Ⅰ. 序論(はじめに)
1. 研究の必要性
神を冒涜した罪により、ギリシア神話のシーシュポスは、永遠に岩山の頂へ岩を上げてもまた転がり落ちるという苦痛の罰に処せられたという。シーシュポスのように、極度に発達した物質文明のなかにあっても満足を知らない現代人の精神的苦痛は、現代人の経済哲学が儒仏仙・西教に由来しながらも、自らの存在だけでは問題を解決しえない自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義の枠に閉じ込められ、循環1)という方法によってその枠を抜け出せずにいることにある。とりわけ循環は、シーシュポスのように絶対者の助けなしには決して岩を山頂に上げることはできないという秘密を蔵しているからである。
宗教が倫理を発展させ、倫理が経済を発展させるという宗教と経済の好循環を信じない現代人は、経済思想が宗教に起源したことを久しく忘れている。2)しかし、宗教が経済発展の障害になるとして宗教を無視した近代以降、実質的な経済はかえって後退し、3)人間はウェーバーの言う直線的合理化という「鉄の檻」に閉じ込められるに至り、4)経済思想はすなわち宗教思想であるとしたウェーバーの主張が再び注目されている。5)実際、今日、韓中日の東洋三国が世界経済を主導するに至り、経済と倫理のうち倫理を優先する儒仏仙の循環的経済思想が、むしろ経済発展の原動力として浮上している。6)
ウェーバーが述べたように、宗教は時代の経済的危機を克服してきた。7)東洋の代表的宗教である儒教・仏教・道教と、西洋の西教(西教)8)は、いずれも文明の枢軸時代と呼ばれる鉄器時代への転換期に、経済体制の変化に対応する思想体系として、王室と基層民衆の呼応のもとに発展してきた。9)今日、経済発展の原動力である宗教がかつて経済発展の障害とみなされたのは、宗教自体の問題ではなく、世界経済が相互に交流して規模が大きくなったにもかかわらず、宗教は相互の循環がなされず、互いに衝突したためである。10)宗教が互いに衝突する新たな状況において、人類は、宗教が経済問題を解決していた過去の循環の知恵を活かして諸宗教を相互に循環させる力量を発揮できず、既存の宗教を廃棄してしまうという過ちを犯してしまった。11)
宗教を遠ざけた現代人は、ウェーバーが予言したとおり、事物がすべて直線的に12)合理化される鉄の檻に閉じ込められ、経済はいっそう困難になった。そのなかで、儒仏仙の伝統が強い韓中日の東アジア三国の経済的発展は、儒仏仙と西教の経済思想の長所を統合して経済と倫理を循環させうる新たな宗教の出現を期待させるに至った。13)
「マテオ・リッチ(利瑪竇)が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」14)とする西洋経済学の東洋的淵源と、15)「金は循環の理によって生じ、用いられる物である」16)という、循環性によって特徴づけられる大巡思想の経済観は、儒・仏・仙と西教の長所を統合して、経済と倫理の新たな循環的経済観が可能であるとする。大巡思想に現れた西洋思想の東洋的淵源によれば、西教は東洋の儒・仏・仙と結合して個人と共同体の葛藤を解決する西洋の経済倫理となり、倫理と経済のうち倫理を優先する東洋の循環的経済観は倫理と経済の葛藤を解決するため、個人と共同体・経済と倫理の循環性を通じて儒・仏・仙と西教の衝突を解決できるからである。
経済学と倫理学の相互循環についての主張は古くからあったが、倫理学と経済学の基盤となった儒・仏・仙と西教が循環的関係にあるという主張は、大巡思想が初めてである。大巡思想は、経済と倫理が循環するのみならず、個人と共同体もまた循環関係にあるため、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸から生じる経済問題はすべて循環的方法によって解決しうるとする。「金は循環の理17)によって生じ、用いられる物」という意味のなかには、第一に、万物が天命(天命)によって生じ、各自の必要に応じて使用されるという循環論的分配倫理が込められているのみならず、第二に、儒仏仙と西教に基づく経済思想もまた内部的に循環するという意味が含まれている。
