は耕作であり、後者は商業であるが、実行すれば偉大な果報を得るが、実行しなければ偉大な果報は得られない。」262)
「商品の価格は投与された労働量である」とする労働価値論は、循環とは何の関連もないように見える。労働価値論の背景としての循環は、等価交換の法則を商品循環に適用すると現れる。市場は交換の法則が作用するため、市場のなかで不等価交換をする者は誰もいない。人間が自己の労働力を自己の労働力の再生産費用以上の対価で販売し、等価交換が連続するなら、誰も損をしないはずなのに、剰余価値はなぜ生じるのか。まさに誰かが絶えず与えているためであり、それがまさに自然の領域である。263)
労働価値論において、自然の循環による贈与が価値の根源となることを最も明確に示す概念が、労働力と労働の区分である。労働力は労働しうる能力であり、労働は労働そのものである。労働力は一晩過ぎれば再び生じる再生可能性が、労働と労働力の違いである。労働力は、一晩を過ごすうちにどこかで新たな価値を付与されて来るのである。
道教的貯蓄から発生した使用価値は、交換分配過程において実現される。限界効用論において効用が生じること自体が循環による差異の解消にあるように、労働価値論において、労働力と労働の差異から、自然の循環による純粋贈与、すなわち使用価値が現れる。労働価値論が流行(遊行)という動態的観点から循環を把握したとすれば、限界効用は待対(待対)という静態的関係から主観的観点で価値を把握したといえる。
仏教は膨張後に分配を強調するため、儒仏仙と西教のうち最も循環論的特徴が際立つ。264)仏教の労働は、「縁起なくば分配なし」という、贈与と分配としての労働となる。265)
仏教は、万生万物が互いに縁起論的に連結されて循環するため、人間は菩薩のように万物を自分の身のごとく思わねばならないという菩薩資本主義的分配観を持っている。266)最近、社会の循環を強調する経済学は、仏教の循環論的経済思想に立脚して、既存の価値論の隠蔽された循環性を見出した。労働・効用・革新という既存の価値論の共通点は、儒仏仙とは異なり、いずれも人間の努力を強調して循環を隠蔽し、「価値の根源は人間の努力だけで生じたのではなく、自然の循環から生じる価値が人間の努力によって加工されるときに生じる」ことを隠したという点である。
環境危機と人間疎外を直線的な古典資本主義が解決してくれないと、西洋の財貨観は、蓄積のために欲求を抑制する禁欲主義的財貨観から生態学的経済観へと変貌することになる。267)無限に財貨を蓄積していた人間は、環境問題と人間疎外という壁に突き当たり、共同体を通じた分配問題を解決しうる価値論を悩み始める。価値は革新によって無限に創出しうるという信頼が崩れ、自然と社会を共に考慮する循環価値論が登場し、人間労働の循環と欲望の対称性を強調する。とりわけ20世紀後半になってようやく一般人に広く知られ始めた仏教の経済思想は、最も人間の意識と一致する宗教経済思想であるという。268)
仏教の問題点を考察すると、仏教と類似した社会契約正義論の問題点と似た問題を挙げることができる。ロールズの社会契約正義論において人間は、利益のために動くのではなく、契約という義務を守るために動く。仏教は公平な分配を志向するが、仏教は功利主義のように効率を追求することもなく、自由至上主義のように自由を志向することもなく、共同体主義のように「自らがまず分け与える」ことを志向しないという問題がある。仏教はただ、あらゆる価値が正義に適用されることを願うだけである。仏教の経済思想は、社会契約主義倫理論の福祉国家論と類似して、効率性が落ち、創造的な徳を排除している。社会が複雑になるにつれ、正義と公正な縁起という境界が不分明になった。
仏教菩薩資本主義と社会契約主義の違いを考察すると、仏教菩薩資本主義と社会契約主義はいずれも義務の遵守を強調するが、仏教菩薩資本主義は縁起(縁起)をより大切にするため、循環を義務より強調する一方、269)社会契約主義は義務をより強調する。西欧の社会契約主義は社会保障制度の発展とともに資本主義の発展に大きく寄与したが、共産主義の崩壊に見られるように、人間と社会に対する不信をもたらして今日の危機を招いたため、社会契約主義には「恩を忘れない報恩精神」が、仏教菩薩資本主義には「個人の解脱を超えた共同体の尊重」が必要である。菩薩資本主義とロールズの社会契約主義倫理学を比較すると次のとおりである。
