Ⅱ. 諸宗教の経済観と制限的循環性

Ⅱ. 諸宗教の経済観と制限的循環性

1. 経済倫理と諸宗教の循環性

宗教の経済思想は、抽象的な宗教の思想を具体化して表現する、極めて核心的な宗教の構成要素といえる。宗教は、経済思想として表現されたとき、その隠れた意味を把握しうる。宗教は、経済思想として現れるとき、宗教思想よりも具体的な経済倫理として現れるといえる。

現代資本主義経済学は極力否認するが、経済と倫理はヤヌスのように、常に相反しながらも同時に現れる、極めて密接な関係である。リンゴ一つをどう食べるかという日常的な状況においても、経済と倫理は常に相反的に現れる。経済と倫理は相反する形態で頻繁に登場するため、「経済の逆が倫理、倫理の逆が経済」といえるほど密接な関係にある。歴史的に、経済と倫理は互いに長期関数のような関係を示してきたという。

[図2.1] 経済と倫理の歴史的推移136)

諸宗教の核心倫理は目に見える経済思想として現れ、宗教の経済思想は主に倫理学的な形態として現れるとするとき、諸宗教の経済倫理を考察することは、宗教を理解するうえで極めて重要な作業となる。また倫理学もまた経済学と密接な関係にあるといえるため、倫理学・経済学・宗教の三者は共通の理論体系を持っているといえる。137)宗教・経済学・倫理学の関係については、まず日常に近い倫理学を中心に体系を立てたうえで、経済学との関係を照明し、再び宗教と関連づける順序で考察しうる。

第一に、まず倫理学の体系を考察すると、倫理学は時代順に、徳(卓越)138)を強調するアリストテレスの倫理学139)、正(正、正義)を強調するカントの義務論的倫理学、善(善、効率)を強調する自由至上主義的あるいは功利主義的倫理学という三つの伝統を持っている。140)

日常生活を例にとれば、利益と倫理が相反する状況で良心を守る倫理的行為の基準は、古代ギリシアでは「我が存在」である内面的な徳の問題であったが、カントに来ると社会契約制度による「我が倫理的義務と権利」の問題となり、さらに現代に来ると「我と社会全体の利益」という行為の問題として倫理学はアプローチする。

抽象的な倫理学概念を具体的な社会科学である経済学に適用するには、理論と実践という両面を持つ倫理学の体系は、次の九つの体系に分けてみることができる。

〈表2.1〉倫理学の体系141)

| 評価対象\価値概念 | 基本的価値言語 | 操作的価値言語 | 究極的目的 |

| :---: | :---: | :---: | :---: |

| 行為 | 善(善) | 効率 | 効用 |

| 制度 | 正(正) | 正義 | 権利 |

| 存在 | 徳(徳) | 卓越142) | 能力 |

実際、経済学も倫理学と同様に、行為(善—限界効用学派)・制度(正—制度学派、歴史学派)・存在(徳—贈与論的経済学)という三つの課題を中心に理論を展開する伝統として現れる。

リンゴ一つを得る場合、新古典学派である限界効用学派は、最後のリンゴ一つを得るときに持つ効用すなわち限界効用と費用を計算して利益を取る効率的行為を重視し、制度学派は、リンゴ一つが我が手に入るまでの制度がいかに公正かという歴史と制度を重視し、贈与論的経済学では、誰が我にリンゴを与えたかという存在問題を重視する。

あらゆる社会に経済と倫理があり、経済と倫理が社会の核心となるのは、経済と倫理が「普遍的価値」という基準で社会を統合する二つの主要方案となるためである。相反する経済と倫理が常に共に現れるのは、経済(効率)と倫理(正)が善(善)という共通点を持っているためである。善もまた、二つの相反する属性が一つに統合されている。効用を善(善)とするとき、善は個人的多元性と質的多様性を持っているため、個人的多元性という側面では効率と正義、質的多様性という側面では自由と卓越という二つの結合をなしうる。自由は経済と倫理の双方に共通する基本的な価値規範となる。

[図2.2] 課題の構成143)

上記の課題に従って、経済の世界と倫理の世界は善を中心に統合される。統合された経済と倫理の世界は、政治あるいは宗教という徳を通じて仲裁される。経済・倫理・政治(宗教)はそれぞれ行為・制度・存在を代表する。

[図2.3] に見られるように、希少な資源から財物が生じ、不足する徳から能力が生じ、制限された正(正)から権利が生じる。経済と倫理は卓越性という政治的徳(徳)の領域で調節され、三つはすべて善へと統合される。

[図2.3] 経済の世界と倫理の世界の統合144)

倫理思想のうち経済倫理を考察すると、倫理思想は経済と関連したとき、正(正)・善(善)・徳(徳)のうちどの部分を強調するかによって特性が現れる。倫理学の伝統は、まず正(正)と善(善)の論争から始まった。アダム・スミスから始まる功利主義の伝統は、正(正)よりも善(善)を強調して「最大多数の幸福こそが道徳的である」と主張し、善(善)より正(正)を強調するロールズの社会契約主義が出るまで主導的な経済倫理思想を構築してきた。功利主義の伝統は、最大多数の幸福のためには個人は犠牲になってもよいとした。

ロールズは、カントの義務主義倫理を現代化して功利主義の弱点を指摘し、個人の自由に立脚した社会契約主義的正義論を復活させた。145)個人の幸福が犠牲になれば最大多数の幸福は意味がないため、個人の幸福を保障する義務がより重要であるとする。ロールズの社会契約主義は功利主義より一歩進んだ側面があるが、自由と平等の問題を引き起こしたため、再び共同体主義者と自由至上主義者の批判を受けた。「個人の義務も重要だが共同体がより優先する」とする共同体主義146)は、全体論的観点から、倫理的義務意識である正(正)よりも実用的な徳(徳)を強調し、自由至上主義は、個人論的観点から、正(正)よりも積極的自由という徳(徳)を強調した。このとき自由は、正(正)・善(善)・徳(徳)のすべてに共通する基本規範といえる。

各思想の関係をより具体的に考察すると、ミルとベンサムあるいはパレート147)に代表される功利主義は、ハイエク・フリードマンに代表される自由至上主義とは異なり、「全体の利益になれば個人の自由は拘束されうる」とし、社会契約主義とは異なり、義務よりも利益が優先される。

経済より倫理を重視する倫理学は社会契約主義と共同体主義148)であるが、ロールズに代表される社会契約主義は、共同体主義とは異なり、方法論的個人主義を採り、全体の利益のために個人を犠牲にしない。マッキンタイアに代表される共同体主義は、資本主義の下で社会福祉を施行しうる最高の代案であるが、個人の犠牲に対する反対給付の不透明性によって現実性が疑問視される。149)価値理念という側面から見れば、経済倫理と関連した功利主義と自由至上主義は適応を通じた効率を強調し、倫理を強調する社会契約主義は連帯を通じた正義を、共同体主義は自由を通じた卓越を追求するといえる。以上のような課題を統合するために、現代の経済倫理と経済学は四つの位相において問題を解決する。

〈表2.2〉現代道徳哲学の位相

| 方法\価値 | 善(善)—制度内秩序 | | 正(正)—制度の基礎構造 | |

| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |

| 個人主義 | 市場均衡論(理論経済学) | | 社会契約主義(正義) | 自由至上主義(自由) |

| 全体主義 | 功利主義(効率) | 共同体主義(徳) | 制度進化論(歴史学派経済学) | |

四つの倫理学は、個人/共同体、効率(経済)/正義(政治)という基準に従って四象限に分けてみることができる。

[図2.4] 四つの経済倫理の関係

第二に、宗教の側面を考察すると、経済倫理と宗教思想との相互関係は、宗教思想の教理体系にある循環論理の構成から考察しうる。数多くの宗教のうち循環的経済観を持つ宗教を儒仏仙と西教に限定しうるのは、諸宗教理論の論理的思考の枠に現れる。150)循環的論理が表現しうる論理の枠が制限されているため、東西洋の宗教思想は儒仏仙と西教に圧縮されうる。経済学もまたゲーム理論のように一つの論理学でありながら互いに循環関係にあるといえるため、経済倫理と宗教は互いに統合されうる。

円は丸いため、循環論では命題Xと命題–X151)は直線理論とは異なり、相補的(相補的)に現れる。152)循環の諸様相は、数理論理を用いて、位相数学の一つである隣接構造論的に考察しうる。153)弁証法のように、円の循環論理では、出発点でXとして出発した命題は折り返し点で–Xとなり、再びXとなる。154)結局、循環論において現れうる論理は、

XはXであり–Xは–Xであるとする儒教155)

Xは–Xであり–XはXであるとする道教156)

XはXでも–Xでもないとする仏教157)に制限され、

西教は「Xはすべて」158)であるとする博愛(博愛)によって、三つの循環論理が作用するよう連結させる。

実際、XはXであり–Xは–Xであるとする儒教の論理は、159)

学び(X)、それを時に習えば(X)喜ばしく、160)

同志(同志、X)が訪ねてくれば(X)楽しく、161)

君主(X)は君主(X)らしくあり、臣下(-X)は臣下(-X)らしくあらねばならない。162)

知ること(X)を知る(X)とし、知らぬこと(-X)を知らぬ(-X)とすること、これが知ること(X)であり、163)

友(X)は友(X)であり、仇(-X)は仇(-X)である。164)

儒教の論理に対して、道教は逆説で応酬する。

Xは–Xであり–XはXであるとする道教では、165)

道(X)を道(X)といえば道ではなく(-X)、166)

最も強きもの(X)は最も弱き水(-X)であり、167)

天地(X)は不仁(不仁、–X)であり、168)

友(X)は仇(-X)であり、仇(-X)は友(X)である。169)

中国大陸において道教と儒教が互いに対峙するなか、インドの仏教が仲裁する思想として中国を席巻した。

「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、「仇が友である」とする道教に対して、

「友(X)も仇(-X)もなく」、すべては空(空)であるとする。170)

[図2.5] 諸宗教の相関関係

諸宗教の経済思想の循環関係は、宗教教理の核心といえる「永生を追求する方法」を中心に集中的に現れる。「Xはすべて」とする西教は、神と人間共同体との間で十戒に立脚した契約的循環を通じて霊魂永生(霊魂永生)を追求する。171)「Xはすべて」という論理は、個人より共同体、物質より精神を追求させるため、霊魂を通じた永生を追求することになる。172)「XはXでも–Xでもない」とする仏教は、縁起論による法輪における万物の循環を通じて輪廻転生(輪廻転生)を追求する。「XはXでも–Xでもない」のであれば、肉体と精神の区別がなくなり、我と汝の区別がなくなるため、人間は死して輪廻し、身を換えながら輪廻転生を通じて来世の完成を成し遂げうる。「XはXであり–Xは–X」である儒教は、父と子、君と臣という人倫における循環を通じて招魂再生(招魂再生)を追求する。物質は物質、精神は精神、我は我、汝は汝であるなら、来世より現世を、個人より共同体を志向することになる。「Xは–X、–XはX」である道教は、自然の理に合わせる無為自然の循環を通じて肉身永生(肉身永生)を強調してきた。173)精神が肉体であり肉体が精神であり、死が生であり生が死であるなら、共同体より個人、来世より現世である肉身永生を志向することになる。宗教において循環は、永生を追求する各宗教のアイデンティティの核心であったため、循環を壊しうる経済の無限発展を警戒してきた。諸宗教は、志向する永生の個人174)/共同体175)、来世志向性176)/現世志向性に従って四つに分けてみることができる。

[図2.6] 諸宗教の永生観の相関関係177)

循環的世界観において万物は、互いにフラクタル(fractal、相同性)のように類似した関係を示し、とりわけ宗教と密接に関連した経済と倫理は、なおさらそうであるといえる。フラクタル(fractal、相同性)とは、互いに似た構造を意味する。現代科学では、最も小さい原子と最も大きい銀河が類似した構造を持ち、コンピュータと分子が類似した構造を持つことを明らかにした。

[図2.7] 宗教と経済倫理の相関関係

万物を分割して究極の粒子を見出す還元主義の方法とは異なり、万物の関係のなかから法則を見出す創発主義的で全一(全一)論的方法を用いる循環論では、万物はすべて循環し、互いに待対性を帯びる構造は互いに似た構造を持つ。178)

[図2.4] 四つの経済倫理の関係と[図2.5]の諸宗教の相関関係において、それぞれX軸である効率(経済)—正義(政治)、現世志向—来世志向、そしてY軸である個人—共同体には共通する点があるといえるため、二つのグラフは[図2.7]のように重ね合わせることができる。

道教は、循環論において遠くを見渡せば「友(X)は敵(-X)であり、敵(-X)は友(X)」であるため、個人は他人との連繋なしに自らの自由を追求する自由至上主義的性格として現れる179)とすれば、「友(X)も敵(-X)もない」とする仏教は、自らがなすべき義務だけを尽くす社会契約主義的な宗教となる。友は友、敵は敵で、敵と友が明確な儒教では、自分の側のための最大幸福を追求するが、全体の利益のために個人の利益は無視される功利主義180)を志向する。道教・仏教・儒教が生産の側面ですべてを集めておいたとすれば、「Xは皆のもの」とする西教は、博愛(博愛)という共同体主義によって、集めたものを火のごとくすべて分け与える。181)

第三に、経済を考察すると、世界の宗教は循環論の論理構造に従って儒仏仙と西教に分かれ、経済は貯蓄・生産・流通・分配という循環と関係する構造を持つ。

[図2.8] 経済観の相関関係182)

経済循環に既存宗教の論理を適用すると、

「Xは–Xであり–XはX」183)とする道教は、未来に備えて今日を準備する財富観(財富論)を通じた経済循環に注力し、184)

「XはXであり–Xは–X」とする儒教の論理は、財富観を通じて蓄積された財産で人間と社会を組織して生産に臨むことになる。儒教によって生産された財貨は西教の博愛思想によって広く贈与—流通され、流通の終わった財貨は、

「XはXでも–Xでもない」とする仏教によって公平に分配され、残ったものは再び貯蓄されて、[図2.9]のように新たな循環となる。

[図2.9] 諸宗教と経済観の相関関係     [図2.10] 宗教と経済倫理・経済観の相関関係

倫理学が自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義という待対性(待対性)を持つため、諸宗教の経済思想は[図2.10]のように、貯蓄・生産・流通・分配という経済活動過程を中心に、道教と自由至上主義的財富観、儒教と功利主義的185)労働観、西教と共同体主義的財貨観、仏教と社会契約的分配観へと再編されうる。

また、経済思想と経済学は歴史的相関関係を持つため、[図2.11]のように、自由至上主義は効用という使用価値を強調する新古典派経済学、功利主義は有効需要と革新としての記号価値を強調するケインズ/シュンペーター主義経済学、共同体主義は贈与としての象徴価値を強調する社会福祉主義制度学派経済学、社会契約主義は公正な交換を強調するため労働価値論に立脚した交換価値を強調する古典学派やマルクス主義と近いといえる。

[図2.11] 宗教と経済倫理・経済学の相関関係

各経済学派の思想を要約すると次のとおりである。新古典派経済学は、よく高校社会教科書に出てくる需要と供給の法則に代表される経済学をいう。需要と供給の法則は高校社会教科書に載っているため、論争の余地のない経済学の基本理論として知られているという常識とは異なり、需要と供給の法則は、供給中心の古典経済学に対する批判理論である新古典派経済学の理論にすぎない。新古典派経済学は、経済の全体的な流れよりも個人の主観的な選好に焦点を置き、経済を需要と供給・効用という観点で主観化させた。代表的な新古典派経済学者はマーシャル・ハイエク・フリードマンなどで、彼らは最小政府・市場経済・自由を至上価値とみなすため、自由至上主義者の経済学的根拠を提示する。新古典派経済学者にとって価値とは、その事物がどれほど使用する価値があるかという使用価値となる。

1929年の世界大恐慌を解決したルーズベルト大統領のニューディール政策の理論的立案者として有名なケインズは、世界大恐慌が来ても最小政府と市場経済を信奉して何の対策も立てられない新古典派経済学を批判し、有効需要という功利主義的概念によって恐慌を解決する。「市場にさえ任せればあらゆる問題が解決する」とする新古典派経済学者とは異なり、ケインズは、労働者に消費できる仕事を提供してこそ最大多数の最大幸福を成しうるとして、経済学の理論に大きな変化をもたらした。シュンペーター主義186)は、ケインズ主義と同じく最大多数の最大幸福を追求する功利主義である点は同じだが、経済は有効需要である富ではなく革新によって価値が生じ、最大多数の最大幸福となる社会的革新が経済を循環させるとする。功利主義において価値は、社会的に最大生産をなしうる革新価値すなわち記号価値となる。記号価値は使用価値や交換価値のように明確ではないため、曖昧性を帯びる。また記号価値は他者の欲望を模倣する価値であるため、循環しなければ構成員の内部的分裂によって道徳的弛緩と自滅をもたらしやすい。記号価値(ボードリヤール)は誇示消費の価値(ヴェブレン187))や模倣価値(ジラール188))として現れるという。

新古典派経済学やケインズ主義経済学が、与えられた限界内での最高の適応という効率を強調した経済中心の経済学であるとすれば、制度学派経済学189)は、与えられた枠を問題とし、与えられた枠を変えて新たな価値を創造しようとする経済学である。新古典派経済学やケインズ主義経済学は、経済循環において主に生産に注力して経済にエネルギー過剰現象を引き起こし、蓄積にのみ偏って経済循環を麻痺させる。制度学派は、合理的な消費の枠を作って経済を循環させようとする。代表的な学派と学者としては、贈与論的経済学者モース、消費を主とする一般経済学を主張したバタイユ190)、ボードリヤール、米国制度学派ヴェブレンなどがいる。制度主義経済学は、経済の根源は消費と贈与にあり、生産は消費と贈与のための活動であって、商品の価値は、その商品が贈与されたときにどれほど価値があるかという象徴価値(ボードリヤール)あるいは文化価値191)(塩野谷祐一)として現れるとする。