今日の経済問題の核心軸は個人—共同体、倫理—経済といえるため、循環の危機を具体的にみると、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸に従って四つに区分される。第一に、個人—経済の側面における経済動機崩壊の問題18)、第二に、個人—倫理の側面における経済倫理の失踪、第三に、共同体—経済の側面における資本主義—共産主義という体制の問題19)、第四に、共同体—倫理の側面における、ますます深刻化する環境危機の問題である。
[図1.1] 現代の経済問題
インターネットは世界を、万人が互いに共感する共感の時代20)にしたが、むしろ技術の発達によって一つのウイルスが世界全体のネットワークを崩壊させる今日、循環の麻痺による経済危機は、過去の経済危機とは比較にならぬほどその規模と余波が日ごとに深刻化し、人類は日常的な経済崩壊の危険に晒されている。東洋宗教では早くから、経済と倫理のうち倫理を優先すれば経済を生かしうるとする。「経済(経済)」という語の起源と、東洋的思想の精髄である『大学』では、経済と倫理の相互循環を強調している。東洋の「経済(経済)」とは、「世界の経緯(経緯)を立てて民を救済(救済)する」という「経世済民(経世済民)」の略21)であり、『大学(大学)』では「徳(徳)は本であり、財(財)は末である(徳者本也 財者末也22))。本を外にして末を内にすれば、民を争わせ、奪うことへと導く(外本內末 爭民施奪)。このゆえに財が集まれば民は散じ、財が散ずれば民が集まる(是故財聚則民散 財散則民聚)23)」として、倫理を優先してこそ経済の循環を再生しうるとする。今日の世界経済は、「経済(経済)」の定義および『大学(大学)』とは正反対に、受け取るばかりで与えない一方的な経済論理によって循環の危機に直面するに至った。
西洋経済学において、個人と共同体の循環問題は、今日「囚人のジレンマ」のようなゲーム理論に基づく行動経済学に答えを求めている。24)行動経済学において経済の循環を回復させる方法もまた、個人と共同体の優先順位の交替である。「囚人のジレンマ」とは、二人の囚人が捕らえられ、双方に「相手より先に白状すれば罪を軽減する」という条件が与えられたとき、囚人がいかなる判断を下すのが最も賢明かを研究する学問である。囚人のジレンマを研究する行動経済学では、両者とも白状しなければ皆に有利であるが、両者とも白状するという最悪の決定に陥りやすく、今日の市場経済はまさに囚人のジレンマのように不必要な危機を経ており、協同を通じて最悪の危機状況を脱しうるとする。25)とりわけ囚人のジレンマは、状況が反復・循環するほどより賢明な判断が期待できるが、現実は逆に現れているのが嘆かわしい現実である。
米国の世界的な資本主義経済批判家ガルブレイスは「経済は道徳という海の上に浮かぶ島である」とし、経済と社会倫理が衝突して新たな経済思想の出現なしには環境危機と人間疎外を解決できない今日、経済が社会倫理と無関係であるとするのは一つの幻想にすぎないとする。26)物理学・化学などと同じくノーベル賞に含まれ、あたかも物理学・化学のように実証的な科学として認められようとする経済学27)は、実は倫理学から出発した学問であるという。28)1998年ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、経済学は倫理学と工学の二つに起源するとする。29)ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』30)で言及したように、西洋資本主義は、財富の獲得が救済の徴であるとするカルヴァン31)の予定説32)に由来した。資本主義は倫理学から生じたのみならず、宗教に起源した。33)
行動経済学が提示する社会と個人の循環問題に対する解法は、明確な結論は導いているが、実際に人類が発展させてきた遺産を盛り込むことはできない。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』34)で示したように、社会と個人の循環問題は、伝統的に宗教と経済の関係についての経済—宗教—倫理学的研究においてより深く扱われてきており、具体的な答えを提示しうる。