〈表2.5〉菩薩資本主義と社会契約主義比較表
| | 菩薩資本主義 | 社会契約主義/古典派経済学 |
| ----- | :---: | :---: |
| 影響史 | カント、ショーペンハウアーなどに影響 | 社会契約主義的平等思想に影響 |
| 理論 | 縁起論による公正な分配 | 効率性より公正性を重視 |
| 重点経済活動 | 正しい分配のための生産 | 経済論理ではなく正義の原則を重視 |
| 国家観 | 中立国家、社会公正性の維持 | 基礎的社会保障国家 |
| 社会/平等観 | 功徳田・報恩田・貧窮田 | 最低所得の維持 |
| 価値理論 | 無縁起・無分配 | 労働価値論 |
| 代表思想家 | シューマッハー | アダム・スミス、ロールズ、カント |
| 長所 | 対称性の回復、倫理の回復 | 経済学への義務導入による共同体発展の契機 |
| 問題点 | 縁起の境界の不透明 | 契約違反時の対策の名分の欠如 |
| 差異点 | 正義より循環を重視 | 循環より正義を重視 |
| 問題解決方案 | 縁起論の補完 | 義務遵守と連帯を通じた正義270) |
4. 儒教資本主義と功利主義的271)労働観272)
20世紀後半、中国と日本、ベトナム、そして「アジアの四頭の龍」と呼ばれた韓国・台湾・香港・シンガポールなど、儒教が国家思想であった国だけがとりわけ世界経済を席巻し始めると、中国共産党が反近代的思想として罵倒した儒教が資本主義より優れた思想ではないかという反省が起こり、「儒教資本主義」についての研究が世界的に流行した。273)
米国エンチン研究所の杜維明274)、日本の森嶋通夫275)、韓国の咸在鳳276)によって、儒教と資本主義の親和性についての研究が進められ、西洋オリエンタリズムによって歪曲された儒教思想の優秀性が一つずつ明らかにされ始めた。277)儒教資本主義を精力的に伝播する杜維明らは、儒教が資本主義の発生と発達にいかに肯定的な機能を果たしてきたかについて披瀝する。278)
儒教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、功利主義およびケインズ—シュンペーター経済学と類似した労働観を持っていることが分かる。
儒教思想が西洋の経済思想に及ぼした影響史を考察すると、西洋でカルヴァン主義によって財富が蓄積されると、次は生産が主要な問題となった。西洋はギリシア・ローマ以後、西教に至るまで、個人の貪欲に対する極度に否定的な見解があってきたが、財貨が救済の徴となった状況で、利己心を社会倫理の根源とみる経済思想の変化が生じた。当時、倫理学教授であり、のちに経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、親友であったヒュームとともに中国の経済思想を学び、279)当時、個人の利己心が逆説的に社会的発展をもたらすとして社会的物議をかもした『蜂の寓話』280)の論理を批判・発展させて、ギリシア以後流れてきた「貪欲への禁忌」という西洋の伝統にコペルニクス的革命を起こす。アダム・スミス以前には人間の標準であった利他的人間は、アダム・スミス以後、詐欺師か非合理的な人、良心の不良な人とみなされる。価値は効用価値のみならず、人間の創造性による革新によって生じるとする革新価値論が現れ、世界は革新の角逐場となる。
儒教の理論体系を見れば、儒教は「創造性を抑圧する古臭い理論」という通念とは逆に、代表的理論書である『大学(大学)』に「明徳(明徳)」「在新民(在新民)」「日新又日新(日新又日新)」と強調するように、貯蓄によって作られた種を創造性を通じて芽吹かせうる推進性の創造性を特徴とするといえる。281)中国は、儒教の富国強兵術によって18世紀まで世界最高の経済力を誇った。282)マテオ・リッチ(利瑪竇)がよりによって中国に行って地上天国を広げようとした理由は、中国が当時世界最高の先進国であり、ヨーロッパは中国に追いつくのが困難な時代であったためである。マテオ・リッチと彼の同僚であるイエズス会宣教師たちが中国に来て、中国が富者である理由として見出したのは、富国強兵を主とする儒教であった。当時、中国は韓国とともに、王から一般庶民に至るまで儒教を学習する世界唯一の教育体制の国であり、その思想的基盤が儒教であった。283)