新古典学派、ケインズ—シュンペーター主義経済学、制度主義経済学が、それぞれ使用価値・記号価値・象徴価値という効用に中心を置いているとすれば、古典学派とマルクス主義経済学は、公正な労働価値という交換に中心を置いている。最初の経済学理論といえる古典経済学は、高校教科書に出てくる需要と供給の新古典派経済学ではなく、労働価値の均等性を強調した古典学派とマルクス主義経済学であった。古典経済学は、あらゆる商品は人間の労働の産物であり、価格が定まるのは商品に投入された労働の平均値であるとし、経済的に効率的なものは労働価値を平準化することであるとする。古典派経済学において人間は、労働を投入しうる労働力という商品とみなされ、人間の価値は労働力を再生産しうる最低生計費とみなされる。賃金は、労働によって生産される価値ではなく、労働力を再生産するのにかかる費用、すなわち最低生計費となる。最低生計費と、労働が投入されて作り出される商品の価値との差が剰余価値となり、資本となる。

各経済思想のうち価値理論は、商品の価値が何かによって「我が受け取る取り分が正当か」を決定するため、価値論の問題は分配問題と直結し、経済学において核心概念となる。ボードリヤールは、あらゆる事物は四つの経済的価値を持つとする。たとえば、手に持っているリンゴは、食べれば使用価値、交換すれば交換価値、記号として使えば記号価値、他人に贈与すれば象徴価値となるとする。192)

ここまでの議論を要約すると次のとおりである。

〈表2.3〉宗教—経済倫理—経済理論対比表

| | 貯蓄 | 生産 | 流通 | 分配 |

| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |

| 宗教 | 道教 | 儒教 | 西教 | 仏教 |

| 経済思想 | 自由至上主義 | 功利主義 | 共同体主義 | 社会契約主義 |

| 経済観 | 財富観 | 労働観 | 財貨観 | 分配観 |

| 経済学 | 新古典派 | ケインズ主義 | 制度学派 | 古典派/マルクス主義 |

| 価値理論 | 使用価値 | 記号価値 | 象徴価値 | 交換価値 |

実際に東西洋の経済史を考察すると、西洋資本主義は、道教の財富観と類似して、私有財産と高利貸を「救済の予定」として認めたカルヴァンのプロテスタンティズム的財富観から始まり、中国から入ってきた儒教的富国強兵論によって火がつくことになる。富国強兵策によって西洋の所有欲が噴出すると、ついには富国強兵論の淵源であった儒教の東洋的循環性を破壊し、さらに人間は連鎖的に神を否定するに至り、神の救済の約束としての財貨という西教的循環をも破壊させることになる。循環性が消えた現代は物質至上主義と賭博資本主義へと変わり、現代はこれを救う循環的宗教思想を必要とするようになった。

大巡思想に現れた循環的経済観を理解するために、各宗教と経済思想ごとに、既存の経済思想の宗教的淵源とその制限的循環性をまず考察することにしよう。

2. 中国式道教資本主義と自由至上主義的財富観193)

儒教資本主義やプロテスタンティズムのように、儒教・西教・仏教に比べて、道教は資本主義と関連して学界の論争ブームを巻き起こすことはできなかったが、最も資本主義に近く、中国人に影響の大きかった思想といえる。194)今日、共産主義中国で最も人気のある宗教は道教であり、実際、物質を最優先価値とする現代中国は、195)儒教国家というよりは道教国家に近いといえる。196)儒教に反対した毛沢東は道教を相対的に優遇し、共産主義を常に道教と比較して強調してきており、197)鄧小平の改革開放は道教の柔軟さと関連がある。198)道教は、中国人の理財(理財)に明るい属性と極めて符合する特性を示してきた。現代の道教寺院の神は、財物を司る神明で満ちている。199)中国の道教志向的な経済体制は中国式道教資本主義と呼びうる。200)

中国式道教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、自由至上主義および新古典派経済学と類似した財富観を持っていることが現れる。201)

まず道教の東西洋交流の歴史を考察すると、道教はマテオ・リッチによって間接的に初めてヨーロッパに紹介された後、202)経済理論では見えざる手を主張したアダム・スミス、限界効用論を主張した新古典学派に影響を与え、経済倫理という側面では自由至上主義に影響を与えた。203)ウェーバーによって資本主義の起源とみなされた清教徒主義を創始したカルヴァンが住んだジュネーヴは、当時マルコ・ポーロなどの中国情報が流行する商業地域であり、資本主義の本格的発展となった職業召命説・予定説・高利貸の承認は、中国で道教の勧善説(勧善説)や財富観の影響を受けて施行されていたものである。204)救済の予定の証明としてのカルヴァンの財富観は、「神の恩寵としての財物」という道教的財物観に通じるところがあり、道教はプロテスタンティズムの財富観と極めて類似している。205)腎臓(腎臓)が身体の銀行のように万物を濾過して新たな活力を肝(肝)に送るように、経済においても、未来の期待のなかで財産を貯蓄する財富観が経済発展の核心といえる。206)ウェーバーが述べたのとは異なり、資本主義を発生させたカルヴァン主義は、実は西教と正反対の思想から発生した。207)西教は原則として博愛を主張するため、財富観的な行為は博愛と対立するといえる。208)ウェーバーは西洋資本主義の起源をカルヴァンの予定説とみたが、カルヴァンの禁欲主義は、アダム・スミスの道教的資本主義思想と結合した後にようやく本格的に作動した。209)

カルヴァンは、すべてを分け与える西教の博愛精神に反して、中国やインドのように、当時イスラムでも違法と規定した高利貸を認めて貯蓄の基盤を整える。カルヴァンは、必要な商品の完全な取引を妨げる独占を、殺人と同様のものとみる。カルヴァンの主張に従って、当時ジュネーヴ市は、生活必需品に属するワイン・パン・肉などについて価格統制を実施したという。210)当時の宗教改革家たちは、おおむね全般的な破綻と蔓延した失職に脅かされている商業都市を運営していた。211)カルヴァンの政策によって、ジュネーヴは一世代のうちに、取るに足らない地方都市から国際的な商業・財政中心地へと浮上した。212)大陸とは異なり個人主義が発達してルターよりカルヴァンの影響力が相対的に大きかった英国のアダム・スミスは、カルヴァンの思想を継承し、ケネーから学んだ老子と孔子の思想に支えられて、見えざる手の無為自然を活用する。213)

思想史的に、道教の小国寡民214)思想は孔子と孟子の自由放任的経済思想に影響を与え、再びこれがカルヴァンやアダム・スミスらへとつながったといえる。215)自由至上主義と限界効用学派の思想的起源はアダム・スミスの『国富論』であるが、『国富(国富)論』はその題目からして道教の富国(富国)強兵策から来ており、『国富論』の代表的理論である自由放任が、道教の無為を含む「無為之治」を翻訳した語から出たためである。(脚注70)

教理的な側面でも、貯蓄は現実を否定して未来への期待により希望を懸けるため、「Xは–X」という循環的論理を持つ道教の経済思想となる。小国寡民、水の哲学は代表的な貯蓄思想である。道教は、生産—流通—分配—貯蓄の四側面において、貯蓄を基盤に循環を促進しようとする。

道教の重点経済活動を考察すると、生産—流通—分配—貯蓄という経済サイクルにおいて、道教と関連する経済分野はとりわけ貯蓄といえる。東洋思想が西洋思想に比べて相対的に内向性を志向し、216)東洋思想のうちでも儒教が「進む」宗教であるなら道教は「還る」宗教であるとするとき、道教は老子から無(無)・止(止)を強調してきており、これは経済サイクルにおいて貯蓄に相当するといえる。曹操から受けた財物を一つも使わずに集めておき、劉備へ還るときに財物をすべて分け与えた義理の神・関雲長は、道教において財物の神となり、217)道教の核心教理である無為自然は、経済活動において貯蓄となった。218)道教信者は勧善書(勧善書)と功過格(功過格)を作り、自らの善行がどれほど未来の財富を蓄えたかを確認した。219)

道教は、積極的な活動よりも消極的な観望の知恵を強調している。貯蓄は、分配がすべて終わり、明日を期して、あらゆるエネルギーを蓄えている状態であり、五行では「水」のごとく、色では黒色のごとくといえる。実際、道教は「水の宗教」と呼ばれるほど水の知恵を強調し、黒色を象徴色とする。220)

道教の国家観を考察すると、理想的国家を最小限の政府とみる小国寡民(小国寡民221))思想として現れる。小国寡民(小国寡民)は、無政府主義のように、効用中心の最小限の国として現れる。黄台淵はアダム・スミスが儒教の無為而治を学んだとしたが、222)儒教の無為而治もまた道教から学んだものといえる。道教は、心身関係においても最小限のエネルギーを使う無病長寿を祈願し、元祖といえる老子は富国強兵と民衆の財富増加に集中する。

社会観を考察すると、道教は政治社会的な活動を人為的な努力として否定し、経済的な活動だけで万物を貯蓄を通じて循環させる役割を果たすため、自由至上主義的財富観と共通点を持っている。自由至上主義は、経済倫理において共同体より個人、正義より自由を優先する経済倫理といえる。自由至上主義的経済倫理は、自由を制限するいかなる社会制度も不可であり、経済は個人の貨幣使用に従って見えざる手によって自然に発展する。

平等観を考察すると、道教は、法の前の平等や市場の前の平等のように、道(道)の前の絶対平等を主張する。儒教が共同体に立脚した大同(大同)の平等思想を展開したとすれば、荘子は道の前での絶対平等223)あるいは天生平等説(天生平等説)を追求したという。荘子の絶対平等は、自由至上主義の「法の前の絶対平等」と類似している。

社会制度と士農工商について言えば、道教はまた技術・工(工)を強調する。道教の教理は気功術から始まり、神との合一のための呪文・縮地法・錬金術などあらゆる技術で武装している。道教が生まれた南部中国は、また、尭・舜の時代に土木を担当した共工(工共)族が住んでいた地域であった。

分配と関連して最も重要な価値理論を考察すると、道教は実利を尊重するため、道教的な価値理論は新古典派の限界効用理論と類似しているといえる。限界効用論224)は、限界財である最後の財の効用である限界効用が価値を決定するとする価値論である。たとえば、同じリンゴでも、腹が空いているときに食べるリンゴが、満腹のときに食べるリンゴよりはるかに効用が大きいように、価値とは、労働価値論のように需要者と無関係に一方的に決定されるのではなく、需要者によって決定されるとする価値論である。需要者が空腹であればリンゴの価値も上がり、需要者が満腹であればリンゴの価値が下がる。とすれば、最も価値を高めうる方法は、リンゴを中心にみれば、最も空腹な人の順に食べることが最も価値を高めることである。商品が最も価値あるように動くなら、最も空腹な人の順に循環するというのが、限界効用論に隠蔽されている循環の原理であり、「資源の効率的配分」という限界効用論の長所といえる。また分配は、限界効用の分だけ分配されることを正義とする。限界効用論において分配は、商品に投入された労働の価値によって受け取るのではなく、「我が感じる効用」の分だけ受け取る主観的なものとなるため、分配の不平等を主張するのが難しくなる。

限界効用論において財貨が最も効率的に動くのは、最も効用が急ぐ順に物が消費される場合である。限界効用論は財貨の交換から始まり、商品の循環で締めくくられる。空腹な人は、自分が持っている他の財貨を交換してリンゴを購入するため、交換で始まって最も効率的な循環をするのである。限界効用論においても、循環が多くなり速くなるほど価値も上がるといえるため、実際に価値が生じるのは効用ではなく循環であることが分かる。

限界効用論が実現される場が流通過程であるとすれば、発生する場は道教の貯蓄である。与えられた資源の下で最善の選択を決定する限界効用均等の法則は、自由競争の理論のように、前提条件である経済循環が可能なときに妥当な概念である。225)流通は、火のように、水が集めておいたものを撒くだけである。限界効用が均等になるには、最も空腹な人にパンが回ればよい。したがって限界効用もまた制限的な循環を担っている。

道教は財富観を強調したが、儒教の威勢に押されて資本主義へ発達しなかった。ウェーバーは、プロテスタンティズムが持つ予定説による肯定的財富観が儒教では欠如しており、中国では資本主義が発達しなかったとしたが、226)道教はプロテスタンティズムより財富を強調する。ただ、道教が儒教に抑圧され、財富が蓄積されると再び略奪されることによって、資本主義に至らなかった。

今日、自由至上主義はノージック227)、新古典派経済学はフリードマン228)、ハイエク229)などに代表される。

道教の自由至上主義的財富観の長所と短所を考察すると、長所としては、限界効用均等の法則を通じて経済を循環させる道教の財富観は、与えられた現実への適応はよくするが、与えられた枠を果敢に変えることはできないという限界がある。適応のみを強調する冷徹な自由至上主義社会では、階層の高下を問わず、賭博資本主義に陥る危険がある。

また、制度が不備な場合、道教が現実逃避思想へ流れたように、財富観が容易に堕落しうるという点である。実際、カルヴァンの財富観に従って資本を蓄積させた西洋の財富観は、賭博資本主義へと変わる。ウェーバーが述べたように、禁欲的労働を強調するプロテスタンティズムの肯定的財富観は、ニーチェが宣言した「神の死」と、共産主義の失敗に象徴される「人間の死」の後、誇示的消費と仮想的満足を追求する「賭博資本主義」的財富観へと大きく変化する。

科学が発達すると人間についての秘密が明かされ、いまや人間は神を捨てて自分のために金を稼ぐようになった。「神は死んだ」に代表されるニーチェの言葉のように、神が死んだ世界において、貨幣は「救済」の徴とはなりえず、ただ他人の欲望に対する徴となる。貨幣によって欲望が均質化された資本主義において、貨幣を持っているということは、他の人の欲望をすべて持っているということになる。貨幣は、神と人間の循環に対する徴であったのが、人と人との間の循環に対する約束の徴となった。

共産主義という計画経済の失敗は、人間の理想に対する信頼の喪失によって、他人の欲望としての貨幣に対する信頼も崩れることになった。いまや貨幣は、神のための救済の徴でもなく、他人のための利他主義的欲望の徴でもない、単に他人の欲望を模倣する徴となった。貨幣が人類の理想の徴としての機能を喪失すると、貨幣は賭博資本主義の象徴となった。貨幣はいまや貨幣のための貨幣となってその循環性を喪失し、それ自体が宗教となった。人間が、宗教的損失の状況においても宗教の教主を怨まないように、現代人は財貨をすべて失っても資本主義を怨まなくなった。230)現代資本主義の財富観は、循環性を喪失した賭博資本主義の財富観となった。

〈表2.4〉道教資本主義と自由至上主義比較表

| | 道教資本主義 | 自由至上主義/新古典派経済学 |

| ----- | :---: | :---: |

| 影響史 | マテオ・リッチ、カルヴァンに影響 | 現代主流経済学に影響 |

| 理論 | Xは–X、現実否定・未来準備 | 自由尊重 |

| 重点経済活動 | 貯蓄・財富観・財物崇拝・器局主義231) | 私有財産の増殖、予定と人類理想の徴 |

| 国家観 | 小国寡民、太平実現 | 最小政府、警察国家 |

| 社会観 | 人為排撃 | 政府干渉排除 |

| 平等観 | 道の前の平等、天生平等論 | 法/市場の前の平等 |

| 制度観 | 最小主義 | 市場強調、商業強調 |

| 価値理論 | 実利崇拝、上善若水的適応 | 効用価値、適応を通じた効率 |

| 代表思想家 | 老子、荘子 | カルヴァン、アダム・スミス、ハイエク、フリードマン |

| 長所 | 経済動機の誘発 | 資源の効率的配分 |

| 問題点 | 社会制度否定による虚無主義・現実逃避 | 過度な自由尊重による共同体破壊、神の死による賭博/カジノ資本主義化 |

| 差異点 | 循環/自由のうち循環優位 | 循環/自由のうち自由優位 |

| 問題解決方案 | 過不足の警戒 | 自律に対する責任の承認、良心の回復 |

道教資本主義と自由至上主義の財富観の差異点と関連して問題点を考察すると、道教資本主義と自由至上主義はともに貯蓄と自由を大切にする財富観を持つが、究極的に、道教資本主義は自然が優先であるため自由より自然の循環を優先し、自由至上主義は人間が優先であるため循環より人間の利益を優先する。現代の自由至上主義は道教の影響を受けて資本主義の発展に大きく寄与したが、自然の循環すら無視して人間の利益を追求し、今日の大きな危機を呼び起こしたため、自由至上主義には「自らの責任を否定せずに自由を追求する循環の回復」が、道教資本主義には「過不足の警戒」が緊急に求められる。ここまで財富観と関連して、道教資本主義に現れた自由至上主義/新古典派経済学的特性を要約すると〈表2.4〉のとおりである。

3. 仏教菩薩資本主義と社会契約主義232)的分配観

アジアの四頭の龍と中国・日本という後背地を持つ儒教資本主義に比べて、仏教の経済思想は相対的に注目されてこなかったが、経済関連の言及が相対的に豊富な仏教は、最近のインドの浮上と生態主義の拡散によって、新たな経済代案として注目されている。233)とりわけ仏教の経済思想は、道教や儒教・西教に比べて相対的に生産よりも分配に偏った差別化された経済思想であり、縁起論という厳格な道徳律によって支配される現代的経済思想といえる。234)分配中心的で倫理中心的な仏教の資本主義は、人間の義務を重視する特性が「菩薩資本主義」という語によく現れるため、仏教の経済思想を菩薩資本主義235)と呼びうる。