循環は、経済と倫理の諸問題を解決するポストモダニズム的な解決方法である。35)今日、循環的経済観は前近代的経済観と誤解されるが、36)自然科学において循環は、自然が証明したとおり、万物の長所を最大限に活かして最も効果的に作用させる方法であるという。アインシュタインが円を通じてニュートン物理学を相対化し難題を解決したように、循環は互いに相反する直線運動を和解させる、一段高次の運動である。37)アインシュタインの循環的世界観においてユークリッドの数学がすべて書き改められたように、38)科学技術の発達によって循環となった世界では、経済学もまた循環的に書き改められる。倫理と経済の循環は経済学において最も重要な要素であり、今日、改革志向が消え失せたのは、経済循環に対する信念がなくなったためであるという。倫理道徳を金科玉条としてきた韓国においても、今日、大統領や宗教者が冬季五輪招致のような文化的イシューの経済的効果をテレビで臆面もなく語っているのは、今後の韓国経済の発展のためには危険なことである。
倫理と経済の循環が経済の核心である理由は、経済循環が今日麻痺してはじめて明確に現れるようになった。第一に、循環は微視的に経済発展の動機を提示する。循環が麻痺すると、安定を求めようとする人間の属性によって社会が極度に保守化し、発展が停滞した。「恒産(恒産)なければ恒心(恒心)なし」39)という孟子の言のように、今日まで循環的経済観を維持してきたアルジェリアの農民を調査していたフランス構造主義40)社会学者ブルデューは、循環的経済観が消えれば発展への意欲が消えることを発見し、現代資本主義の停滞の原因に対する答えを循環的経済観に求めた。41)
第二に、循環は巨視的に経済危機を治療する。循環は、西洋のラッセルのパラドックスのように、直線的な論理構造の最善の解答である構造と過程が解決しえない解答を提示する。血が身体全体を循環し、不足する部分のものを溢れる部分から補うように、循環は経済全体の効率性と底力を最大化する。今日、循環の麻痺によってもたらされた現代人の経済動機の喪失、道徳的葛藤、資本主義と共産主義の理念紛争と環境問題という経済危機に直面しており、経済危機は東洋の循環原理によって解決しうる。
経済観のみならず世界観においても、循環性は大巡思想のみの固有な特性ではない。循環思想は宗教の一般的な特性である。42)この論考で強調する大巡思想の循環性は、「部分の和は全体より大きい」とする複雑系科学のように、儒仏仙と西教のすべてが中心的な役割を果たす多元的循環性である。
また、既存の科学が循環論に基づかなかったからといって、循環性の科学が既存科学より優越しているわけではない。循環性の基礎となる陰陽の概念は、今日その科学性が大いに認められている概念であるにもかかわらず、ウェーバーが明らかにしたように、過去には多くの問題点を抱えていた。43)とりわけ陰陽思想に立脚して万物を象徴化する儒教の場合、「儒教の典憲」と名づけうるほどの問題を抱えていた。44)今日の大巡思想の循環的経済観は、過去の循環と陰陽が持っていた短所を克服して長所化した思想であり、他宗教より優越していると主張するものではない。45)
宗教では現実に現れる経済思想についての言及はまれであるが、あらゆる思想と同じく、経済において宗教思想の最終的な結論が集約されるため、後代の宗教ほど経済に関する思想が明確であるといえる。大巡思想には、経済と関連する宗教の思想が他宗教と比べて明確に言及されている。今日、循環的経済観は極めて包括的で複雑な理論を必要とする。各宗教の経済思想の長所を発展させた大巡思想の循環論的経済観を考察することにしよう。
2. 先行研究の検討
大巡思想の循環的経済観についての先行研究は、第一に、「利瑪竇が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」とする西洋経済思想の東洋宗教的淵源についての研究、第二に、「金は循環の理によって生じ、用いられる物」という大巡経済思想の循環的特徴についての理論、第三に、貨幣の循環性と宗教との相関関係についての研究から成る。
まず第一の、「利瑪竇が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」とする西洋経済学の東洋宗教的淵源についての代表的研究としては、46)西洋近代文明が中国に起源したとする西洋文明中国起源説と、経済思想は宗教に由来したとするウェーバーの研究を挙げることができる。西洋文明中国起源説は、18世紀中葉まではヨーロッパの常識であったが、18世紀中葉以降、歴史歪曲が始まり、最近になってようやく復元されつつある。代表的な学者としては、中国では朱謙之47)、西洋では従属理論家として有名なフランク48)、ギャヴィン・メンジース49)、ジョン・M・ホブソン50)、H・G・クリール51)、韓国では黄台淵52)、全洪奭53)を挙げることができる。また、道徳的根拠を喪失した西洋哲学の危機を孟子哲学とフランス啓蒙哲学との比較研究に求め、孟子と啓蒙哲学者の問題意識の類似性を示すフランソワ・ジュリアン54)らがいる。循環的経済観を明らかにするにあたって、まず西洋経済思想の東洋宗教的淵源を明らかにするのは、西洋の経済思想が東洋の宗教に淵源したことを明らかにすれば、経済思想が相互に循環することを証明しうるのみならず、グローバル文化のアイデンティティ危機の克服のためにも極めて重要な問題であるからである。55)