儒教の中心経済活動を考察すると、貯蓄—生産—流通—分配のうち生産を強調する。仁(仁)を強調した儒教は、孟子に来て仁義(仁義)を同時に強調しもしたが、生産である仁(仁)を最も強調したのである。儒教資本主義において人間は、万物を循環させるために共同体284)を成し、最大多数のための最大幸福を通じた構造的革新をする功利主義的労働観を持つ。285)功利主義的労働観とは、循環的貯蓄観や循環的分配観と同様に循環を中心としつつ、革新286)を通じて生産で循環を主導する方法をいう。
儒教の国家観を考察すると、儒教は孔子の人文主義国家観に代表されるといえる。287)孔子は、自由至上主義的な家族主義国家観の問題点を補完して長所を活かし、血縁の自発性から「最小の過失のための人文啓発の熱望」によって国家を想定し、ヨーロッパがあれほど羨んだ哲人国家の伝統を作った。288)
儒教は、『論語』と『孟子』に出てくるように、戦国時代にすでにケインズ的経済調節政策があり、当然アダム・スミスの自由放任政策を施行して富国強兵を最大限効率性をもって施行していた。289)西洋資本主義の儒教淵源についての研究は、ついに「東洋が西洋から資本主義を学んだのではなく、西洋が東洋の資本主義を学んだ」がゆえに20世紀にヨーロッパとアジアの経済順位が入れ替わったことを証明した。
ただ、西洋は東洋に資本主義を学んだが、その内面にある易(易)の循環的経済観を学べなかったため、大きな災厄を呼び起こすことになった。
儒教の社会観を考察すると、儒教資本主義は効率を強調しつつ、社会全体の集合的な効率を強調する点で、倫理学的には功利主義に近い。290)人間が貪欲を追求しても見えざる手が調整するというアダム・スミスの経済思想は、「道」を模倣したものであった。儒教は、社会構成員が一つの目標を追求する大同社会を志向する。当初、孟子の自由主義経済思想を模倣したケネーの農業中心的資本主義を、商工業中心の自由主義資本主義経済へ転換したのがアダム・スミスの古典的資本主義であった。
儒教の価値論を考察すると、儒教の価値論は革新価値論と記号価値として現れる。291)革新価値論を考察すると、労働価値と限界効用価値が同一であっても人によって結果物が異なるのは、労働と効用以外に別の価値の創出要素があることを意味する。まさに労働と効用を決定する人間の要素が価値を決定し、技術が発達するほど価値を作る人間の役割が大きくなっている。人間は人的資本として投資・管理される。
儒教は絶えず人を叱咤して新たなものを創造させる。労働価値と限界効用が、与えられた枠内での待対と流行を通じて最大値を創出する価値論であるとすれば、創意性あるいは革新価値論は、その枠自体を拡大する価値論といえる。生産と分配を調節する人間の革新は、機会が平等に循環するほど右へ動くといえる。シュンペーターは、革新が価値の源泉であり、革新なき社会には価値がありえないとした。最初の創造性の契機として出発した儒教は、社会の価値体系を独占した後、創造性の契機が消えることによって経済を多少停滞させたが、現代社会に更新されてアジア経済の発展を牽引する牽引車の役割を果たしたのである。
記号価値を考察すると、記号価値もまた革新とともに、その価値の源泉は循環にあることが現れる。292)まず、何かが創造されるということは、循環の待対と流行を円滑にするということである。たとえば、赤が流行すれば次は青が流行し、青いものが流行するときに赤いものを準備することが革新といえる。革新は、今日、我と他人を区分する「差異の記号」を生産している。
儒教と功利主義の長所を考察しよう。道教の使用価値と仏教の交換価値は相互に対立するが、二つの概念が人間の最低生計水準において妥当な概念であるとすれば、その水準を超えれば、その二つを調和させる新たな記号の創造が要請される。「使用価値」と「交換価値」が「量(量)」の経済において必要な価値であるとすれば、儒教の「記号」価値は「質(質)」の経済において必要な概念である。293)人間が最も重点を置くべきものは、労働を通じた生産と想像力を通じた革新といえる。294)道教の使用価値と仏教の交換価値は、儒教によって記号化され革新されて、新たな質的価値として誕生する。記号価値を選好する儒教は「XはX、–Xは–X」という区別を最優先とする。記号学の時代である後期資本主義は、記号を生産して消費する最も効率的な体系となった。295)儒教資本主義の記号価値は、共同体を人文化させて持続可能な発展を引き起こす。