仏教菩薩資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などにおいて、社会契約主義および古典経済学と類似した分配観を持っていることが分かる。

仏教資本主義の歴史を考察すると、仏教もまたマテオ・リッチが西洋に初めて紹介する。236)仏教はカントの義務主義倫理学に影響を与える。237)アリストテレスの徳の倫理学から始まった西洋の倫理学は、西教の共同体主義的倫理学、カントの義務論的社会契約主義倫理学を経て、英国功利主義に至る。

社会契約主義の根源である義務主義倫理学の始祖カントは、自らも自らの思想が仏教に近いとは知らなかったが、後代の人々がカント哲学と仏教の類似点を多く指摘した。238)

カントは、二律背反という原理を西洋で初めて導入し、インド哲学のような「3」の体系を導入する。239)仏教とインドは、それぞれ「中(中)」「空(空)」「0(零)」という概念を開発し、男/女・陰/陽の二分法のみで成る世界に仏教的三分法を導入し、カントの「二律背反」概念もまた「0」のような第三の概念であった。カントは二律背反を活用して、大陸の合理論は「内容なき形式」であって空虚であり、英国の経験論は「形式なき内容」であって盲目であると批判し、「0」のように合理論でも経験論でもない先験的な知識を主張しえた。仏教のように現象学的に両者を否定したカントは、再び社会契約主義のように義務論を要請する。240)道徳的でありえない人間は「善」と「神」を要請せねばならないが、こうした要請もまた、仏教において「無我(無我)」が「善(善)」を要請するのと同じである。カントの影響を受けたショーペンハウアー241)、そしてショーペンハウアーの影響を受けたニーチェも仏教を高く評価する。242)仏教は社会契約主義経済倫理と、それに関連した平等思想に大きな影響を与えた。

仏教の重点経済活動は、静止しているかに見える虚空(空)が崩れては成るという意の成住壊空(成住壊空)という仏教の循環観に現れるように、貯蓄—生産—流通—分配のうち、財産とは縁起(縁起)によって生じ、階級を認めないため、243)公正な分配を中心に経済活動が現れる。

仏教の教理体系を見れば、効率性よりも縁起論に従って公正に分配する、分配中心の循環を強調する宗教といえる。仏教において分配を強調する理由は二通りに解釈される。一つは、仏教が発生したインドは天恵の風土のため食糧生産に人為的努力がほとんど必要なく、二期作も可能で、天災が起きてもそれを運命に帰したため、インドのような社会では当然「作る」道徳よりも「分ける」道徳が強調されたという。244)もう一つの解釈は、生産力が極めて低い社会階級においては、生産物の均等配分がなければ人々は共に生きていけず、釈迦在世時のインドは種族社会で生産力が極めて低い社会であったというものである。245)「XはXでも–Xでもない」として新たな動きそれ自体を否定し動きを固定させる仏教は、効率性よりも衡平性と「正義」を強調する点で社会契約主義と類似している。246)

仏教の重点経済活動を見ると、仏教はしばしば世俗的な労働を離れた超越的宗教として認識されもするが、ブッダの教えはそうした認識が偏見であることを示すという。247)

釈迦如来は、何の経済活動もしない人を盲人、財産を得たり増やしたりする方法は知るが善悪を区別する眼のない人を、両眼ある人を「財産を得たり増やしたりする方法も知りながら善悪を区別することもできる人」とし、正しい分配に立脚した経済活動を大切にする。248)

道教的な貯蓄を通じて経済潜在力が膨張した経済は、創造的飛躍をする前に、飛躍後の財富をいかに分配するかをまず考慮する姿となる。社会契約主義もまた、「自由至上主義において最大多数の幸福のための自然的な極大化方法はない」とするA・C・アローの不可能性定理に対する代案として出現したという。249)

循環論では、発展は直線ではなく、「一陰一陽これを道という(一陰一陽之謂道)」250)とするように、一度拡大すれば一度縮むという「乙(乙)」字の形態で発展する。251)道教によって蓄積された力量は仏教的な思想によって養生(養生)された後に生まれ、再び儒教へ飛躍する。仏教は、縁起という循環論的法則に合わせて万物を正確に分配する。252)

仏教の国家観を考察すると、やはり分配を強調する。253)仏教では国王の分配政策を重視し、正しい経済運用の方向を提示してもいる。254)

ブッダは、社会的諸問題は経済的不均等に起因しており、国家は適切な再分配政策を通じて社会的公正を実現せねばならないとする。

ブッダが主張した国家の分配政策の基準は、米国の政治経済学者ロールズ(J. Rawls)の社会契約主義的見解と相当の類似点を持つという。ロールズは、所得分配の公平とは、社会構成員の現在の社会的位置に関係なく、社会構成員の同意があるものであれば、それは公平とみなすべきと主張する。そして、最低所得集団である極貧者の厚生を最大限に上げうる所得分配政策であれば、ひとまず公平といえるとする。255)

国家が、貧しい農夫に生産基盤を、商人に資本を、雇用人に賃金を支払うことによって、正しい方向への財貨の均等分配がなされ、社会正義が実現されうるというのが『究羅檀頭経』256)の説明である。しかし両者がより接近しているといえるのは、道徳的命令にその基盤があるという点である。『究羅檀頭経』において国家の分配政策は、一時的な貧民救済の次元ではなく、貧しい人々が持続的に生計手段を持って生産活動に従事することによって自立の基盤を構築し、窮乏から脱するよう助けているという点にその意味があるという。257)ロールズにおいても、道徳的原則が分配原則に対する判断の基準をなしていることを看過してはならないという。

仏教の社会観として福祉概念を見れば、仏教徒はとりわけ『優婆塞戒経』などで説かれている三つの福田の概念に留意しながら経済生活を営む。その三つの福田とは、功徳田(功徳田=敬田)・報恩田(報恩田)・貧窮田であり、社会福祉について仏教もまた、個人の自発的な動機258)による結果とみなす。259)

仏教の価値理論を考察すると、アダム・スミスの労働価値論と類似している。アダム・スミスの労働価値論は、現象学において判断中止した状態で、商品の流れのなかに価値の根源を求めたのと同じである。アダム・スミスから経済学が始まるというのは、アダム・スミスが「価値の根源は労働である」と初めて労働価値論を主張したためである。260)労働価値論では、500ウォンの商品より1,000ウォンの商品が高い理由は、500ウォンの商品を作るのに必要な労働より、1,000ウォンの商品を作るのに労働がより多く入るからとする(訳注:原文は錯綜しているが趣旨は「投入労働量が価格を決める」)。あらゆる商品の価格を決定する価値の基準が人間の労働であると明らかにされると、経済と関連するあらゆる要素が一貫して整理された。仏教の縁起論は、西洋経済思想において労働価値論として現れる。261)労働価値論とは、商品の価格を構成するのはその商品に投与された労働であるというものであり、「蒔いた分だけ刈り取る」という縁起論と一致する。商品が労働の対価であるなら、人々は労働の対価の分だけ公平に分配されうる。

あらゆる価値の根源が人間の労働であるため、労働を高める労働力の再生産は最も重要な生産となる。アダム・スミスによれば、生産的労働とは、労働力を再生産するのに必要な必需品生産に直接投与した労働をいう。釈迦如来もまた商業労働と生産労働を区別し、生産労働を強調する。

「仕事が多く担うところが多く労力の多くかかる業務と、仕事が少なく担うところが少なく労力の少なくかかる業務とがある。前者は耕作であり、後者は商業であるが、実行すれば偉大な果報を得るが、実行しなければ偉大な果報は得られない。」262)

「商品の価格は投与された労働量である」とする労働価値論は、循環とは何の関連もないように見える。労働価値論の背景としての循環は、等価交換の法則を商品循環に適用すると現れる。市場は交換の法則が作用するため、市場のなかで不等価交換をする者は誰もいない。人間が自己の労働力を自己の労働力の再生産費用以上の対価で販売し、等価交換が連続するなら、誰も損をしないはずなのに、剰余価値はなぜ生じるのか。まさに誰かが絶えず与えているためであり、それがまさに自然の領域である。263)

労働価値論において、自然の循環による贈与が価値の根源となることを最も明確に示す概念が、労働力と労働の区分である。労働力は労働しうる能力であり、労働は労働そのものである。労働力は一晩過ぎれば再び生じる再生可能性が、労働と労働力の違いである。労働力は、一晩を過ごすうちにどこかで新たな価値を付与されて来るのである。

道教的貯蓄から発生した使用価値は、交換分配過程において実現される。限界効用論において効用が生じること自体が循環による差異の解消にあるように、労働価値論において、労働力と労働の差異から、自然の循環による純粋贈与、すなわち使用価値が現れる。労働価値論が流行(遊行)という動態的観点から循環を把握したとすれば、限界効用は待対(待対)という静態的関係から主観的観点で価値を把握したといえる。

仏教は膨張後に分配を強調するため、儒仏仙と西教のうち最も循環論的特徴が際立つ。264)仏教の労働は、「縁起なくば分配なし」という、贈与と分配としての労働となる。265)

仏教は、万生万物が互いに縁起論的に連結されて循環するため、人間は菩薩のように万物を自分の身のごとく思わねばならないという菩薩資本主義的分配観を持っている。266)最近、社会の循環を強調する経済学は、仏教の循環論的経済思想に立脚して、既存の価値論の隠蔽された循環性を見出した。労働・効用・革新という既存の価値論の共通点は、儒仏仙とは異なり、いずれも人間の努力を強調して循環を隠蔽し、「価値の根源は人間の努力だけで生じたのではなく、自然の循環から生じる価値が人間の努力によって加工されるときに生じる」ことを隠したという点である。

環境危機と人間疎外を直線的な古典資本主義が解決してくれないと、西洋の財貨観は、蓄積のために欲求を抑制する禁欲主義的財貨観から生態学的経済観へと変貌することになる。267)無限に財貨を蓄積していた人間は、環境問題と人間疎外という壁に突き当たり、共同体を通じた分配問題を解決しうる価値論を悩み始める。価値は革新によって無限に創出しうるという信頼が崩れ、自然と社会を共に考慮する循環価値論が登場し、人間労働の循環と欲望の対称性を強調する。とりわけ20世紀後半になってようやく一般人に広く知られ始めた仏教の経済思想は、最も人間の意識と一致する宗教経済思想であるという。268)

仏教の問題点を考察すると、仏教と類似した社会契約正義論の問題点と似た問題を挙げることができる。ロールズの社会契約正義論において人間は、利益のために動くのではなく、契約という義務を守るために動く。仏教は公平な分配を志向するが、仏教は功利主義のように効率を追求することもなく、自由至上主義のように自由を志向することもなく、共同体主義のように「自らがまず分け与える」ことを志向しないという問題がある。仏教はただ、あらゆる価値が正義に適用されることを願うだけである。仏教の経済思想は、社会契約主義倫理論の福祉国家論と類似して、効率性が落ち、創造的な徳を排除している。社会が複雑になるにつれ、正義と公正な縁起という境界が不分明になった。

仏教菩薩資本主義と社会契約主義の違いを考察すると、仏教菩薩資本主義と社会契約主義はいずれも義務の遵守を強調するが、仏教菩薩資本主義は縁起(縁起)をより大切にするため、循環を義務より強調する一方、269)社会契約主義は義務をより強調する。西欧の社会契約主義は社会保障制度の発展とともに資本主義の発展に大きく寄与したが、共産主義の崩壊に見られるように、人間と社会に対する不信をもたらして今日の危機を招いたため、社会契約主義には「恩を忘れない報恩精神」が、仏教菩薩資本主義には「個人の解脱を超えた共同体の尊重」が必要である。菩薩資本主義とロールズの社会契約主義倫理学を比較すると次のとおりである。

〈表2.5〉菩薩資本主義と社会契約主義比較表

| | 菩薩資本主義 | 社会契約主義/古典派経済学 |

| ----- | :---: | :---: |

| 影響史 | カント、ショーペンハウアーなどに影響 | 社会契約主義的平等思想に影響 |

| 理論 | 縁起論による公正な分配 | 効率性より公正性を重視 |

| 重点経済活動 | 正しい分配のための生産 | 経済論理ではなく正義の原則を重視 |

| 国家観 | 中立国家、社会公正性の維持 | 基礎的社会保障国家 |

| 社会/平等観 | 功徳田・報恩田・貧窮田 | 最低所得の維持 |

| 価値理論 | 無縁起・無分配 | 労働価値論 |

| 代表思想家 | シューマッハー | アダム・スミス、ロールズ、カント |

| 長所 | 対称性の回復、倫理の回復 | 経済学への義務導入による共同体発展の契機 |

| 問題点 | 縁起の境界の不透明 | 契約違反時の対策の名分の欠如 |

| 差異点 | 正義より循環を重視 | 循環より正義を重視 |

| 問題解決方案 | 縁起論の補完 | 義務遵守と連帯を通じた正義270) |

4. 儒教資本主義と功利主義的271)労働観272)

20世紀後半、中国と日本、ベトナム、そして「アジアの四頭の龍」と呼ばれた韓国・台湾・香港・シンガポールなど、儒教が国家思想であった国だけがとりわけ世界経済を席巻し始めると、中国共産党が反近代的思想として罵倒した儒教が資本主義より優れた思想ではないかという反省が起こり、「儒教資本主義」についての研究が世界的に流行した。273)

米国エンチン研究所の杜維明274)、日本の森嶋通夫275)、韓国の咸在鳳276)によって、儒教と資本主義の親和性についての研究が進められ、西洋オリエンタリズムによって歪曲された儒教思想の優秀性が一つずつ明らかにされ始めた。277)儒教資本主義を精力的に伝播する杜維明らは、儒教が資本主義の発生と発達にいかに肯定的な機能を果たしてきたかについて披瀝する。278)

儒教資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、功利主義およびケインズ—シュンペーター経済学と類似した労働観を持っていることが分かる。

儒教思想が西洋の経済思想に及ぼした影響史を考察すると、西洋でカルヴァン主義によって財富が蓄積されると、次は生産が主要な問題となった。西洋はギリシア・ローマ以後、西教に至るまで、個人の貪欲に対する極度に否定的な見解があってきたが、財貨が救済の徴となった状況で、利己心を社会倫理の根源とみる経済思想の変化が生じた。当時、倫理学教授であり、のちに経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、親友であったヒュームとともに中国の経済思想を学び、279)当時、個人の利己心が逆説的に社会的発展をもたらすとして社会的物議をかもした『蜂の寓話』280)の論理を批判・発展させて、ギリシア以後流れてきた「貪欲への禁忌」という西洋の伝統にコペルニクス的革命を起こす。アダム・スミス以前には人間の標準であった利他的人間は、アダム・スミス以後、詐欺師か非合理的な人、良心の不良な人とみなされる。価値は効用価値のみならず、人間の創造性による革新によって生じるとする革新価値論が現れ、世界は革新の角逐場となる。

儒教の理論体系を見れば、儒教は「創造性を抑圧する古臭い理論」という通念とは逆に、代表的理論書である『大学(大学)』に「明徳(明徳)」「在新民(在新民)」「日新又日新(日新又日新)」と強調するように、貯蓄によって作られた種を創造性を通じて芽吹かせうる推進性の創造性を特徴とするといえる。281)中国は、儒教の富国強兵術によって18世紀まで世界最高の経済力を誇った。282)マテオ・リッチ(利瑪竇)がよりによって中国に行って地上天国を広げようとした理由は、中国が当時世界最高の先進国であり、ヨーロッパは中国に追いつくのが困難な時代であったためである。マテオ・リッチと彼の同僚であるイエズス会宣教師たちが中国に来て、中国が富者である理由として見出したのは、富国強兵を主とする儒教であった。当時、中国は韓国とともに、王から一般庶民に至るまで儒教を学習する世界唯一の教育体制の国であり、その思想的基盤が儒教であった。283)

儒教の中心経済活動を考察すると、貯蓄—生産—流通—分配のうち生産を強調する。仁(仁)を強調した儒教は、孟子に来て仁義(仁義)を同時に強調しもしたが、生産である仁(仁)を最も強調したのである。儒教資本主義において人間は、万物を循環させるために共同体284)を成し、最大多数のための最大幸福を通じた構造的革新をする功利主義的労働観を持つ。285)功利主義的労働観とは、循環的貯蓄観や循環的分配観と同様に循環を中心としつつ、革新286)を通じて生産で循環を主導する方法をいう。

儒教の国家観を考察すると、儒教は孔子の人文主義国家観に代表されるといえる。287)孔子は、自由至上主義的な家族主義国家観の問題点を補完して長所を活かし、血縁の自発性から「最小の過失のための人文啓発の熱望」によって国家を想定し、ヨーロッパがあれほど羨んだ哲人国家の伝統を作った。288)

儒教は、『論語』と『孟子』に出てくるように、戦国時代にすでにケインズ的経済調節政策があり、当然アダム・スミスの自由放任政策を施行して富国強兵を最大限効率性をもって施行していた。289)西洋資本主義の儒教淵源についての研究は、ついに「東洋が西洋から資本主義を学んだのではなく、西洋が東洋の資本主義を学んだ」がゆえに20世紀にヨーロッパとアジアの経済順位が入れ替わったことを証明した。