ウェーバーは、経済発展の土台であった東洋の宗教が西洋経済思想へと発展し、東洋の宗教が循環すれば宗教を通じて再びアジア的経済停滞を解決しうることは発見しなかったが、初めて経済思想がすなわち宗教思想であることを指摘した。56)カルヴァンは、実際にジュネーヴ57)で商業と高利貸に対する神学的正当化を世界で初めて行うことによって長老派の始祖となると同時に、現代資本主義の始祖ともなったという。58)当時イスラム教は高利貸を強力に禁じていたため、世界で初めて高利貸を認めたのは中国とインドであった。59)しかしカルヴァンは高利貸と安息年制度を認めた程度であり、60)実際に西洋の資本主義が本格化するのは、17世紀末、マテオ・リッチの死後、中国から伝わった儒仏仙の富国強兵策が伝えられた後であった。61)しかし、アダム・スミスまで中国の優越性を認めていた西洋は、ウェーバー以降、東洋を植民地化するオリエンタリズムの性格を現す。ウェーバーが実証主義社会科学を批判して創案した理念型(Ideal Type)と理解社会学は、西洋思想の東洋宗教的淵源を否定するのにうってつけであった。62)
ウェーバーが資本主義の始祖をカルヴァンとしながら明らかにしなかったのは、西洋近代文明の東洋起源である。実際、ウェーバーとは異なり、黄台淵は、西洋が決定的に資本主義体制を発展させえたのは、西洋がカルヴァンによって財富観を自由主義的財富観へ転換したことよりも、当時最も富裕な中国を発見63)したためであるとする。64)大巡思想に現れるとおり、マテオ・リッチ(利瑪竇)は当時最も富裕な中国に地上天国を建設するために宣教活動を行い、65)マテオ・リッチとイエズス会宣教師たちが宣教活動のために翻訳した中国の経済思想関連の書冊は、中国の富裕な経済についての評判とともに、全ヨーロッパに「中国に倣え」ブームと新たな中国式経済思想を巻き起こした。66)カルヴァンの思想によってかろうじて伝統とは異なる自由主義的財富観へ転換したものの、一抹の躊躇を抱えていた西洋は、中国の自由主義的財富観67)に立脚した富国強兵の経済思想に魅了されると、残る躊躇を未練なく振り払い、中国の経済思想をさらに極端化させた。68)孔子と司馬遷の富国強兵策に倣い、アダム・スミスは、中国の道(道)に相当する見えざる手69)が人間の利己心充足の欲求を調節してくれるのだから、安心して財富を蓄えよと述べた。70)中国の経済思想は中国固有の循環性に立脚した循環的経済思想であったが、西洋化された経済思想は、出発こそ共同体主義に立脚した禁欲主義であったものの、蓄積された資本の力に押されて循環性は省略され、財富観と富国強兵に主に偏重するようになる。ただし東洋では、ウェーバーが説明したように、儒仏仙が経済発展の原動力であったのが障害要素へ転落したが、西洋ではむしろ西教と結合して経済発展の起爆剤となり、今日、韓中日で再び経済発展の原動力として復活するのである。
大巡思想の循環的経済観の妥当性を明らかにする第二の先行研究は、「循環の理によって用いる金」という貨幣の経済的機能についての、経済と倫理の関係についての研究といえる。経済倫理理論とは、経済は倫理と陰陽のように相互作用する関係にあり、経済倫理は人間が志向する徳・善・正義を中心に、自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義という四つの経済倫理形態があるとする理論である。アリストテレスの徳の倫理学から始まった西洋の倫理学は、西教の共同体主義的倫理学71)、カントの義務論72)的社会契約主義倫理学を経て、英国功利主義と自由至上主義に至る。73)貨幣の経済的機能もまた、個人—共同体、経済—社会という枠で分類しうるため、第二の先行研究は細部的に四つに区分される。
[図1.2] 宗教別の方法論および代表的研究者 74)