儒教と功利主義の問題点を考察すると、功利主義が福祉国家に最も近く見えるが、功利主義は個人の効用を強調するのではない点、社会全体の不平等は考慮しない点、効用を一元的に評価する主体を想定しており、多様な社会構成員の集合的な選択過程を無視する点で、儒教と共通する問題がある。アダム・スミスの古典的資本主義には、見えざる手が道(道)のように作用して需要と供給の均衡を合わせるが、アダム・スミスもケネーも中国の経済思想から学べなかったのは、中国思想の背景に敷かれている循環性であった。中国の易(易)思想のように、見えざる手は螺旋形発展をしてこそ持続可能な成長をなしうるが、アダム・スミス以後、ヨーロッパ経済は螺旋形発展ではなく直線形発展を選択する。直線形発展を追求していたヨーロッパ経済は、第一にマルクス主義革命、第二に環境危機を迎えて、再び東洋的淵源に戻り、螺旋形発展を追求することになる。中国が体制を柔軟化させ、資本主義国家が社会保障制度を強化するように、儒教において三綱五倫の弱者の利益を保障して相生する方法によって、功利主義と儒教資本主義を発展させうる。ここまで儒教資本主義と功利主義を比較すると次のとおりである。
〈表2.6〉儒教資本主義と功利主義比較表
| | 儒教資本主義 | 功利主義/ケインズ—シュンペーター経済学 |
| ----- | :---: | :---: |
| 影響史 | アダム・スミス、ケネーに影響 | 福祉国家に影響 |
| 理論 | 創造性重視、日新又日新 | 有効需要、企業家精神 |
| 重点経済活動 | 生産・仁(仁)・労働 | 最大多数の最大幸福のための大量生産 |
| 国家観 | 人文主義国家観 | 福祉国家 |
| 社会/平等観 | 大同社会、大同の平等296) | 集合的効率を重視 |
| 価値理論 | 記号価値 | 革新価値論 |
| 代表思想家 | 孔子、司馬遷 | ベンサム、ミル/ケインズ、シュンペーター |
| 長所 | 共同体の人文化、革新 | 革新、共同体発展の契機 |
| 問題点 | 団体中心、画一化 | 個人の人権侵害、質的差別の無視 |
| 差異点 | 循環が功利より優先 | 功利が循環より優先 |
| 問題解決方案 | 三綱五倫における弱者尊重 | 少数の利益保障 |
5. 西教(西教)西欧資本主義と共同体主義的財貨観
マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムと資本主義の精神を発表して以後、西教は資本主義との密接な関連があると知られた。しかしウェーバーが明らかにしたのとは異なり、プロテスタンティズムは、西教の博愛精神に基づく共同体精神が儒教と差別化されて、資本主義の成立に成功したといえる。297)
西教西欧資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、共同体主義および制度経済学と類似した財貨観を持っていることが分かる。
西教西欧資本主義の歴史を考察すると、プロテスタンティズムを西教と同一視したウェーバーとは異なり、西教の博愛思想は、プロテスタンティズムの財富観とは正確に正反対の思想を持っていた。298)道教の財富観が「水(水)」のように万物を引き寄せて蓄積する役割をするとすれば、「博愛(博愛)」は「火(火)」のように、集めておいた財富を必要な所に消費して循環させる役割をする。「博愛」は、消費に注力して価値を生産しないのではなく、効用を実現させて価値を生産する。実際、西教は聖霊を「火(火)」として表現する。299)
西教の重点経済活動を考察すると、貯蓄・生産・流通・分配という経済循環のうち流通に相当する。貯蓄・労働・革新を通じて構築された価値は、博愛という共同体主義的財貨観に立脚した流通を経て、ようやく価値が実現される。西教は、貯蓄—生産—流通—分配という経済四段階のうち、主に流通を通じて循環を主導する。300)流通は、既存の貯蓄・分配・生産とは異なり、生産と無関係な消費と贈与(贈与)の概念である。儒教の革新によって生じた記号は象徴となって価値を統合し、愛の象徴として贈与されることによって、経済活動は一つの循環を締めくくる。301)