ただ、西洋は東洋に資本主義を学んだが、その内面にある易(易)の循環的経済観を学べなかったため、大きな災厄を呼び起こすことになった。

儒教の社会観を考察すると、儒教資本主義は効率を強調しつつ、社会全体の集合的な効率を強調する点で、倫理学的には功利主義に近い。290)人間が貪欲を追求しても見えざる手が調整するというアダム・スミスの経済思想は、「道」を模倣したものであった。儒教は、社会構成員が一つの目標を追求する大同社会を志向する。当初、孟子の自由主義経済思想を模倣したケネーの農業中心的資本主義を、商工業中心の自由主義資本主義経済へ転換したのがアダム・スミスの古典的資本主義であった。

儒教の価値論を考察すると、儒教の価値論は革新価値論と記号価値として現れる。291)革新価値論を考察すると、労働価値と限界効用価値が同一であっても人によって結果物が異なるのは、労働と効用以外に別の価値の創出要素があることを意味する。まさに労働と効用を決定する人間の要素が価値を決定し、技術が発達するほど価値を作る人間の役割が大きくなっている。人間は人的資本として投資・管理される。

儒教は絶えず人を叱咤して新たなものを創造させる。労働価値と限界効用が、与えられた枠内での待対と流行を通じて最大値を創出する価値論であるとすれば、創意性あるいは革新価値論は、その枠自体を拡大する価値論といえる。生産と分配を調節する人間の革新は、機会が平等に循環するほど右へ動くといえる。シュンペーターは、革新が価値の源泉であり、革新なき社会には価値がありえないとした。最初の創造性の契機として出発した儒教は、社会の価値体系を独占した後、創造性の契機が消えることによって経済を多少停滞させたが、現代社会に更新されてアジア経済の発展を牽引する牽引車の役割を果たしたのである。

記号価値を考察すると、記号価値もまた革新とともに、その価値の源泉は循環にあることが現れる。292)まず、何かが創造されるということは、循環の待対と流行を円滑にするということである。たとえば、赤が流行すれば次は青が流行し、青いものが流行するときに赤いものを準備することが革新といえる。革新は、今日、我と他人を区分する「差異の記号」を生産している。

儒教と功利主義の長所を考察しよう。道教の使用価値と仏教の交換価値は相互に対立するが、二つの概念が人間の最低生計水準において妥当な概念であるとすれば、その水準を超えれば、その二つを調和させる新たな記号の創造が要請される。「使用価値」と「交換価値」が「量(量)」の経済において必要な価値であるとすれば、儒教の「記号」価値は「質(質)」の経済において必要な概念である。293)人間が最も重点を置くべきものは、労働を通じた生産と想像力を通じた革新といえる。294)道教の使用価値と仏教の交換価値は、儒教によって記号化され革新されて、新たな質的価値として誕生する。記号価値を選好する儒教は「XはX、–Xは–X」という区別を最優先とする。記号学の時代である後期資本主義は、記号を生産して消費する最も効率的な体系となった。295)儒教資本主義の記号価値は、共同体を人文化させて持続可能な発展を引き起こす。

儒教と功利主義の問題点を考察すると、功利主義が福祉国家に最も近く見えるが、功利主義は個人の効用を強調するのではない点、社会全体の不平等は考慮しない点、効用を一元的に評価する主体を想定しており、多様な社会構成員の集合的な選択過程を無視する点で、儒教と共通する問題がある。アダム・スミスの古典的資本主義には、見えざる手が道(道)のように作用して需要と供給の均衡を合わせるが、アダム・スミスもケネーも中国の経済思想から学べなかったのは、中国思想の背景に敷かれている循環性であった。中国の易(易)思想のように、見えざる手は螺旋形発展をしてこそ持続可能な成長をなしうるが、アダム・スミス以後、ヨーロッパ経済は螺旋形発展ではなく直線形発展を選択する。直線形発展を追求していたヨーロッパ経済は、第一にマルクス主義革命、第二に環境危機を迎えて、再び東洋的淵源に戻り、螺旋形発展を追求することになる。中国が体制を柔軟化させ、資本主義国家が社会保障制度を強化するように、儒教において三綱五倫の弱者の利益を保障して相生する方法によって、功利主義と儒教資本主義を発展させうる。ここまで儒教資本主義と功利主義を比較すると次のとおりである。

〈表2.6〉儒教資本主義と功利主義比較表

| | 儒教資本主義 | 功利主義/ケインズ—シュンペーター経済学 |

| ----- | :---: | :---: |

| 影響史 | アダム・スミス、ケネーに影響 | 福祉国家に影響 |

| 理論 | 創造性重視、日新又日新 | 有効需要、企業家精神 |

| 重点経済活動 | 生産・仁(仁)・労働 | 最大多数の最大幸福のための大量生産 |

| 国家観 | 人文主義国家観 | 福祉国家 |

| 社会/平等観 | 大同社会、大同の平等296) | 集合的効率を重視 |

| 価値理論 | 記号価値 | 革新価値論 |

| 代表思想家 | 孔子、司馬遷 | ベンサム、ミル/ケインズ、シュンペーター |

| 長所 | 共同体の人文化、革新 | 革新、共同体発展の契機 |

| 問題点 | 団体中心、画一化 | 個人の人権侵害、質的差別の無視 |

| 差異点 | 循環が功利より優先 | 功利が循環より優先 |

| 問題解決方案 | 三綱五倫における弱者尊重 | 少数の利益保障 |

5. 西教(西教)西欧資本主義と共同体主義的財貨観

マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムと資本主義の精神を発表して以後、西教は資本主義との密接な関連があると知られた。しかしウェーバーが明らかにしたのとは異なり、プロテスタンティズムは、西教の博愛精神に基づく共同体精神が儒教と差別化されて、資本主義の成立に成功したといえる。297)

西教西欧資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などの順に、共同体主義および制度経済学と類似した財貨観を持っていることが分かる。

西教西欧資本主義の歴史を考察すると、プロテスタンティズムを西教と同一視したウェーバーとは異なり、西教の博愛思想は、プロテスタンティズムの財富観とは正確に正反対の思想を持っていた。298)道教の財富観が「水(水)」のように万物を引き寄せて蓄積する役割をするとすれば、「博愛(博愛)」は「火(火)」のように、集めておいた財富を必要な所に消費して循環させる役割をする。「博愛」は、消費に注力して価値を生産しないのではなく、効用を実現させて価値を生産する。実際、西教は聖霊を「火(火)」として表現する。299)

西教の重点経済活動を考察すると、貯蓄・生産・流通・分配という経済循環のうち流通に相当する。貯蓄・労働・革新を通じて構築された価値は、博愛という共同体主義的財貨観に立脚した流通を経て、ようやく価値が実現される。西教は、貯蓄—生産—流通—分配という経済四段階のうち、主に流通を通じて循環を主導する。300)流通は、既存の貯蓄・分配・生産とは異なり、生産と無関係な消費と贈与(贈与)の概念である。儒教の革新によって生じた記号は象徴となって価値を統合し、愛の象徴として贈与されることによって、経済活動は一つの循環を締めくくる。301)

西教の教理を経済と関連して考察すると、西教が流通を象徴するといえるのは、同じ唯一神を信じる宗教であるイスラムとは異なり、「利子(利子)」を認めるという点である。西欧資本主義は、単に再使用のための貯蓄を超えて、「利子」を認めることによって始まったといえる。302)カルヴァンが認めた利子は、同一の唯一神を崇拝するイスラム教やユダヤ教では現れない思想であった。利子に対する承認は、西教の博愛と三位一体によって受容可能な論理であった。303)聖子(聖子)は、無意識的対称性によって循環によって増えた価値であり、博愛は「火」のように万物を流通させることを特長としている。304)

貨幣の別の表現である「金(かね)」というものは循環を象徴し、博愛は最も「金」の属性にふさわしい教理体系を持っている。305)実際、西教の宣教師はマテオ・リッチのように全世界を巡って西教を流通させた。西教の唯一神思想は、貨幣のように、単一の基準であらゆるものを統一させる思想を持っていた。306)

西教の国家観を考察すると、共同体主義倫理学の国家観のように、国家は積極的に共同体の理想を実現する場となる。西教は教皇と王という二元的体制の宗教であるが、王が国家において共同体の理想を実現しうる。西教の国家観は、共同体を通じた地上天国を志向するといえる。

西教の社会観を見れば、独立的な各個別主体が批判的に市場経済307)を眺め、共同善を主張する点で、共同体主義に近いといえる。308)共同体主義は、社会契約主義とは異なり、社会連帯を利害打算ではなく、歴史的に成り立った感情共同体とみなす。西教は家族を重視しないため、皆が兄弟・姉妹と呼ばれる。共同体主義は最も理想的な経済思想といえるが、そのためには循環に対する確固たる保障が必要である。

西教西欧資本主義の価値論を考察すると、西教の流通—財貨観と最も近い価値論は、文化価値論309)あるいは象徴価値論310)といえる。最も必要な人に流通させて最も高い効用を引き出す限界効用の法則は、流通を通じた博愛という贈与の実践によってなされ、このとき交換価値・使用価値・記号価値は象徴価値となる。共同体主義の象徴価値は、西教において神との約束として現れる。

西教の博愛論は、生産の段階から流通・消費の段階へ行く第一段階となる。とりわけ贈与の論理が作動して、商品の価値は象徴価値として固まり始める。記号学的な身分の差異を表すところまで発展していた商品の変化は、流通されながら象徴価値として固まり、霊(霊)的資本となる。311)

西欧資本主義の長所を考察すると、ウェーバーが資本主義成立の原因として指摘したプロテスタンティズムの財富観とは異なり、西洋で真の資本主義が発生したのは、東洋の儒仏仙思想には欠如していたこの博愛の贈与思想であるといえる。西教は東洋とは異なり、道教と儒教の富国強兵策で製造された財貨を博愛思想に従って広く流通させることによって、財貨の循環を促進させて産業資本主義の構築に成功したといえる。農耕社会の民族は情緒的紐帯感は深いが、長期間の同居によって縁故資本主義のような役割が生じざるをえないのに対し、非農耕民族は公平な関係を維持するため、共同体を形成するのにより有利である。

西教西欧資本主義の問題点を考察すると、西洋の財富観が「神の死」と「理念の死」に従って変わるように、財貨に対する象徴価値の観念も変わる。神の慈悲の証明としての財貨は、神の死以後は使用の対象として、また理念の死以後は仮想現実として現れることになる。今日、西教は繁栄神学となって、再び財貨は救済の証明となったが、絶対的貧困水準を超えれば、もはや羨望の対象ではなく、他者の欲望の徴にすぎない。312)

貯蓄・労働・革新の価値をうまく調和させて発展してきた西欧資本主義は、物質文明の発展を成し遂げたが、物質文明がその根である儒・仏・仙の循環構造の精神文明を妨げることになった。資本主義経済の根源である社会と自然の循環性は、環境危機と人間疎外というブーメランとなって現代経済の足を引っ張ることになった。循環を通じた価値の実現よりも、天国のために今日を犠牲にする賭博資本主義が経済価値となった。自らの根である循環価値の実現は後日に先送りされ、直線的物質文明を追求するようになった。個人の経済観もまた循環的倫理を喪失して経済を追求するが、経済はいっそう困難になった。313)

生産と唯一無関係な共同体主義は爆発的に増加しており、これは東欧国家の社会主義崩壊に伴う代案模索の次元が強いという。314)

経済の循環のために、受け取りうる保障のない贈与をせねばならない理由は、循環が崩壊すれば、何かを常に志向する人間意識の志向性が崩壊するためである。実際、能力主義に心酔した現代人は、しばしば憂鬱症と無力感に陥る。共同体主義を代表するマッキンタイアは、現在の自由社会が直面している問題は、贈与の不在による目的意識の喪失であり、目的意識がない限り道徳は趣味や嗜好にすぎなくなるとする。315)

西教西欧資本主義と共同体主義の差異点は、共同善と循環の優先順位において、西教西欧資本主義が共同体主義に比べて共同善を優位に置くという点といえる。西教では、共同体の善もまた究極的には絶対者の意にすぎないからである。

経済学的共同体主義は、いまだ共同体主義が発生する心理学的機制を発見しえなかったが、精神分析学において、無意識的対称性によって共同体主義が必然的に発生することを証明した。マッテ・ブランコは、ラカンの精神分析学において無意識が対称的に成り立っていることを発見した。

〈表2.7〉西欧資本主義と共同体主義比較表

| | 西教(西教)西欧資本主義 | 共同体主義/制度主義経済学 |

| ----- | :---: | :---: |

| 影響史 | 非農耕文化共同体主義 | 現代共同体主義 |

| 理論 | 利子の承認、三位一体 | 贈与経済論、一般経済論 |

| 重点経済活動 | 博愛の実現を通じた共同体 | 贈与・流通・消費 |

| 国家観 | 地上天国 | 共同体国家 |

| 社会/平等観 | 神の兄弟姉妹 | 感情共同体 |

| 平等観 | 神の前の平等 | 共同体の前の平等 |

| 価値理論 | 神との約束 | 象徴価値 |

| 代表思想家 | カルヴァン、ウェスレー | マッキンタイア、マイケル・サンデル |

| 長所 | 集団行動が可能 | |

| 問題点 | 環境問題 | 現実性の不足 |

| 差異点 | 循環重視 | 共同体重視 |

| 問題解決方案 | 対話の増進 | 目的意識の強化 |

人間の意識は自分にのみ有利な交換意識を持っているが、人間は無意識の対称性によって、誰かに与えることになる志向性を持ち、受けたものを返す負債感を持つ。モースは、世界の贈与経済体制において負債感に訴えるとする。人間に負債感を感じさせるものが、無意識的対称性といえる。ここまで議論してきたことを整理すると次の表のとおりである。

Ⅱ-1・2・3・4章を要約すると次の表のとおりである。

〈表2.8〉貯蓄—生産—流通—分配関連表316)