第一に、個人—経済の側面において貨幣と経済の根源が宗教にあることを明らかにする、経済と宗教の循環関係についての実証主義的研究としては、生涯にわたって宗教と経済の相互循環的関係を通じて現代社会学の方法論を確立したとされるウェーバーの研究がある。ウェーバーは、宗教は経済の周辺問題にすぎないとする唯物論に対して、宗教が経済の核心的鍵であることを証明する社会科学方法論を定礎した。75)貨幣の循環性についての実証主義的研究は、経済倫理的に自由至上主義76)として現れる。
第二に、宗教と経済の循環的関係を個人—経済的側面において実証主義的に明らかにしたのがウェーバーであるとすれば、77)個人—倫理の側面において、実際に経済と倫理が循環する価値論的な作用原理を現象学的な関係論によって明らかにしたのがジンメルである。78)ジンメルは、ウェーバーの理解社会学79)と対比される形式社会学80)という現象学81)的な関係論を開発し、ウェーバーの言う資本主義の始まりとなった西教倫理が、いかにして貨幣を神のごとく扱う資本主義へと変わっていくかを現象学的に示す。ジンメルの方法論を適用した宗教と経済の相互循環的関係についての研究を見れば、今日、ウェーバーの説明とは逆に、資本主義の根源となった禁欲的資本主義が今日では賭博資本主義へと流れてしまったことに対するベンヤミンの研究を挙げることができる。82)現象学的研究は、今日、貨幣が過去の神のようにいかにしてあらゆる交換の中心となり、人々がいかにして金に対する義務感を抱くようになったかを示す。貨幣の循環性についての現象学的研究は、経済倫理的に社会契約主義83)として現れる。
第三に、共同体—経済の側面において、ジンメルが明らかにした貨幣の現象学的機能が社会に構造的に適用される過程を明らかにしたのが、ボードリヤール84)とブルデュー85)の構造主義論である。ボードリヤールとブルデューは、個人的な側面では使用価値と交換価値としてのみ用いられていた商品が、共同体—経済の段階に来ると記号価値となり、今日の消費者は商品の記号価値を消費して生きていることを示す。貨幣の循環性についての構造主義的研究は、経済倫理的に功利主義86)へと発展する。
第四に、共同体—倫理の側面を見れば、構造化された資本主義が実際に動くときは関係中心的に動く87)といえるため、記号価値は他者へ贈与される象徴価値へと変わってこそ経済が循環するとする贈与論的経済学88)となる。記号価値論を主張したブルデューとボードリヤール89)は、記号価値は共同体を通じた象徴価値90)へと転化されねばならないとする。貨幣の循環性についての関係中心的研究は、マッキンタイア91)、マイケル・サンデル92)に代表される経済倫理的共同体主義である。93)
西洋の経済倫理のうち、とりわけ共同体理論は、資本主義の危機は共同体の喪失による循環危機にあるとする。循環論的経済観は、ジンメルが交換価値と効用価値が互いに循環することを明らかにしたように、四つの経済倫理形態である自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義もまた循環することを明らかにする。
大巡思想の循環的経済観の妥当性を明らかにする第三の先行研究である、貨幣の循環性についての研究は、宗教の循環性と関連して、宗教循環論的世界観、東西洋の循環的経済観、大巡の循環論的世界観から成る。
第一に、宗教が相互に循環的関係に置かれていることを明らかにした研究としては、韓泰東94)の宗教論理についての研究を挙げることができる。韓泰東は、現代数理論理学を用いて、儒仏仙と西教はそれぞれ一つの論理構造として表すことができ、各論理は相互に循環的に関連していることを示した。また東洋の場合、韓中日が同じ儒教圏でありながら、それぞれ孟子(舜帝系列—性善説)、孔子(尭帝系列—性善性悪説)、荀子(禹帝系列—性悪説)の伝統を受け継いでいるため、今日の資本主義時代においても互いに異なる経済体制を維持するに至ったとする、韓中日における宗教と経済の関係についての李起東の研究がある。95)