西教の教理を経済と関連して考察すると、西教が流通を象徴するといえるのは、同じ唯一神を信じる宗教であるイスラムとは異なり、「利子(利子)」を認めるという点である。西欧資本主義は、単に再使用のための貯蓄を超えて、「利子」を認めることによって始まったといえる。302)カルヴァンが認めた利子は、同一の唯一神を崇拝するイスラム教やユダヤ教では現れない思想であった。利子に対する承認は、西教の博愛と三位一体によって受容可能な論理であった。303)聖子(聖子)は、無意識的対称性によって循環によって増えた価値であり、博愛は「火」のように万物を流通させることを特長としている。304)
貨幣の別の表現である「金(かね)」というものは循環を象徴し、博愛は最も「金」の属性にふさわしい教理体系を持っている。305)実際、西教の宣教師はマテオ・リッチのように全世界を巡って西教を流通させた。西教の唯一神思想は、貨幣のように、単一の基準であらゆるものを統一させる思想を持っていた。306)
西教の国家観を考察すると、共同体主義倫理学の国家観のように、国家は積極的に共同体の理想を実現する場となる。西教は教皇と王という二元的体制の宗教であるが、王が国家において共同体の理想を実現しうる。西教の国家観は、共同体を通じた地上天国を志向するといえる。
西教の社会観を見れば、独立的な各個別主体が批判的に市場経済307)を眺め、共同善を主張する点で、共同体主義に近いといえる。308)共同体主義は、社会契約主義とは異なり、社会連帯を利害打算ではなく、歴史的に成り立った感情共同体とみなす。西教は家族を重視しないため、皆が兄弟・姉妹と呼ばれる。共同体主義は最も理想的な経済思想といえるが、そのためには循環に対する確固たる保障が必要である。
西教西欧資本主義の価値論を考察すると、西教の流通—財貨観と最も近い価値論は、文化価値論309)あるいは象徴価値論310)といえる。最も必要な人に流通させて最も高い効用を引き出す限界効用の法則は、流通を通じた博愛という贈与の実践によってなされ、このとき交換価値・使用価値・記号価値は象徴価値となる。共同体主義の象徴価値は、西教において神との約束として現れる。
西教の博愛論は、生産の段階から流通・消費の段階へ行く第一段階となる。とりわけ贈与の論理が作動して、商品の価値は象徴価値として固まり始める。記号学的な身分の差異を表すところまで発展していた商品の変化は、流通されながら象徴価値として固まり、霊(霊)的資本となる。311)
西欧資本主義の長所を考察すると、ウェーバーが資本主義成立の原因として指摘したプロテスタンティズムの財富観とは異なり、西洋で真の資本主義が発生したのは、東洋の儒仏仙思想には欠如していたこの博愛の贈与思想であるといえる。西教は東洋とは異なり、道教と儒教の富国強兵策で製造された財貨を博愛思想に従って広く流通させることによって、財貨の循環を促進させて産業資本主義の構築に成功したといえる。農耕社会の民族は情緒的紐帯感は深いが、長期間の同居によって縁故資本主義のような役割が生じざるをえないのに対し、非農耕民族は公平な関係を維持するため、共同体を形成するのにより有利である。
西教西欧資本主義の問題点を考察すると、西洋の財富観が「神の死」と「理念の死」に従って変わるように、財貨に対する象徴価値の観念も変わる。神の慈悲の証明としての財貨は、神の死以後は使用の対象として、また理念の死以後は仮想現実として現れることになる。今日、西教は繁栄神学となって、再び財貨は救済の証明となったが、絶対的貧困水準を超えれば、もはや羨望の対象ではなく、他者の欲望の徴にすぎない。312)
貯蓄・労働・革新の価値をうまく調和させて発展してきた西欧資本主義は、物質文明の発展を成し遂げたが、物質文明がその根である儒・仏・仙の循環構造の精神文明を妨げることになった。資本主義経済の根源である社会と自然の循環性は、環境危機と人間疎外というブーメランとなって現代経済の足を引っ張ることになった。循環を通じた価値の実現よりも、天国のために今日を犠牲にする賭博資本主義が経済価値となった。自らの根である循環価値の実現は後日に先送りされ、直線的物質文明を追求するようになった。個人の経済観もまた循環的倫理を喪失して経済を追求するが、経済はいっそう困難になった。313)