| | 貯蓄 | 生産 | 流通 | 分配 |

| :---: | :---: | :---: | :---: | :---: |

| 宗教 | 道教 | 儒教 | 西教 | 仏教 |

| 経済思想 | 肯定的財富観 | 召命的労働観 | 公共的財貨観 | 縁起的分配観 |

| 循環 | 反対—相互対立 | 期待—相互依存 | 代行—相互代行 | 交流—相互消長 |

| 経済思想 | カルヴァン主義 | 企業家精神、パレート最適317)(厚生経済学) | 福祉国家318) | カント主義 |

| 経済倫理 | 自由至上主義 | 功利主義 | 共同体主義 | 社会契約主義 |

| 価値論 | 効用価値論 | 革新価値論 | 貨幣価値論 | 労働価値論 |

| 価値 | 使用価値 | 記号価値 | 象徴価値 | 交換価値 |

| 適用領域 | 有用性の次元 | 身分の次元 | 贈与の次元 | 取引の次元 |

| 作動論理 | 作用性 | 差異性 | 曖昧性 | 等価性 |

| 資本主義 | 中国資本主義 | 儒教資本主義 | 西欧資本主義 | 菩薩資本主義 |

| 経済正義 | 無為自然 | 日新又日新 | 博愛 | 慈悲・空・縁起 |

| 循環 | 限界効用均等319) | 創造的革新 | 信用創造 | 労働力の再生産 |

Footnotes

  1. 136)시오노야 유이치 (2002), 38쪽
  2. 137)시오노야 유이치 (2002), 70~71쪽
  3. 138)倫理学において徳は、東洋の徳とは異なり、卓越さ(arete)をいう。(박해경,「아리스토텔레스의 덕 윤리와 공동체주의에 대한 연구」, 경남대학교 교육대학원 석사학위논문, 2004, 5~7쪽)
  4. 139)アリストテレスは、カントや功利主義者とは異なり、徳を共同体のなかで論じ、徳は個人の動機や習慣・性格にかかっているのではなく、共同体のなかで人間が持つようになるものであるとする。(박해경, 2004, 1쪽)
  5. 140)『書経(書経)』では三事(三事)として、正徳(正徳)—存在、利用(利用)—行為、厚生(厚生)—制度をいう。(『書經』, 「大禹謨」, 안용진, 「공자의 경제 윤리에 관한 연구」, 성균관대학교박사논문, 2007, 초록에서 재인용)行為(天)・制度(地)・存在(人)は、天地人としても、ジョルジュ・デュメジルの政治・生産・宗教の三機能体系としても解釈しうる。
  6. 141)시오노야 유이치 (2002), 47쪽
  7. 142)「卓越」は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』におけるareteを翻訳したものである。(아리스토텔레스, 『니코마코스윤리학』, 이창우 외2인 역, 이제이북스, 2006, 36쪽)
  8. 143)시오노야 유이치 (2002), 77쪽
  9. 144)시오노야 유이치 (2002), 79쪽
  10. 145)ロールズの『正義論』に現れた倫理学的議論は、経済学にも多くの影響を及ぼした。とりわけ、効率性を中心に進められる経済学的議論に、ロールズの倫理学は、効率性以外の社会的徳目、すなわち自由・権利・正義などへの考慮を経済学の領域へ導き入れる触媒の役割をしたという。(박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」,『한국사회 제7집 2호』, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 35쪽)
  11. 146)共同体主義は、大きくマイケル・サンデルのアイデンティティ共同体主義、マッキンタイアの徳共同体主義、テイラーとウォルツァーの政治的共同体主義に分けられるという。(박해경, 2004, 26쪽)
  12. 147)パレートは、与えられた限界内で最適の効率性を持つ組み合わせを求めうる「パレート最適」という関数を発見した。パレートが発見した最適の配分は、共同体の最大多数の最大幸福を提供してくれる解法となった。パレートの方法論は厚生経済学といって、福利厚生を最適化する学問となった。
  13. 148)共同体主義は、小規模共同体の文化的特殊性を強調し、この共同体が人格の完全性・道徳の形成・共同体意識の形成に対して持つ価値などを強調することによって、小規模共同体の重要性を浮き彫りにする一群の社会理論的・社会政治的・道徳哲学的立場をいう。この立場によれば、人間の苦痛と不安を堪えうるものとして正当化してくれる「生の具体的意味」は、匿名的で多元的な社会においてではなく、共通の価値を志向し、人々が互いに知り合いうる大きさを持つ共同体のなかで実現される。代表的な理論家として、『これからの「正義」の話をしよう』で有名なマイケル・サンデルや、アリストテレスの徳の哲学を復活させたマッキンタイアなどがいる。(오트프리트 회페, 『윤리학사전』, 임홍빈 외 역, 예경, 1998)
  14. 149)自由主義の核心をなす自律性・中立性の代わりに、共同体・共同善を強調すべきというのが共同体主義者の主張である。(박해경, 2004, 26쪽)
  15. 150)大巡思想において諸宗教は、儒仏仙と西教の四つを核心としうるという。「またある日、上帝が仰せられた。『仙道(仙道)と仏道(仏道)と儒道(儒道)と西道(西道)は世界各族の文化の土台となったから、いまや崔水雲(崔水雲)を仙道(仙道)の宗長(宗長)に、震默(震默)を仏教(仏教)の宗長(宗長)に、朱晦庵(朱晦庵)を儒教(儒教)の宗長(宗長)に、利瑪竇(利瑪竇)を西道(西道)の宗長(宗長)に、それぞれ立てる』と仰せられた。」(『典経』教運一章六十五節)
  16. 151)命題Xとは「水は冷たい」という一つの文であり、命題–Xは「–」が否定を指すため「水は冷たくない」を意味する。
  17. 152)あらゆる存在は構造的な次元と流行的な次元を同時に持っている。ゆえに、陰陽の力動的均衡は、再び調和を成す陰陽の相互作用(感応)によって循環的変化が起こり、循環的変化によって再び陰陽の調和(調和)が成立するといえる。こうした観念が易(易)では、位(位)と時(時)、応比(応比)と往来循環、中(中)という卦解釈の原理として表示されたのである。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 165쪽)西洋でも歴史発展の論理には循環があるが、東洋の循環が西洋の循環と異なるのは、感応論をより含むためである。西洋は循環も線形的にし、東洋の循環は西洋の循環に比べて非線形的な感応論を含んでいる。感応論は、東洋の循環が複雑系科学となる根拠となる。循環について感応の地点を選定する位置に従って儒仏仙が分かれるといえる。大巡思想において儒仏仙は究極的な思考体系へ拡大される。あらゆる道通神は儒仏仙の修めたところに従って道通を伝え(上略、道通するときには儒・仏・仙の道通神がすべて集まって各自が心身で修めたところに従って道に通じさせる、下略、『典経』教運一章四十一節)、同じ壬辰の乱を儒道が担えば3年、仏道が担えば8か月、仙道が担えば3日というのは、儒仏仙が普遍的な科学体系であることを示す。(上略、過ぎ去った壬辰の乱を崔風憲(崔風憲)が担っていれば三日に過ぎず、震默(震默)が当たっていれば三月を越えず、宋亀峰(宋亀峰)が担っていれば八月で乱を平らげたであろう。これはただ仙・仏・儒の法術が異なるためである、下略、『典経』預示一章七十三節)今日、科学において方法論的自由主義を採るファイヤアーベント、バシュラール、カンギレム、ミシェル・セール、ジルベール・デュランなどの科学哲学では、科学は詩的想像力と異なるものではないため、科学の背景として西教的科学だけがあるのではなく、儒教的科学・仏教的科学・道教的科学が互いに異なるように定立可能であり、実際に自然科学すらニュートン・アインシュタイン・量子力学など、循環を眺める観点に従って異なるように現れる。自然科学も循環する。世界的な科学哲学者ファイヤアーベントは、学校で魔術を教えるべきだとする。(장대익,『과학에는 뭐가 특별한 것이 있다』, 김영사, 2008, 180~183쪽)人文社会科学もまた、ハーバーマスが分類するように、主体の関心が解放的関心か否かに従って、実証主義・解釈学・構造主義・深層解釈学に分けられうるという。(위르겐 하버마스, 『사회과학의 논리』, 박성수 역, 문예출판사, 1986, 7~41쪽)ヴィクトル・シャウベルガーは、水についての理論を通じて、現代科学が自然の循環性を活用しえずに自然の破壊が深刻であったことと、自然の求心性爆発原理を利用して創造的な永久装置を作りうることを示した。(『아인슈타인은 틀렸다』, 양문, 1997, 97~101쪽)最近の量子力学は、儒・仏・仙のような「心を通じた科学」の可能性に没頭している。(김상운,『왓칭(신이 부리는 요술)』, 정신세계사, 2011, 36~55쪽)
  18. 153)位相数学(トポロジー)とは、東洋数学と西洋数学の境界にあるような現代数学で、「位相(位相)」という言葉どおり、事物の位置と形状を解析する数学である。位相数学は、東洋数学のように、事物の外形に関係なく事物の本質的共通性と差別性を発見する数学である。(이정우, 『접힘과 펼쳐짐』, 거름, 2000, 189쪽)位相数学は、空間上の変数を抽象化して各図形間の類似性を発見する。位相学(Topology)の発展によって、空間・代数・時空間を多元化された枠で学問の新たな扉が開かれることになった。位相数学を通じて、自己文化の構造を分析するのみならず、一つの文化で他の文化を理解するのにも役立つようになった。(한태동,『사유의 흐름』, 연세대학교 출판부, 2003, 29~30쪽)
  19. 154)世界の論理は、西洋の三段論法と中国の二元的論理に代弁され、韓国のような周辺国の循環論理は虚辞決定論として現れる。(박동환, 『동양의 논리는 어디에 있는가』, 고려원, 1993, 102-103쪽)循環論理は互いに感応しているため、虚辞決定論として多様に表現しうる長所がある。
  20. 155)孔子は「我が道は一以貫之(一以貫之)である」(『論語』「里仁」)、言行がすべて一つに帰結するとした。孔子は3,000人の弟子のうち70人を選ぶとき、一つに貫けるか否かを基準にしたという。孔子の論理は(X)²∪(~X)→Xと要約される。(한태동, 「사유의 흐름」, 『신학논단』, 연세대학교 신과대학, 1989, 13~16쪽)膨大な儒教をどうして式一つで単純化できるかという反論は、孔子によって反駁される。易(易)が単純な太極という記号一つに圧縮され、漢字は万物を一つに圧縮し一音節に圧縮する。漢字は韓国語の古代語であるインドのサンスクリット語の起源である悉曇語から出たという。(강상원, 『한자는 동이족문자』, 한국세종한림원출판부, 2007, 3쪽)また、漢字の意味と発音方法が一致する国は我が国しかないという。(박문기, 『정음선생』, 엠에스북스, 2011, 38~40쪽)圧縮と循環は、西洋と東洋の学問の方法論を区分する基準となる。東洋の数学は循環論理に基づいて十干十二支など帰納的に圧縮し、西洋数学は演繹論理に基づいて無限に拡張させるという。
  21. 156)X・(~X)を同時に受け入れる老子は、弁証法的で逆説的であるといえる。道経と徳経で構成された老子の道徳経において、道の構造は「XといいうるXは永遠のXではない」とし、徳の構造は「Xなる者を私はXとみなし、Xでない者も私はXとみなすから、これがすなわちXである」とする。5,000字の短篇であるが、徹底した統一性と豊かな表現を持つ道徳経は、人類の遺産といえる。(한태동, 2003, 50~54쪽)道と徳を総合してみると、結局、道教はXは–Xであり–XはXである理論といえる。
  22. 157)釈迦如来は、様々な問題に対する答えを与えたというより、その問題自体から解脱しうる道を提示したといえる。釈迦如来は、まず考えの基盤を分析し、我々が自ら造作した二分化された我執と色界が苦痛の根源であることを悟った。我執は絶えず二分化して無量衆生を成すが、無量衆生は実際には存在しないとして「実無衆生滅度入涅槃」とした。色界も絶えず二分化して三千大千世界を成すが、これはすべて存在しないものとして、三千大界をすべて布施しても釈迦如来の言葉一言にも及ばないとした。釈迦如来は、我執と色界の二分化を克服する方法として六波羅蜜を提示し、阿耨多羅三藐三菩提—無上正等正覚(無上正等正覚)とした。正等(正等)とは、易しい言葉で平等である。平等であるということは二分化を除去することである。(한태동, 2003, 23~25쪽)釈迦如来が悟ったということは、また、釈迦如来の教えを一つの論理に圧縮しうるということを意味する。
  23. 158)西教の構造は天地人三合のSimplex構造になっている。十戒のうち1~4戒は天、5~7戒は地、8~10戒は人間について主に語る。「主の祈り」もまた「御名が崇められますように(天)」「日用の糧を与えたまえ(地)」「我らに罪を犯した者を我らが赦すように、我らの罪を赦したまえ(人)」。イエスは40日間、荒野で繰り広げられた悪魔との試みにおいても、石をパンにする奇跡を拒否して天の秩序に順応し(天)、天下万国を与えるという誘惑を拒絶し(地)、聖殿の上から飛び降りよという試みも拒否する(人)。(한태동, 2003, 50~54쪽)イエスは天地人三合の根源を「父」という語で易しく表現したという点で儒教と通じる。儒教は、西欧の哲学者テイラー(Charles Taylor)が述べたように、今日の我々の時代は最も少なく宗教的でありながら同時に卓越して究極性と超越性を指示するもう一つの超越性を要求し、儒教において最も意味深く考える核は、その世間的超越意識であり、それはすなわち孝である。(이은선, 『잃어버린 초월을 찾아서』, 모시는 사람들, 2009, 58~84쪽)儒教は仏教や道教のように超越を外在化せず、内在化して独創性を得る。(프랑수아 줄리앙, 2003, 142쪽)孝は、循環を通じて失われた超越を求める方法である。道教が無形の天、仏教が形象のある地、儒教が人間について主に局限して語るとすれば、西教は天地人の根源である絶対者を語る。儒教が一次調和させた天地は、再び西教から儒教まで含めて二次流行され、再び西教まで含めた春夏秋冬として循環させる道によって三次調和される。神学もまた四つの論点があり、0と1の調和が創造論であるとすれば、1と1は聖母崇拝論(Both A and B)、2と1はキリスト論(Either A or B)、3と1は三位一体論(Neither A Nor B)であるという。(한태동, 「수학논리에서 보는 신학」, 『신학논단』Vol.5 No.-, 연세대학교 신과대학, 1959, 122~123쪽)この論考と関連して論じれば、0と1の調和が道教(創造論)であるとすれば、1と1は仏教(聖母崇拝論)、2と1は儒教(キリスト論)、3と1は西教(三位一体論)、4と1は道(元亨利貞)といえる。
  24. 159)X・(~X)を同時に受け入れる老子の弁証法的で逆説的な態度を、孔子は最後まで反対し、恩は恩で、恨は恨で報いる「(X)²∪(~X)²→X」という態度を固守して、老子と孔子の二つの学派はついに対立することになった。(한태동, 2003, 62~63쪽)
  25. 160)『論語』「学而章」、子曰、学而時習之、不亦説乎!(성백효, 『논어집주』, 전통문화연구회, 1990, 27쪽)
  26. 161)『論語』「学而章」、有朋自遠方来、不亦楽乎(같은 책, 29쪽)
  27. 162)『論語』「顔淵章」、斉景公問政於孔子、孔子対曰、君君、臣臣、父父、子子(같은 책, 346쪽)
  28. 163)『論語』「為政」、知之為知之、不知為不知、是知也(같은 책, 67쪽)。知ることを知るとし、知らぬことを知らぬとする孔子の言は反駁できないように見えるが、ソクラテスは「私は私が知らぬことを知っている」という嘘つきのパラドックスで応酬する。「私が知らぬことを知っている」という言葉は、「私が知らぬもののうちに知っているものがある」という逆説が出てくる。(한태동, 같은 책, 61쪽, 2003)
  29. 164)『論語』「憲問」、以直報怨、以徳報徳(같은 책, 421쪽)。原文の訳は「正直さで怨みに報い、徳で徳に報いるべきである」。この文の前には「或曰、以徳報怨、何如、子曰、何以報徳(怨むところにすでに徳で報いたなら、私に徳ある者には将来何で報いるのか)」がある。老子の「報怨以徳(仇を徳で報いる)」(『道徳経』63章、같은 책, 737쪽)に対する孔子の儒教論理的な答えである。
  30. 165)道教は「反」の美学と呼ばれるほど逆説的な表現が多い。反者道之動(反者道之動、『道徳経』40章)は、道の運動が循環的であることを内包している説明である。これは老子思想が弁証法の根拠として多く使用され、これによって老子は中国弁証法の始祖として推戴された。(김덕삼, 『중국도가사서설』, 경인문화사, 2004, 145쪽)
  31. 166)『道徳経』「1章」道可道、非常道、名可名、非常名(김경수, 『노자역주』, 문사철, 2009, 14쪽)
  32. 167)『道徳経』「8章」上善若水。水善利万物而不争、処(居)衆人之所悪(같은 책, 108쪽)
  33. 168)『道徳経』「5章」天地不仁、以万物為芻狗(같은 책, 80쪽)
  34. 169)『道徳経』「79章」和大怨、必有余怨、報怨以徳、安〔焉〕可以為善?(같은 책, 34쪽)
  35. 170)仏教では、キリスト教で「仇を愛せよ」というのは、煩悩を「愛」という美名のもとに隠すことであるという。さらにこれを時間性の連繋否定に適用すれば、憎むべき仇すら存在しえない境地に至ることになる。(한태동, 2003, 31쪽)
  36. 171)仏教は西方の宗教で引退性が多く死後の事を多く語り、儒教は東方日出の方として進出の性が強く生時の事を語った。仏教は空間的で無常と無我(無我)永生を語り、儒教は時間的で時変(時変)を語り、生孫永存(生孫永存)を語った。キリスト教は発揚(発陽)的で霊的(霊的)永生を追求することになり、仙(仙)道は水(水)の精(精)のように肉身永生を追求することになった。(한규성,『역학원리강화』예문지, 1997, 234-235쪽)
  37. 172)共同体とは、互いに同一の個体の集団ではなく、異質的な個体の集団であるといえる。同質的な個体の集団は、あえて共同体主義でなくとも集団化されうるためである。異質的な個体が共同体を成すには、逆説を容認せざるをえない。「すべてになる」には、物質的な肉体よりは精神になってこそ自由に変化が可能である。西教は、ギリシアのアリストテレスが開発した帰納・演繹・弁証・逆説のうち、合理的な領域から排除した逆説を根幹に教理を立てて成功した。論理において二分化された全体と個体は、演繹・帰納・弁証・逆説に四等分される。全体から個体を取り出す演繹、個体から全体を取り出す帰納、帰納と演繹の対話である弁証、帰納と演繹の対立である逆説がある。西教は、使徒信経に見られるように、小アジアの二元論であるグノーシス派と対立しながら二元二次的な三位一体論を定立したが、異端を排撃するために決定された信条を「時間を超越した不変のもの」と考えているとみなされる。(한태동, 같은 책, 6-7)