第二に、微視的な循環的貨幣観は、巨視的には東西洋の多様な循環的経済観へと発展する。利己的人間を仮定して人間の利他的欲望を抑圧してきた古典経済学が偏狭であると批判されると、倫理と経済を同時に強調する代案的経済思想である循環論的経済学の重要性が注目されるようになった。カール・ポランニー96)、ブローデル97)のような社会経済学者は、経済は社会に基づいて現れる寄生的な例外現象であるとし、社会という共同体が崩れれば経済も共に崩れることを歴史を通じて証明した。98)人類社会学的には、マルセル・モースが、弱肉強食を主張する進化論的な資本主義経済学とは異なり、贈与が利己的交換よりも社会構成においてより根本的であることを示した。99)贈与論的経済学は、過去の西洋の三機能体系100)や東洋の三才(三才)思想101)、そして今日の複雑系経済学102)、生態主義的経済学103)、贈与論的経済学104)、共同体主義経済学105)が代表的といえる。
東洋では、循環論的経済観が易(易)の循環性に立脚して現れる。天地人三才(三才)として現れた易(易)の循環的経済観は、複雑系科学としての易(易)の発見とともに、諸宗教思想の関連性研究にまで進むようになった。蘇光燮は、相剋と相生の最小体系としての五行を証明し、106)それに後続する八卦についての証明が続いて、107)東洋の陰陽五行の科学性の基礎が整えられた。天地人の三才は五行へと拡大し、儒仏仙と西教の関係が四象(四象)的な関係として配置され、経済と関連する倫理思想もまた功利主義・共同体主義・社会正義論・自由至上主義という四象的な関係として要約されている。108)
易(易)の循環的経済観の具体的な形態は、西洋でも天地人と類似した三機能体系的な循環として現れた。40の言語を操るフランスのデュメジルは、印欧のあらゆる神話を分析し、印欧の神話は生産—分配—消費の三機能体系の循環構造になっていることを明らかにした。109)デュメジルの研究は、歴史に現れる経済循環のための重要な研究主題となる。歴史循環論はトインビーによって再び強調される。東西洋循環論の代表的理論である易(易)三才(三才)についての経済学的応用など、社会問題への適用可能性についての古典的研究としては、朴容淑110)、崔英辰111)の研究、最近の研究成果としては李炳哲112)の研究を挙げることができる。113)
第三に、循環論的経済思想としての大巡思想についての研究としては、生産と富の再分配を中心に近代性概念と関連した尹基峰114)の研究、真の近代性概念としての解冤と関連した李京源115)の研究、個人的怨恨と社会的怨恨の解冤様相と関連した高南植116)の研究を挙げることができる。
大巡思想において循環は総合的な研究方法論であり、既存の大巡思想研究は、大巡思想の循環論的性格を明らかにするうえで良い土台となる。大巡思想についての研究を全体的に見れば、既存の大巡思想研究は、新宗教としての側面、韓国宗教としての側面、東西洋統合の普遍的世界宗教としての側面から主に研究された。
まず、新宗教としての側面についての研究を見ると、主に旧韓末の社会経済的背景に応じた新宗教としての大巡思想を明らかにする。117)この論考と関連して注目されるこの分野の研究は、最近、大巡思想が活性化したのが旧韓末ではなく1980年代以降の韓国現代社会である点に着目し、大巡思想を単に旧韓末の新宗教とみるよりも、1980年代ポストモダニズムの次元で普遍的科学としてアプローチする研究である。118)大巡思想と多少の差異があるといえる甑山思想119)が主に新宗教の立場から研究される120)とすれば、大巡思想はポストモダニズムとも連携して研究が進められている。121)また、新宗教指導者間に交流があったことが研究されることもある。122)
次に、韓国宗教としての側面についての研究を見れば、大巡思想が道教の韓国的発展的形態であるという研究123)や、大巡思想を儒仏仙三教合一124)、民族宗教125)、心論(心論)126)と関連づけた研究が進められた。この論考と関連して注目されるこの分野の研究もまた、大巡思想を旧韓末の民族アイデンティティ回復のための新宗教とみるよりも、韓流ブームに見られるように、儒仏仙三合を韓国的文化フレームの一つとみなす研究127)である。
第三に、世界宗教としての側面についての研究を見れば、フロイトの精神分析学128)、教育学129)、ヘーゲル130)、人間学131)、共同体主義132)、平等主義133)、生態学134)、環境倫理135)などのような西洋思想との比較研究や、儒仏仙東洋哲学との比較研究が進められた。この論考と関連して注目されるこの分野の研究は、最近、東洋思想が哲学というよりは精神分析学や複雑系科学のような科学とみなされる点に着目し、大巡思想を東西洋思想と比較される韓国的科学および科学方法論とみなす研究である。