生産と唯一無関係な共同体主義は爆発的に増加しており、これは東欧国家の社会主義崩壊に伴う代案模索の次元が強いという。314)
経済の循環のために、受け取りうる保障のない贈与をせねばならない理由は、循環が崩壊すれば、何かを常に志向する人間意識の志向性が崩壊するためである。実際、能力主義に心酔した現代人は、しばしば憂鬱症と無力感に陥る。共同体主義を代表するマッキンタイアは、現在の自由社会が直面している問題は、贈与の不在による目的意識の喪失であり、目的意識がない限り道徳は趣味や嗜好にすぎなくなるとする。315)
西教西欧資本主義と共同体主義の差異点は、共同善と循環の優先順位において、西教西欧資本主義が共同体主義に比べて共同善を優位に置くという点といえる。西教では、共同体の善もまた究極的には絶対者の意にすぎないからである。
経済学的共同体主義は、いまだ共同体主義が発生する心理学的機制を発見しえなかったが、精神分析学において、無意識的対称性によって共同体主義が必然的に発生することを証明した。マッテ・ブランコは、ラカンの精神分析学において無意識が対称的に成り立っていることを発見した。
〈表2.7〉西欧資本主義と共同体主義比較表
| | 西教(西教)西欧資本主義 | 共同体主義/制度主義経済学 |
| ----- | :---: | :---: |
| 影響史 | 非農耕文化共同体主義 | 現代共同体主義 |
| 理論 | 利子の承認、三位一体 | 贈与経済論、一般経済論 |
| 重点経済活動 | 博愛の実現を通じた共同体 | 贈与・流通・消費 |
| 国家観 | 地上天国 | 共同体国家 |
| 社会/平等観 | 神の兄弟姉妹 | 感情共同体 |
| 平等観 | 神の前の平等 | 共同体の前の平等 |
| 価値理論 | 神との約束 | 象徴価値 |
| 代表思想家 | カルヴァン、ウェスレー | マッキンタイア、マイケル・サンデル |
| 長所 | 集団行動が可能 | |
| 問題点 | 環境問題 | 現実性の不足 |
| 差異点 | 循環重視 | 共同体重視 |
| 問題解決方案 | 対話の増進 | 目的意識の強化 |
人間の意識は自分にのみ有利な交換意識を持っているが、人間は無意識の対称性によって、誰かに与えることになる志向性を持ち、受けたものを返す負債感を持つ。モースは、世界の贈与経済体制において負債感に訴えるとする。人間に負債感を感じさせるものが、無意識的対称性といえる。ここまで議論してきたことを整理すると次の表のとおりである。
Ⅱ-1・2・3・4章を要約すると次の表のとおりである。
〈表2.8〉貯蓄—生産—流通—分配関連表316)
| | 貯蓄 | 生産 | 流通 | 分配 |
| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |
| 宗教 | 道教 | 儒教 | 西教 | 仏教 |
| 経済思想 | 肯定的財富観 | 召命的労働観 | 公共的財貨観 | 縁起的分配観 |
| 循環 | 反対—相互対立 | 期待—相互依存 | 代行—相互代行 | 交流—相互消長 |
| 経済思想 | カルヴァン主義 | 企業家精神、パレート最適317)(厚生経済学) | 福祉国家318) | カント主義 |
| 経済倫理 | 自由至上主義 | 功利主義 | 共同体主義 | 社会契約主義 |
| 価値論 | 効用価値論 | 革新価値論 | 貨幣価値論 | 労働価値論 |
| 価値 | 使用価値 | 記号価値 | 象徴価値 | 交換価値 |
| 適用領域 | 有用性の次元 | 身分の次元 | 贈与の次元 | 取引の次元 |
| 作動論理 | 作用性 | 差異性 | 曖昧性 | 等価性 |
| 資本主義 | 中国資本主義 | 儒教資本主義 | 西欧資本主義 | 菩薩資本主義 |
| 経済正義 | 無為自然 | 日新又日新 | 博愛 | 慈悲・空・縁起 |
| 循環 | 限界効用均等319) | 創造的革新 | 信用創造 | 労働力の再生産 |