  38. 173)가지 노부유키, 『침묵의 종교 유교』(경당, 2002) 21~120쪽
  39. 174)仏教と道教は、儒教とキリスト教に比べて共同体よりは個人的修養を志向するという共通点がある。自らを内観して宇宙と人生の本質を悟ろうとする内向的思惟方向は、道家と禅宗が一致するとみることができる。(김항배,『불교와 도가사상』, 동국대학교출판부, 1999, 80~87쪽, 275~280쪽)道教と仏教は互いの類似性によって、隋唐時代に至って吉蔵・澄観・宗密のような華厳教学家が、伝統的な道—仏共助を破って優劣の関係とみなした。華厳学者たちが形而上学的本体の側面から道仏の関係を分析したためである。(신규탁, 「中國佛敎의 道家批判에 관한 考察」,『동양철학』Vol.28 No.-, 한국동양철학회, 2007, 277~281쪽)
  40. 175)仏教と道教が個人的修行を重視するとすれば、儒教と西教は共同体を相対的に重視する傾向があり、儒教と西教の共通点が多く指摘されてきた。マテオ・リッチを始めとして、最近、ジュリア・チン、韓国の柳永模・咸錫憲・柳東植・尹聖範・李恩選などは、孝とキリスト教の共通点を指摘している。ジュリア・チンは、儒教と西教が「内在性と同時に、社会的、さらには世界的責任に対する実際的関心に基づく外向性を持つ」という共通点があるとする。(줄리아 칭, 『유교와 기독교』, 분도출판사, 1994, 23~24쪽)
  41. 176)仏教は儒教と持続的な関係を結び、西教とはほとんど関係を結ばずにいたが、最近になって、宗教のうち来世を志向するという重要な共通点があり、来世に対する別の表現である「神」と「空(空)」が互いに関連していることを発見した。イエス・キリストは、仏教的に神(神)の空(空)として表現しうる。(한스 반델펠스, 『불교의 공(空)과 하느님』, 대원정사, 1993, 303~317쪽)
  42. 177)한규성, 1997, 233쪽
  43. 178)最近、宗教が持つ精神の力が物質的根拠を持っているという根拠を科学者たちが研究している。とりわけ仏教と道教では科学と連結しようとする動きが活発で、相対的に儒教と西教はまれである。宗教の物質的根拠についての研究は、道徳と科学に関する研究といえ、気が世を動かす方法についての研究であるため、経済と経済倫理・宗教を連結する研究において極めて重要である。道徳と科学において気が世を動かす方法についての代表的な国内著書としては、方建雄の『気が世を動かす』(예인, 2005)がある。
  44. 179)道教の嚆矢と呼ばれる『老子』は、修養書という常識とは異なり、中国で初めて国家と資本あるいは貨幣の論理を立てた本といえる。『老子』において万物の普遍的立法者として強力に登場する道(道)は、今日の資本と国家・貨幣の普遍性論理と同一である。『老子』の強力な普遍者論理と強く対立するのが『荘子』であるため、これまで同じ範疇に分類されてきた『老子』と『荘子』は、反対範疇に分類されねばならない。『老子』と『荘子』の関係は、ヘーゲルとマルクスあるいはヘーゲルとドゥルーズの関係のように、ヘーゲル・老子が同一性の論理で差異を規定するとすれば、マルクス・ドゥルーズ・荘子は差異で同一性を規定する。(강신주, 『노자 : 국가의 발견과 제국의 형이상학』, 태학사, 2004, 174~189쪽)したがって、老子の道教を「国家を初めて規定した哲学書」とみるとき、自由至上主義を定礎した思想とみなしうる。
  45. 180)功利主義の公利(公利)は、現下の学校教育が公利(功利)を追求するという意味の功利とは、共同体の利益という点で異なる。(「この世に学校を広く建てて人を教えるのは、やがて天下を大きく文明化して三界の事に付し、神人(神人)の解冤を解こうとするものであるが、現下の学校教育は、学ぶ者をして官吏・俸禄などの卑劣な公利にのみ陥らせるため、それゆえに局外で成道することになった」と告げられ、言葉を終えられた。『典経』教運一章十七節)
  46. 181)西教が初期から共同体主義的な性格を示しえたのは、ウェーバーが述べたように、予言者宗教としての原始西教が血縁関係を否定するという特徴を持っていたためである。聖書では「人の仇はその家族の者である。私は娘を母から、他の人をその父から、妻をその夫から引き離そうと来た(マタイ福音書10.34~39)」とする。この言葉はすなわち霊的共同体を優先するという言葉である。一方、東洋ではただ「孝」の違反のみが罪の根本となった。(김석근, 「유교 윤리와 자본주의 정신?-'베버 테제'의 재음미」, 『동양사회사상』, Vol.2 No.-, 동양사회사상학회, 1999, 219쪽)西教は誕生から他の宗教とは異なり、共同体を中心に遊牧的な形態を示した。今日、資本主義の物質至上主義を西教が代表するものと誤解するが、西教は遊牧民族から出た宗教で、「博愛」という教理どおり物質を施すことを核心とする。中世修道院の元祖となった聖フランチェスコや、現代カトリックの象徴的人物であるテレサ修道女は奉仕の化身であり、西教は「奉仕修行」という社会事業に積極的な伝統がある。今日、西教が資本主義の象徴となったのは、中間に東洋の儒仏仙の影響と帝国主義・資本主義との結託によって本流を忘却したためである。
  47. 182)東洋の世界観は時間の軸を一つの空間に表すため、時間と空間の軸が同時に現れる。たとえば、春夏秋冬と東西南北は同じ軸に現れる。時間の軸に従って連結される貯蓄—生産—流通—分配も、経済観や経済倫理と重なる。飲食文化のような場合も、西洋はビュッフェ式に空間的順序で食べ物が出て、中国はコース料理のように時間の順序で出るとすれば、韓国は膳の文化のように時空間が合わさった形態として現れる。建築様式もまた、韓国は庭園を春夏秋冬別に配置して時空間を同時に表す。(박용숙, 『한국의 미학사상』, 일월서각, 1990, 213~218쪽)
  48. 183)道教の逆説的待対性は、玄(玄)・一(一)・無(無)・道(道)という四つの互いに異なる概念で表現された。道教の待対流行もまた、自然の循環は天地之道、人間の循環調節作用は聖人之道として表示しうる。(김영주, 「노자사상,〈그림 천지지도〉의 새로운 해석」, 『동양사회사상』 Vol.20 No.-, 한국사회학회, 2009, 185~187쪽)
  49. 184)道教の待対性は、今日、西洋人文学を席巻した西洋の解体主義の元祖思想としても言及される。ウェスリングは、解体主義の大家デリダの哲学を「不完全な老荘哲学体系」とし、米国の著名な陰陽思想家であるグレアム(A.C. Graham)は、老子とデリダは「あまりに著しい類似性のために差異を見落とす危険がある」とまでいう。(김상래, 「노자의 해체주의적 사유와 윤리설의 특징」,『동양고전연구』Vol.42 No.-, 동양고전학회, 2011, 330쪽)今日、万物は解体され、マルクス主義もまた解体主義の一つとして言及される。解体主義は循環主義の別名といえる。万物を解体するということは、万物を循環的に眺めるということの西洋的表現といえる。
  50. 185)朱子は法家を功利主義と批判したという。儒教は法家の経世と、老子・仏教の修己の両面を折衷したという。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」, 『율곡사상연구 제11집』, 율곡학회, 2005, 45~46쪽)理想的な儒教が折衷可能であったとすれば、現実の儒教は法家へ流れた点を勘案すると、儒教を功利主義に近いといえる。
  51. 186)シュンペーターは、マルクス・ケインズ・新古典派など当時の経済学の大家が誰も注目しえなかった第三の価値である革新を価値の起源として見出し、若年にして一躍世界的な経済学者となった。革新は人間の役割が極めて強調された概念で、価値を作り出すのは、経済の基本三要素である労働・資本・土地のどこにも属さない技術であった。シュンペーター以後、資本主義は知識すなわち人間の人的資本を核心要素とみなすことになった。シュンペーターは、革新とともに、革新を実現させるもう一つの人間的価値である企業家精神を強調した。シュンペーターの革新と企業家精神もまた社会の構造的結果であるという批判もあったが、シュンペーターが左右両陣営が知らなかった新たな問題の枠を作ったことは否認できない。シュンペーターの伝記については、伊東光晴の『ヨーゼフ・シュンペーター』(박영호 역, 지식을 만드는 지식, 2004)がある。
  52. 187)当代の天才として著名であったヴェブレンは、ケインズ・シュンペーターすら発見しえなかったが誰もが知っている資本主義の秘密である「誇示消費」を、新たな経済価値の根源として把握した。ヴェブレンは、人間は救済予定の徴を得るために生産する合理的存在ではなく、他人に誇示するために消費する俗物的な存在であるということを経済の土台とする。ヴェブレンは、フロイトの無意識検閲のように隠そうとしていた経済学の偽善を脱ぎ捨て、赤裸々な真実を示した。ヴェブレンの誇示消費説は真実を暴露したが、別の疑問を生んだ。人間はなぜ誇示するのか、誇示消費はどんな結果をもたらすのか。誇示消費は、動機こそ問題があるが結果的には経済の循環をもたらすため、健全な誇示消費が必要であることを知らせてくれ、したがって経済は制度が決定するため、寄付制度・社会保障制度・独占禁止制度のような制度の改革を主張した。ヴェブレンはガルブレイスのような経済学者に影響を与え、ボードリヤール・バタイユなど贈与を経済の核心と発見した学者たちの経済学的根拠を作ってくれた。ヴェブレンの代表的著書には『有閑階級の理論』(토스타인 베블렌, 최광열 역, 박영사, 1983)がある。
  53. 188)ルネ・ジラールは、資本主義を生きる現代人が神棚に祀るように大切にする自分の欲望が、実は他人の欲望を模倣した模倣欲望であることを暴露して世界的名声を得た。当初『ドン・キホーテ』『赤と黒』などの文学評論家として出発したジラールは、以後、文化人類学と経済学にも模倣欲望理論を適用して大理論を構築した。フロイトが発見した無意識以後、無意識よりさらに衝撃的な模倣欲望理論によって、人文学の画期的な発展の起爆剤となっている。ジラールは『ドン・キホーテ』分析において、近代小説であるドン・キホーテは中世騎士の欲望を外面的中介で模倣し、スタンダールの『赤と黒』、ドストエフスキーの『罪と罰』などの現代小説では、主人公が相手と内面的に模倣して葛藤をさらに増幅させるとする。(르네 지라르, 『낭만적거짓과 소설적 진실』, 김치수 역, 한길사, 2001)模倣欲望は社会の暴力を呼び起こし、その暴力は犠牲羊を通じてのみ解消されうるとする。(르네 지라르, 『폭력과 성스러움』, 박무호 역, 민음사, 2000)キリスト教は、こうした犠牲羊メカニズムを初めて表面に現すのに貢献があるという。(르네 지라르, 『그를 통해 스캔들이 왔다』, 김진식 역, 문학과 지성사, 2007)資本主義において貨幣は犠牲羊のような機能をするといえる。ジラールはラカンとともに、現代人の欲望が他人の欲望であることを明らかにした中心人物である。ジラールとジラールの経済思想については、『ルネ・ジラールに依拠した経済論理批判』(김진식, 울산대학교 출판부, 2005)が研究されている。キリスト教は、犠牲羊制度を初めて明らかにしたという点で共同体主義を代表するといえる。ジラールの模倣欲望理論は、「人間のあらゆる欲望は誇示消費である」とするヴェブレンの欲望理論に正当性を提供する。
  54. 189)制度学派経済学は、塩野谷祐一の主張に従って、ヴェブレンなどの米国制度主義経済学を含むより幅広い概念として、ここで使用される。
  55. 190)バタイユは、モースの贈与論を発展させて贈与の一般経済理論を作った。バタイユが贈与の経済学を主張する理由は、生産の経済とは異なり、経済はエネルギー消費体系として、太陽が常にエネルギーを無償で供給してくれる供給過剰を解決するために絶えず消費することがより重要であるためである。バタイユは、消費と贈与行為が円滑でないとき世界大戦のような異常現象が発生するため、社会は贈与制度を絶えず作らねばならないが、現代社会は「利己的人間」仮説によって絶えず集めようとし、それが経済を危機に追い込むとする。バタイユの理論は、ボードリヤールの構造主義理論である記号価値論と、贈与経済論である象徴価値論に影響を与えた。バタイユは、20世紀後半の代表的理論家であるフーコーから「最高の知性人」という極讃を受けた。バタイユの著書は『呪われた部分』(문학동네, 2000)、バタイユの共同体主義についての案内書としてはジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』(인간사랑, 2010)がある。
  56. 191)塩野谷祐一の文化価値は、アリストテレスの共同体主義卓越性に基づく文化価値を主張する。ボードリヤールの象徴価値、ヴェブレンの誇示消費は、結局、アリストテレスの共同体主義卓越性に基づく文化価値へ統合されるといえる。(시오노야 유이치, 2002)
  57. 192)강신주, 2009, 382~385쪽
  58. 193)アダム・スミスと老子の自由放任主義は、三つの側面で互いに脈を同じくする。第一は、「国家」という形態は認めるが、社会は自生的な秩序によって運営される。第二は、再分配による人間の平等な生である。アダム・スミスは「個人の欲求を満たす一つの過程としての再分配」を語り、老子は「余る部分を減らして他人に与えることによって平等を追求」しようとした。第三は、他人との調和である。アダム・スミスはこれを同感と呼び、老子は調和と呼んだ。(구민희, 「아담스미스와 노자의 자유방임주의의 비교」, 『동양철학연구』 Vol.61 No.-, 동양철학연구회, 2010, 536쪽)
  59. 194)魯迅は、中国の根は道教にあり、これによって史書を読めば数多くの問題が自然に解決するとした。(황원민, 「세가지 도교 경제윤리」,『동서사상 제8집』, 동서사상연구소, 2010, 237쪽)
  60. 195)中国人の営利衝動は世人の周知するところであり、中国社会のあらゆる階級に遍在する富に対する積極的評価は、世界のどの国にも比較できないほど積極的である。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 297쪽)
  61. 196)中国の道教は唯一、教団道教として成立し、中国の農民抗争と軌を同じくしてきた。(와덕충, 서순장『중국종교사』, 조성을 역, 한울아카데미, 1996, 40~42쪽, 158~159쪽, 327~332쪽)今日、台湾・香港に残っている宗教は儒教ではなく道教である。台湾には道教寺院が日本の神社のように道の真ん中にところどころ配置されている。大きく見れば毛沢東の長征もまた中国道教の農民抗争伝統と軌を同じくするともいうとき、今日の中国の経済体制は道教資本主義と呼びうる。
  62. 197)ルネ・トマスは、中国の共産主義者がいまや孔子より老子をより信頼するという事実を正しく指摘するという。毛沢東は、共産主義の弁証法的世界観が中国で古代ヨーロッパより早く発生したとする。毛沢東の唯物弁証法は、古典的な中国陰陽説の弁証法と密接に関連しているように見える。毛沢東はマルクス主義の中国的あるいはアジア的形態を創造したのである。(양재혁, 「중국고전의 순환적 도와 모택동의 변증법」, 『現代中國硏究』, Vol.- No.-, 성균관대학교 현대중국연구소, 1992, 8-23쪽)
  63. 198)道教が共産主義にすら好評を受けているのは、中国の現実的で楽天的な性格とも関係があるが、修養書という常識とは異なり、何よりも国家の論理を最も明確にしているためである。(강신주, 2004, 105~113쪽)鄧小平の黒猫白猫論は、道教の実用主義的思考方式と関係が深い。
  64. 199)道教は始めからずっとシャーマニズムと混用され、民間で実用的で神秘的な方便として広く使用されてきており、その宗教性すら今日は世俗化してしまったのが実情である。道教は普通、中国の民族宗教という。(안관수, 「베버-테제에서 본 노자의 환경사회학의 해석학적 접근」, 『교육연구』Vol.- No.18, 원광대학교 교육문제연구소, 1999, 36쪽)
  65. 200)今日、大衆媒体のなかの道教は、東洋思想の神秘さとして商品化されていく趨勢があり、道教の本質的な姿を褪せさせる傾向があるという。(윤찬원, 「문명비판론을 중심으로 본 현대의 노자-도교 담론」, 『동아시아 문화와 사상8권』, 동아시아문화포럼, 2002, 24~25쪽)
  66. 201)経済正義は、平等観・社会観・正義観・組織の四要素になっているという。各宗教の経済的特性は経済正義と関連して考察しうる。
  67. 202)マテオ・リッチによる道教の影響は、主に宋明理学を通じた方法といえる。同じマテオ・リッチの資料を用いながらも、英国は主に古代孔孟儒学の経験論的思想を選好したとすれば、ヨーロッパ大陸は道家と仏教の影響を受けた宋明理学の理性主義を選好した。道教の影響は、したがって宋儒理学を通じて間接的に伝達されたといえる。(전홍석, 「근대 유럽 계몽주의에 대한 송유이학(宋儒理學)의 영향과 그 문화 철학적 의미」, 『동양철학연구』 Vol.57 No.-, 동양철학연구회, 2009, 304쪽)
  68. 203)経済と関連した現代倫理学は、方法論において個人/全体、志向価値において善(効用)/正(制度)を基準に、個人主義に該当するノージックの自由至上主義、ロールズの社会契約主義、方法論的全体主義を志向する功利主義とマッキンタイアの共同体主義に分けうるとき、道教は効用よりは個人の自由を重視する自由至上主義に近いといえる。(시오노야 유이치, 2002, 47~81쪽)
  69. 204)カルヴァンと同時代の人物で、経験論の創始者といわれるベーコンは、羅針盤・火薬・印刷術を極讃したが、それが中国に起源したかは知らなかった。14世紀から16世紀の300年にわたるヨーロッパのルネサンスは、中国文明がヨーロッパに伝播される時期と一致する。ルネサンス時代にイスラム文明と中国文明の合として始まったヨーロッパ文明は、マテオ・リッチの死後、中国の精神文明が入ってきて本格的に始まる。(황태연, 『공자와 세계』1권, 412~420쪽)