以上の先行研究を総合すると、大巡思想の循環的経済観についての研究は、西洋経済思想史の東洋的淵源についての推論と、儒仏仙と西教の経済思想の交流に基づき、循環的な方法で個別的な思想研究を総合する研究が必要であることを示している。
3. 研究の範囲と方法
今日、大多数の人々の経済観は、儒仏仙と西教に基づく自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義から抜け出せずに傷ついているが、その原因が、経済は循環であり、自動的に見える循環には絶対的存在の介入があってこそ可能であるという循環の属性にあることを知らずにいる。この論考は、循環が韓国的科学の固有特性であるという観点から、易の循環原理と類似したラカンの循環論と、複雑系科学に代表されるポストモダニズムの循環的方法論によって、既存の研究成果を総合し、既存の経済思想を循環的に治療しうる大巡の経済思想を研究しようとするものである。この論考は、大巡思想の循環的経済観を研究するにあたり、儒仏仙と西教の経済思想の衝突の解決方案と、循環的経済観の具体的な形態についての研究を重点的に行おうとするものである。
まずⅠ章では、研究の必要性と先行研究、研究の範囲と方法について略述した。現代の環境危機と社会危機は経済の循環を麻痺させ、技術の発達によってその麻痺はバタフライ効果のように増幅されて社会的危険を引き起こす。現代の危機は、伝統に基づく新たな経済思想の出現によって解決され、そうした思想として大巡思想の循環的経済観についての研究が要請されることを明らかにした。Ⅱ章では、経済・倫理・宗教と大巡思想の総体的な比較のために、諸宗教が経済倫理の一つの側面において制限的に経済問題を解決しようとしたことを明らかにした。諸宗教の経済思想は、生産・流通・分配・貯蓄という経済活動過程のうち一つの部分を中心に発展した。本章は、既存の宗教の経済思想と経済倫理を、財富観—貯蓄—道教—自由至上主義、分配論—分配—仏教—社会契約主義、労働観—生産—儒教—功利主義、財貨観—流通—西教(西教)—共同体主義へと再編し、既存の宗教の経済問題解決原理としての制限的循環性を考察する。
Ⅲ章では、宗旨に現れた循環的経済観を分析する。Ⅲ-1章では、大巡思想の循環論的特性を具体的に明らかにしようとする。東西洋の循環論は易(易)に代表されるため、まず易(易)の循環性の属性である待対(待対)・流行(流行)・中和(中和)・回帰(回帰)・増殖(増殖)を定義し、複雑系科学とラカンの循環理論を当てはめてその意味を考察する。易の循環性の属性を宗旨と経済に応用し、Ⅲ-2章では道教に相当するといえる待対的(待対的)自由至上主義財富観、Ⅲ-3章では仏教に相当するといえる回帰的(回帰的)社会契約主義分配観、Ⅲ-4章では儒教に相当するといえる中和的(中和的)功利主義労働観、Ⅲ-5章では西教に相当するといえる流行的(流行的)共同体主義財貨観を、該当する宗旨と『典経』の一節の比較分析を通じて考察する。本論考は、多様なラカンと複雑系科学のうち循環性を強調した特定部分を経済と関連づけたため、本論考とは異なる解釈もいくらでも可能でありうることを明記しておく。
Ⅳ章では、Ⅲ章の分析を通じて現れた宗旨の循環的経済観が内包する価値を、経済問題と対応させて考察しようとする。Ⅳ-1章では、個人—経済側面の経済動機と関連して、陰陽合徳が経済動機の失踪に対する回復方案となりうることを考察することにする。Ⅳ-2章では、個人—倫理側面の経済倫理と関連した側面において、神人調化が経済倫理回復に対する代案となりうることを考察する。Ⅳ-3章では、共同体—経済という側面において、今日の資本主義と共産主義あるいは第三の道のような理念の問題は、「咎を作らない(척を結ばない)」という解冤相生の原理から葛藤が解決されうることを考察する。Ⅳ-4章では、共同体—倫理という側面において、道通真境という循環的世界の確立が人類の共同体性を回復させ、地上天国を作りうる道であることを考察した。
Ⅴ章むすびでは、本研究の限界と、Ⅳ章で明らかにした大巡思想の循環的経済観の価値が、大巡思想のみならず韓国思想の世界化の一方便となり、Ⅰ章で提示した現代の経済問題の解決策となりうることを確認する。
なお、本論考における、循環を通じた複雑系としての五行現象の理解、および五行に対する諸宗教と経済思想の配置など、この論考全体の内容は、大巡宗学科の公式的な立場ではなく、個人的な見解にすぎないことをあらかじめ明記する。