  70. 205)世界文化のうちでも最も肯定的財富観を持つ道教では、カルヴァンの思想のように、財富を増やすための倫理性を強調する。道教の代表的著書である『太上感応篇』は「禍福に門なし、ただ人が招き入れる」とし、道教の代表的倫理指針書である『功過格』は、人が日々の生活を反省してその善悪を日記式に記録することをいう。一年が過ぎれば、学生の成績を出すように、その年の統計を出す。(양창삼, 「도교와 한국 기독교와의 관계성에 대한 연구」,『민족과 문화』, Vol.2 No.-, 漢陽大學校 民族學硏究所, 1994, 408쪽)『太上感応篇』は宋代以後に出現した経典で、以後、儒仏仙三教を区分するのが難しいほど混在するようになる。今日、三教が混融したのは宋(宋)以後に起因する。清教徒の代表的人物である米国のベンジャミン・フランクリンは、実際に自分の善行と悪行を日記帳に記録し、今日のフランクリン・ダイアリーの嚆矢となった。
  71. 206)ウェーバーによれば、同じ肯定的財富観であっても、中国的財富観と清教徒の財富観は全く反対であった。西教は富の追求を猛烈に攻撃した伝統があり、清教徒でも富は贖罪の確証のための内面の組織化にすぎなかった。一方、中国の富は人格の象徴でもあった。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 302~303쪽)ウェーバーが西教と資本主義の関係についての分析で示したように、資本主義は道教のような肯定的財富観によって資本の蓄積が始まった。ウェーバーは、技術も立ち遅れ資源も相対的に不足していた西洋でなぜ資本主義が先に発展したのかという原因を探すうち、財産を救済の象徴とみなした西教宗教改革の中心であるカルヴァンのプロテスタンティズムの勤倹精神に注目するようになった。カトリックから分離して出てきたキリスト教は、教皇の権威を代替しうる救済の徴を探す方法が急務であり、その徴として社会構成員すべてが同意しうる物質的財貨が採択された。ひとたび財貨が救済の徴として登場すると、財貨に対する生産および技術は急速度に拡大された。資本主義初期の経済思想は、生産を拡大して救済の徴である財貨を蓄積することであった。財貨は商品を生産するために投与された労働となり、労働は救済のための行為として神聖視された。財貨は、個人的私欲のための手段というより、救済の証明のための禁欲的蓄積であった。
  72. 207)カルヴァンとルターの宗教改革は、論理的には一次方程式から二次方程式への転換であり、これは東洋思想との類似性とみることができる。宗教改革以前には、十戒を守れば罪が赦される一次的な構造であったとすれば、宗教改革以後は、「罪が赦された」という救済を自ら再びせねばならない二次的な構造となったのである。ルターの思想を儒教と比較すれば、ルターは肯定的二重構造(X²)を所有しているが、否定的二重構造(~X)²にはいまだ進めていない。X²(ルター)⊂X²∪(~X)²(儒教)。ルターは過ちを犯したことを過ちと考えはしたが、過ちを悔いないときを罪とみなす境地には入れなかった。(한태동, 2003, 146쪽)
  73. 208)カルヴァン主義とルター主義はエディプス構造を持つという。フロイトにとって息子はルター・カルヴァンの罪人、母は全知全能の神、父は律法を象徴する。(「라깡과 루터: 정체화와 노예의지 비교」,『한국조직신학논총』Vol.16 No.-, 한국조직신학회, 2006, 40쪽)
  74. 209)レーヴィットは、啓蒙主義とカルヴァン主義をいずれも西教終末論の世俗化とみなす。啓蒙主義は表面では西教を批判したが、形式的には西教の終末論、内容的にはギリシアの世俗主義を結合したという。終末論と啓蒙主義は、終末論的形式と決定論を共有する。西教の「恩寵」は哲学の「理性」に似て、西教の贖罪は哲学の啓蒙に似ていた。終末論的モデルの世俗化は「理性の道具化」と「極端な快楽主義」を招いた。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 93~94쪽)終末論を世俗化したカルヴァン主義は、啓蒙主義と同じ脈絡とみることができるが、中国の影響で世俗化が加速された。終末論は循環論の特定脈絡を見たものとみなされうる。ウェーバーが同じ世俗主義であってもキリスト教と中国を異なるものと見たのは終末論の影響であり、近代科学もまた終末論的前提が敷かれていることを表す。
  75. 210)황의서, 「루터, 칼빈, 웨슬리의 경제윤리」, 『신앙과 학문 16권 2집』, 기독교 학문 연구회, 2011, 293~294쪽.
  76. 211)김용환, 「막스베버의 종교·경제윤리」, 『호서문화연구12집』, 충북대학교 중원문화연구소, 1994, 155쪽.
  77. 212)이은선, 「칼빈과 청교도의 경제윤리」, 『한국개혁신학논문집 6권1집』, 한국개혁신학회, 1999, 142쪽.
  78. 213)ウェーバーの言う清教徒は、英国の清教徒(puritan)をいうとみるとき、カルヴァン思想は英国への影響が最も大きかったといえる。(이오갑,「칼빈500년」,『신학사상145집』, 한국신학연구소, 2009, 85쪽)
  79. 214)小国寡民と無為は、今日まで影響が持続している。今日、ガタリの生態哲学とヨーロッパ哲学を代表するドゥルーズの逃走線と通じるといえる。小国寡民と無為の結果である空(空)と公案(公案)は、器官なき身体と脱領土化とみなされる。(정형철, 「들뢰즈와 가타리의 노마디즘과 동양적 사유의 방식」,『한국비교문학학회』Vol.38 No.-, 한국비교문화학회, 2006, 176~194쪽)
  80. 215)カルヴァンとルターの宗教改革思想は、明の鄭和の艦隊がイタリアに到着して印刷術と紙・地図を渡した影響を否認できない。(개빈 멘지스, 『1434』, 21세기북스, 2010, 341~364쪽)カルヴァンの宗教改革は印刷術の発展とともに起こり、カルヴァンが基盤とした工商業は中国の鄭和から学んでいった会計原理と商業技術であった。(존.M.홉슨,『서구 문명은 동양에서 시작되었다』, 정경옥 역, 에코리브르, 2005, 160~165쪽)中国人に学んだ商業技術で金を稼ぐプロテスタントたちは、既存の信徒とは異なり、中国から伝わってきた印刷術と紙で作った自分の日記帳に日記を書きながら、自分の救済を確認せねばならなかった。(제레미 리프킨, 『공감의 시대』, 민음사, 2010, 329~337쪽)これもまた中国の士人の姿と類似している。
  81. 216)科学的な検証を志向する西洋科学は客観的検証を志向するため外向的であるとすれば、東洋は極めて内面的であるといえる。東洋の外向的思想家としては北宋の張載を挙げることができるが、その体系的な哲学は、のちにその弟子である程顥・程頤からも酷い批判を受けた。(위잉스, 『동양적 가치의 재발견』, 김병환 역, 동아시아, 2007, 90~91쪽)
  82. 217)道教では、関羽が関聖帝君という尊号以外に伏魔大帝(伏魔大帝)といって地獄神(地獄神)の長になっており、漢の高祖・秦の始皇帝など生前に帝王であった者がかえって彼の部下格に回されている。我が地では、いつからか分からないが財神(財神)として祀られ、とりわけ商人に崇奉された。(차계환, 「조선후기의 도교사상」,『동양학24집』, 단국대학교 동양학연구소, 1994, 362쪽)
  83. 218)中国道教の展開様相は、大きく三つで、識字層によって追求された神仙思想、教団的体系を備えた教団道教、民衆に流布された民間道教である。民間道教はとりわけ財物を大切にした。中世末期から、善い事をすれば財物を集めうるという勧善書(勧善書)が広く流布される。(김낙필, 「조선후기 민간도교의 윤리사상」,『한국문화12권』, 서울대학교 한국문화연구소, 1991, 427~435쪽)
  84. 219)차계환, 「조선후기의 도교사상」, 『동양학24집』, 단국대학교 동양학연구소, 1994, 362쪽
  85. 220)道徳経は黒さ「玄」を神秘に表現している。(谷神不死、是謂玄牝、玄牝之門、是謂天地根——谷の神霊さが死なないこと、これを「黒き牝」という。黒き牝の門、これを「天地の根」という。道徳経6章、『노자역주』, 김경수 편, 문사철, 2009)
  86. 221)小国寡民、使有什佰之器而不用、使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来
  87. 222)『論語』「衛霊公章」子曰 無爲而治者 其舜也與 夫何爲哉 恭己正南面而已矣(孔子曰く、為すことなくして治める者は舜である。何を為したか。己を恭しくして真っ直ぐ南面していただけである。)(マコーミック「司馬遷とアダム・スミス」, 85쪽, 『공자와 세계 2권』, 863~864쪽)
  88. 223)万物を絶対平等にする道は、ない所がないという(道無所不在説)。道は、道の観点から万物を見るのではなく、万物の観点から把握するためであるという。(조민환, 「장자의 평등사상」, 『도교학 연구 13권』, 한국도교학회, 1994, 183~184쪽)
  89. 224)限界効用論は、アダム・スミス—リカード—マルクスへつながる労働価値論がマルクスの共産主義理論へ発展すると、それに対応するために資本主義陣営が開発した価値論で、現代資本主義の公式価値論であり、経済学原論と中高校の社会教科書の最初のページを飾る代表理論である。限界効用論もまた他の理論と同様に、互いに比較・批判して受け入れてこそその価値が分かる。限界効用論において限界とは最後の財をいう。たとえば、10個のリンゴを食べたとするとき、限界財は9番目のリンゴではなくまさに10番目のそのリンゴをいい、したがって限界効用とは9番目のリンゴを食べる効用ではなく10番目のリンゴを食べる効用をいう。
  90. 225)アロー(Arrow)の社会選択理論も結局、道徳的制約があるとき最善の選択が可能であることを示す。(시오노야 유이치, 2002, 315~317쪽)自由至上主義資本主義は、老子のように消極主義的資本主義にすぎない。自由至上主義は危険・情報不確実性・非対称性などに対する理解が不足している。(같은 책, 402~403쪽)
  91. 226)ウェーバー・ポランニー・マルクスなどは、韓国の一部の改新教主義者のように、没歴史的で反科学的なヨーロッパ中心主義歴史観を主張してきており、いまだその余波が学界の主流として残っているのが、現代経済の危機を直視することを妨げる要素である。とりわけマックス・ウェーバーを指目する理由は、そのなかでも最も心を込めてヨーロッパ中心主義を構築した人物であるためである。(안드레 군터 프랑크(1998) 32쪽, 46쪽, 66쪽)
  92. 227)ノージックはロールズとともに、倫理学に経済学のゲーム理論を適用して倫理学を科学化させた代表的人物に数えられる。ロールズが社会契約主義をゲーム理論で論証して、1970年代に消えゆきつつあった社会正義理論の爆発的拡張に火種を点けたとすれば、ロールズに対する自由至上主義陣営の科学的対応者として現れた人がノージックである。ノージックはロールズの批判を数学的に防御して自由至上主義の合理性を論証した。(조나산 울프, 『(로버트 노직)자유주의 정치철학』, 장동익 역, 철학과 현실사, 2006, 99쪽)
  93. 228)ノーベル経済学賞受賞者であるフリードマンは、今日の主流経済学を代表するシカゴ学派マネタリズムの代表的理論家であり、ケインズ主義に対する代表的な批判家である。恐慌と景気循環の問題を労働者の低所得問題とみたケインズとは異なり、フリードマンは経済循環と恐慌の問題はただ通貨量の問題にすぎないとみる。(박주호, 『화폐금융분석』, 학문사, 1999, 72쪽)
  94. 229)ノーベル経済学賞受賞者であるハイエクは代表的な市場主義者である。ハイエクは、社会主義が宣伝煽動によって発展していく途中で資本主義は対応しないことによって価値が疑われたとし、資本主義の本質は自由への宣伝煽動であるとして市場主義理論を率いた。(기 소르망, 『20세기를 움직인 사상가들』, 강위석 역, 한국경제신문사, 2003, 292쪽)
  95. 230)강신주, 2009, 160~173쪽
  96. 231)器局(器局)主義とは、大きなものを得るために小さなものを捨てる態度で、民間道教が財物を崇拝した一方、老荘系列の道教は大きなもののために小さなものを貪らなかったが、結局、財富を大切にする点は同じである。(심백강, 「동양고전에 있어 경제사상」, 『정신문화연구 36호』, 한국학중앙연구원, 1989)
  97. 232)ユダヤ教からキリスト教へつながってきた「契約」という概念は、近代に入って重要な政治的原理として登場する。社会契約論では、個人が自己の所有と安全を保護されるために社会を形成したため、契約が遵守されえない状況であれば破棄される。歴史的に実際にこうした契約が成立したのは、米国の建国当時だけである。重要な点は、契約を結びうる主体の条件が定められているという点である。ただ理性的な主体だけが契約を結びうる。社会契約主義は近代の民法と刑法に重大な影響を及ぼした。(나카야마 겐, 『사고의 용어사전』, 북바이북, 2009, 197~201쪽)社会契約が生まれるときから定まり、可変的で縁起的であるという点で、社会契約主義は仏教と通じるといえる。
  98. 233)仏教は、いざ資本主義の始まりとなったという西教よりはるかに経済についての言及が多いという。これは、仏教が初期の新興工商業者の支持と後援のなかで発展したことと無関係でないように見える。(윤성식, 「시장자본주의 대안으로서의 불교자본주의 연구」, 동국대학교박사과정, 2010, 53~54쪽)
  99. 234)ウェーバーは仏教が本質的に反禁欲的であるという点をよく指摘し、ブッダの中道観を高く評価する。ウェーバーは仏教を主知的救済宗教といって、極めて優れた貴族的な知識人救済論として評価する。仏教は儒教とは異なり、徹底して世俗逃避的で非政治的な性格を持っているにもかかわらず、むしろ逆説的にそのためにインドのカースト制度を清算する民主的な宗教性を持つことになったという。(김용정, 『과학과 불교』, 석림출판사, 1996, 240~241쪽)
  100. 235)仏教の基本原則は、自利利他、分かち合いと回向の菩薩経済理念を提示しているという。(박경준, 「자본주의와 빈곤, 그리고 무소유」, 『불교평론 제6권 제2호』, 불교평론사, 2004, 51쪽)
  101. 236)ヨーロッパの中世にもすでに「菩薩」という言葉が「ヨサファト」という言葉として登場し、「バラームとヨサファト」という最も人気のある物語の一つであったという。マテオ・リッチは、仏教の地水火風と輪廻説はギリシアの四元素説とピタゴラスの学説を模倣したものであるとしたという。(이동희, 근대 독일 철학자의 대립적 불교이해와 수용, 『헤겔연구』, Vol.29 No.-, 한국헤겔학회, 2011, 202~205쪽)仏教が哲学的に本格的に深刻に論じられたのは、典礼問題をめぐる論争に仏教も関連していたため、マテオ・リッチを起源とみることができる。マテオ・リッチは『天主実義』第5篇で六つの項目を挙げて輪廻説に対する反論を提起する。また殺生戒についても、十戒にある「人を殺すな」は輪廻説に立脚したものではないことを述べている。(히라카와 스케히로, 『마테오 리치』, 노영희 역, 동아시아, 2002, 471~481쪽)
  102. 237)カントが仏教の影響を直接受けたかは確実でないが、仏教がカント当時にすでに多く伝播していたことは事実である。カントの仏教についての言及は、カントの地理学講演のなかに発見される。(이동희, 같은 글, 206쪽)義務主義的倫理論がヨーロッパではカントから起源するということも、カントと仏教の関連が重要な理由である。社会契約主義はユダヤ教の神との契約から出現したが、社会契約主義の義務論的倫理はカントから起源するためである。カント以後、ドイツの哲学者は仏教に対する関心を表現し続け、ドイツ観念論は仏教との類似性が言及されている。
  103. 238)金鎮は、「カントが仏教の影響を直接受けた」というヘルムート・グラーゼナップの意見を批判する。カントと仏教の共通点は、影響史的な意味よりも、その実質的な思考の枠において共通する。(김진, 『칸트와 불교』, 철학과 현실사, 2000, 19~21쪽)
  104. 239)신승철, 「칸트의 도덕철학의 논리적 구성과 들뢰즈ㆍ가따리의 비판적 계승」 『철학·사상·문화, Vol.4』
  105. 240)김진, 같은책, 232~234쪽
  106. 241)ショーペンハウアーはカントの仏教批判に反対し、むしろカントを批判する。ショーペンハウアーは「物自体は認識しえないものである」とするカントを批判し、カントの物自体を意志として解釈して、物自体は仏教のように「苦(苦)」であるとする。(이동희, 근대 독일 철학자의 대립적 불교이해와 수용, 『헤겔연구』, Vol.29 No.-, 한국헤겔학회, 2011, 215~218쪽)
  107. 242)ニーチェによれば、仏教の教えのなかで「エゴイズム」は「義務」となる。なぜなら、仏教の教えは「精神的関心を厳格に個人に還元することによって」、西欧形而上学によって強調された過度な「客観性」と、これによる「精神的疲労」、そして「自己の個人的関心の弱化」「自己中心の喪失」に反対して闘争するためである。ニーチェは、人間の運命と自身の解放は、いかなる祭司の信念あるいは偶像にかかっているのではなく、彼自身の手にかかっているとする。いまや自己救済の宗教の教師、ブッダが登場する。(이동희, 같은 글, 220~221쪽)ニーチェは、カントの義務主義を完成する判断力批判の完成者として言及されもする。自由主義が社会契約主義へ進行する過程を、ニーチェのこの文はよく示す。
  108. 243)윤성식, 「불교 자본주의로서의 연기자본주의에 대한 연구」, 『한국선학28권』, 한국선학회, 2011
  109. 244)박경준, 「생산과 소비에 대한 불교의 기본입장」, 『한국불교학18권』, 한국불교학회, 1993, 141쪽.
  110. 245)이재창, 「불교의 사회경제관」,『불교학보 제10집』, 불교문화연구소, 1973, 128쪽 * 박경준(1993), 142쪽에서 재인용
  111. 246)윤성식, 「불교는 자본주의를 어떻게 보는가」, 『불교평론44호』, 2010
  112. 247)比丘たちよ、世には三種の人々がいる。何が三か。盲人、片目だけの人、両目を持つ人、これが三である。
  113. 248)(박경준, 2004, 44쪽)無所有を主張する小乗仏教に比べ、大乗仏教が所有を認めたのは布教の次元でやむをえない選択であったとウェーバーは述べる。小乗仏教から大乗仏教への転換は、阿頼耶識のような唯識仏教の登場も説明される。平信徒が渇望したのは涅槃ではなく極楽であったためである。大乗仏教がここまで発展すると、その次の発展段階なく停止した。世親が最後の菩薩となったのである。(유승무,「베버의 대승불교 해석에 관한 비판적 이해」, 『중앙승가대학논문집』Vol.5 No.-, 중앙승가대학교, 1996, 299~304쪽)
  114. 249)박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」,『한국사회』Vol.7 No.2, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 51~52쪽
  115. 250)一陰一陽これを道という(一陰一陽之謂道)は平和の論理である。弁証法は対立物——正(正)と反(反)——の実在性を否定するが、一陰一陽論は対立物の実在性を認める。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 165쪽)
  116. 251)易学は対立物を矛盾の関係として理解するのではなく、感応による相成の関係として理解する。これは我々に「極端を避けよ」という最適の観念と、「来るべき不幸を予め備えよ」という予防の教訓を提示する。(이상익, 같은 책, 352~353쪽)
  117. 252)仏教と天文学は循環的思考力が要求される共通点がある。天文学と仏法は精密な答えを探すのではなく可能な答えを探す。(이시우, 「천문학에서 본 불교 우주관」, 『淨土學硏究』 Vol.14 No.-, 한국정토학회, 2010, 143쪽)
  118. 253)仏教の国家観は、平等主義・平和主義・民主主義・人間主義を挙げることができる。(김희오,「불교의 국가관」, 『불교에서 본 인생과 세계』, 홍법원, 1988)
  119. 254)「王の国家は略奪と蹂躙によって苦境に陥っています。所々に強盗が跋扈して村や都市を略奪するため、安心して歩くことができません。このような状況で新たな税を徴収すれば、王は過ちを犯すことになりましょう。あるいは王はこうお考えかもしれません。『地位を奪ったり、追放・罰金・拘禁または死刑に処したりすることによって、犯法者をなくしうるであろう。』しかし、彼らの放縦はそうしたからといって満足するほどに終息することはできないでしょう。処罰を受けなかった残りの人々は、依然として国土を乱すでしょう。ゆえに、このような無秩序を徹底してなくす方法はただ一つしかありません。王の国土で牧畜と農業に従事する人には誰にでも食糧と種子を提供なさい。王の国土で商業に従事する人なら誰にでも資金を提供なさい。王の国土で官職に従事する人なら誰にでも食糧と賃金を提供なさい。そうすれば民は自分の仕事に専念して国土を蹂躙することがなくなり、王の権威は日ごとに強くなりましょう。そして国家は静かで平和であり、国民は互いに楽しんで子供を腕に抱いて踊り、幸せに、大門を大きく開けて生きていくでしょう。」王はこの言葉を受け入れた。(『長阿含経』1集、Diga-Nikaya, Ⅰ、박경준, 2004, 48쪽에서 재인용)
  120. 255)John Rawls, A Theory of Justice (Cambridge: Harvard University Press, 1973), 78∼82쪽。박경준(2004), 48쪽에서 재인용。
  121. 256)ブッダが究羅檀頭のために大祀法(大祀法、大いなる祭祀を行う方法)を演説。出家の功徳を示現したもの。バラモンがすぐに牛などを放ち出家して戒を受けたもの。長阿含15に収録されている。(보련각, 한국 불교대사전)
  122. 257)정승석, 「분배문제에 대한 불교의 기본인식」(省潭 金羽泰교수 회갑기념논문집, 1992, 388쪽), 박경준(2004), 50쪽에서 재인용
  123. 258)임송산 외, 「불교의 복지관」, 『불교에서 본 인생과 세계』, 홍법원, 1988, 265쪽.
  124. 259)仏教徒の生の究極的目標は解脱と涅槃である。したがって、解脱と涅槃へ衆生を導いてくれる仏法僧(仏法僧)三宝を恭敬することは、何よりも大切である。恭敬の心が深ければ、仏教の法輪がいっそう広く回りうるよう、僧と寺刹・仏教教団に対する経済的支援も惜しまないことになるであろう。それがまさに功徳田の教えである。次は報恩田である。恩に報いることは人間倫理の根本であり、恩の根本は父母である。したがって、父母に孝行し奉養することは必然的であり、真に孝を行う人はあらゆる人間関係も円満に維持していくであろう。三番目の福田は貧窮田である。貧しく困難な人々への布施は、結局、我々自身を助けることである。我々人間は皆が共に生きていく縁起的存在であるためである。釈迦如来は《増一阿含経》で「病者を世話することはすなわち私(ブッダ)を世話することであり、病者を看護することはすなわち私を看護することである。なぜなら、私はいま自ら病者を看護したいからである」と説く。(이도흠, 「돈에 대한 불교의 가르침과 역사적 전개」, 『불교평론 2009봄호』, 불교평론사, 2009)
  125. 260)ピエール・ベール(1697)、『歴史的・批判的辞典』。西洋哲学における仏教の影響はスピノザと関連する。スピノザは、とりわけ仏教を儒教と関連させて全く新たな方法で加工した人として現れる。(황태연 『공자와 세계』1권, 444~446쪽)
  126. 261)アダム・スミスは「一国民の富(富)は蓄積された資源ではなく毎年の生産物であり、その源泉は労働である」として労働価値論を立てた。(박경준, 「생산과 소비에 대한 불교의 기본입장」, 『한국불교학18권』, 한국불교학회, 1993, 146쪽)
  127. 262)『中阿含経2集(Majjhima-Nikāya, Ⅱ)』, 197~198쪽(박경준, 1993, 146쪽에서 재인용)
  128. 263)나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』, 동아시아, 2004, 162~166쪽.
  129. 264)仏教は最も循環に近い対称性思考を成しているという。仏教は、対称性思考の極致である空(空)を持っているため、万物の対称性と一致する。(나카자와 신이치, 『대칭성인류학』, 동아시아, 2004, 197~221쪽)
  130. 265)事物に執着せずに布施する「菩薩主義」では、対称性の論理が極限にまで展開された思考を見ることができるという。自然が純粋贈与であるとすれば、労働が贈与行為であるとするとき、仏教の労働は贈与としての労働となる。(나카자와 신이치, 『대칭성인류학』, 동아시아, 2004, 197~221쪽)
  131. 266)仏教の経済活動に対する原理原則は、自利利他、分かち合いと回向の菩薩経済理念を提示しているという。(박경준, 「자본주의와 빈곤, 그리고 무소유」, 불교평론19호』, 만해사상실천협의회, 2004, 51쪽)
  132. 267)西洋の代表的仏教経済学者とみなされる生態主義経済学者シューマッハーは、「西欧物質主義(膨張主義)の背景が放棄され、その場に仏教の教えが入れば、いかなる経済法則が現れ、『経済的』または『非経済的』という概念の定義がどんな姿を帯びるか」を問うた。仏教では、自分が1ウォンを得るために1ウォンの成長を望む人の魂胆は、実は虚偽であり、他人の1ウォンを持ってくる分配を忘却した主張である場合が多いという。(E.F.슈마허, 『불교경제학』, 대원정사, 1988, 박경준, 「초기불교에서 본 이데올로기 문제」,『불교학보 30권』, 불교문화연구원, 1993, 238쪽에서 재인용)
  133. 268)仏教は、高等宗教のうち唯一「野生の思考」と一致する、最も高度に発達した野生の思考であるという。仏教は、対称性の原理である贈与の原理が最後に完成される分配の宗教といえる。(나카자와 신이치, 『대칭성 인류학』, 동아시아, 2004, 180~193쪽)
  134. 269)仏教は社会契約主義に比べて、正義よりは純粋に平等観に立脚した義務をより強調する。(김항배, 『불교와 도가사상』, 동국대학교 출판부, 1999, 336~339쪽)
  135. 270)시오노야 유이치 (2002), 20쪽
  136. 271)春秋時代は各国が角逐を繰り広げる時代で、したがって富国強兵が切実に要請される時代であった。孔子の経済思想は、富民思想・節倹思想・均分思想に区分しうる。(이영찬, 「공자의 경제사상과 노동관」,『한국학논집』 Vol.38 No.-, 계명대학교한국학연구소, 2009)富民思想・節倹思想・均分思想は、最大多数の最大幸福を追求する功利主義と脈を同じくするといえる。
  137. 272)孔子の労働観は主に為政者の労働について語り、庶民の労働について直接言及した場合はまれであった。孔子の労働観は、生産労働を根本とみて交換労働を末葉とみなし、特定の労働よりは超人格的労働を重視し、正義に従う倫理的労働、要約すれば中和的労働観を持ったといえる。(이영찬,「공자의 경제사상과 노동관」,『한국학논집』 Vol.38 No.-, 계명대학교한국학연구소, 2009, 102~106쪽)
  138. 273)儒教資本主義に対する反論も多いが、主に儒教の功利主義的性格よりは非自由主義的性格を根拠として提示する。李相益は、儒教の財富観が近代的効率の観念を否定し、競争的体系を導入せず、流通を通じた利益の追求を嫌悪するため、「儒教資本主義」という言葉は成立しないとする。(이상익,「儒家의 경제사상과 儒敎資本主義論의 타당성 문제」,『철학』Vol.66 No.-, 한국철학회, 2001, 34~35쪽)しかしこれは自由主義に妥当なだけで、富国強兵という儒教的功利主義には妥当でない。倫理と経済のうち倫理を優先すれば経済が発展する循環的関係があるためである。
  139. 274)뚜웨이밍(2005), 『동아시아 문제와 시각』(문학과 지성사, 1995) 372~375쪽.
  140. 275)森嶋通夫(森嶋通夫)は『続・英国と日本』において、英国の資本主義を新教資本主義、日本の資本主義を儒教資本主義といえるとした。
  141. 276)함재봉, 『탈근대와 유교』, 나남, 1998
  142. 277)最初の儒教資本主義についての研究は、多様な角度からアジアが世界経済を主導するに至った背景を説明する。しかし、初期の研究はどの研究も「アジアが西洋に主導権を譲ったのは150年も経っていない」ことを言及しない。こうした研究は1997年のアジア諸国のIMF危機によって一瞬にして消えた。(안드레 군터 프랑크, 『리오리엔트』, 이산, 2003, 20~21쪽)
  143. 278)김태만, 「아시아경제의 성공과 좌절」,『국제해양문제연구 12권』, 한국해양대학교, 2001, 11~12쪽
  144. 279)アダム・スミスは「中国が世界の経済中心である」と表現した最後の時代の学者であるという。以後、西洋は一様に中国を非難する論調に変わることになる。(안드레 군터 프랑크(1998), 『리오리엔트』, 이산, 2003, 71~73쪽)
  145. 280)マンデヴィルは、西洋でアダム・スミスより先に「個人の利益を追求することを非難する偽善的な道徳」を批判して、その後のヒューム・アダム・スミス・カントなどに大きな影響を及ぼし、今日の新自由主義の元祖となった。今日、自由至上主義の元祖はアダム・スミスよりマンデヴィルであり、アダム・スミスはむしろマンデヴィルを批判する。(버나드 맨더빌, 『꿀벌의 우화』, 최윤재 역, 문예출판사, 2010, 5~7쪽)マンデヴィルもまた当時の偽善を批判したのであり、今日の経済思想にマンデヴィルの貢献も大きいといえる。
  146. 281)儒教が持つ発揚性の力を、神聖な儀式を通じた人間共同体の力であるmagic power(呪術の力)ともいう。(허버트 핑가레트, 『공자의 철학』, 서광사, 1993, 21~42쪽)
  147. 282)英国産業革命当時の鉄鋼生産量は6万8千トンにすぎなかったが、中国は11世紀後半にすでに7万トンを超えていた。(김승욱 「동양의 정체(停滯)원인에 대한 일고찰」,『경제논문집 15호』, 중앙대학교 경제연구소, 2000, 238~239쪽)
  148. 283)ヨーロッパは19世紀中盤から、中国に対する劣等感を回復するためにオリエンタリズムの歴史歪曲作業を始める。ギリシアとローマがある日ヨーロッパ文明の祖先として登場し、中国は未開で貧しい国として叙述される。しかし、当時の指標と後代に来て明らかにされたように、ヨーロッパは中国に経済思想すら模倣している。(자이위중, 『국부책』, 더숲, 2010, 249~253쪽)
  149. 284)功利主義の共同体は、共同体主義の共同体とは性格が異なる。功利主義の共同体は、共同体主義の共同体のように福祉中心というよりは規範中心の生産のための人倫共同体といえる。李相益によれば、朱子は「百姓の恒産(恒産—一定の生業)を保障し、それを通じて百姓の恒心(恒心—常に変わらぬ心)を培う」ことを自らの使命の一つとみなし、儒教的理想は一言でいえば人倫共同体の実現といえるとする。(이상익, 「유교적 공동체」, 연세대학교 사회과학연구소,『사회과학논집 제38집 1호』, 2007, 22쪽, 30쪽)
  150. 285)儒家文化を代表する中国の伝統文化は、人の個人的な私利(私利)よりは共同体の公益(公益)を掲げて、天下が太平(太平)世界となることを祈願した。共同体というものは、まさに修身(修身)斉家(斉家)治国(治国)平天下(平天下)を成し遂げる単位としての意味を持つ。(안용진, 「공자의 경제 윤리에 관한 연구」, 성균관대학교 박사논문, 2007, 210쪽)儒教資本主義の功利主義的性格による効率性が、過去の日本資本主義を指称した儒教資本主義として世界の注目を受けたが、功利主義の限界のように、救済金融と日本の長期不況によって世間の関心から消えた。
  151. 286)孔子は知仁勇(知仁勇)を三達道(三達道)といって、儒教共同体を成す手段として提示しているという。「天下之達道五、所以行之者三、曰、君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友之交也、五者、天下之達道也、知仁勇三者、天下之達徳也、所以行之者一也」——『中庸』20章、天下に遍く通じる道は五つで、それを行うものは三つであり、君臣・父子・夫婦・兄弟・友を交わる五つは天下に遍く通じる道であり、知(知)・仁(仁)・勇(勇)の三つは天下に遍く通じる徳であり、これを行うものは一つである。これは、今日の経営学の大御所ピーター・ドラッカーが理論化に先頭立ったという知識経済基盤理論、すなわち革新を通じた価値創造と同じ脈絡といえる。(안용진, 2007, 217~218쪽)
  152. 287)신정근, 「공자의 인문주의 국가」, 『중국학보 44권』, 한국중국학회, 2001, 414~420쪽
  153. 288)儒教の国家観を自由民主主義と比較して「君主政」対「民主政」の視角に囚われているのは、正当な比較の視角となりえない。儒教と自由民主主義は道理と権利の観点から見るべきである。儒教において個人の自由は擁護されえない。ただ、人間が理法に自ら規律される自律性のみが美化されるだけである。しかし自由主義は、この社会の客観的理法というものは存在しないとみる。人間は本質的に自由な存在とみたのである。(이상익, 「유교와 자유민주주의」, 『정치사상연구』Vol.3 No.-, 한국정치사상학회, 2000, 21~23쪽)儒教の国家観を「人倫的共同体の実現」として共同体主義的視角で見る見解もある。(이상익, 같은 글, 33쪽)しかし、厳然と君主が存在し、無政府主義が理想である儒教において、共同体主義は限界がある。
  154. 289)メンツェル、アルブレヒトなど戦後ドイツの哲学者と経済学者は、オーストリアなど中部ヨーロッパで発展した「良好国家的福祉国家論」を「中国産」と断言する一方、デイヴィス(Walter Davis)、ヤング(Leslie Young)、ゲルラハ(Hans Chr. Gerlach)などは、ケネーの農業中心自由市場論およびスミスの産業中心自由市場論と「見えざる手」を極東産と断定する。(황태연, 「공맹과 사마천의 무위,양민철학과 서구 자유시장·복지국가론의 동아시아적 기원」, 한국철학회 추계학술대회, 2011, 66~67쪽)
  155. 290)시오노야 유이치 (2002), 384쪽.
  156. 291)社会学において儒教にアプローチする方法は三つある。一つはウェーバーの伝統に従う「資本主義との関係」に関するアプローチ、二つ目は支配イデオロギーとしての批判の対象、三つ目は「儒教を象徴体系として近代の問題点を補完する代案とみる」李英燦・洪承杓・崔奉永の研究がある。儒教を象徴体系として見るとき、陰陽はエネルギーでも生命活動でもない象徴体系である。陰陽は、ボードリヤールの言う象徴的交換を可能にする二分法的コードとなる。儒教の世界は象徴体系で満ちている。しかし、近代史の事例に見られるように、儒教が資本主義社会の合理化に伴う意味体系の喪失を補完しうるが、巨大叙事よりは小さな共同体での実現が効果的である。(최종렬, 「상징체계로서의 유교와 탈현대」, 『동양사회사상』 Vol.13 No.-, 동양사회사상학회, 2006, 161-201쪽)
  157. 292)儒家思惟において礼義は、政治と経済・倫理を連結する共通の象徴である。儒教はすなわち象徴政治で、すべての者が自発的に共通性を感じさせる共同体主義的な技術があるといえる。(임태승, 『유가사유의 기원』, 학고방, 2004, 36~38쪽)
  158. 293)量的差異が質的差異を決定するというマルクスの主張にもかかわらず、マルクス経済学は量的経済学の限界を脱しえず、需要者の側面を無視したという。マルクス経済学は生計費水準以下の生産体制に妥当であるという。(최의목 외, 『자연주의 경제』, 비봉출판사, 1993, 375~380쪽)
  159. 294)マルクスは「我々を人間にするのは想像力である」と述べたという。(데이비드 그레이버, 『가치이론에 대한 인류학적 접근』, 그린비, 2009, 201~202쪽)儒教は想像力に基づく創造を記号として生産する。
  160. 295)ボードリヤールは『生産の鏡』において価値を使用価値・交換価値・記号価値・象徴価値に区分する。使用価値・交換価値・記号価値のうち記号価値は生産の最頂上にある今日の現代の価値であり、これは「消費によって生産を中和させる贈与価値」である象徴価値として解消されねばならないとする。(강신주, 2009, 382~385쪽)
  161. 296)조민환, 「장자의 평등사상」, 『도교학연구13권』, 한국도교학회, 1994, 182쪽.
  162. 297)儒教と清教徒は、合理主義という外様とは異なり、内面は極めて対照的である。神との関係において、清教徒には極めて激情的な緊張対立が現れるとすれば、儒教は極小化させる。清教徒が伝統に対する神聖を否定するとすれば、儒教は極めて尊重した。清教徒が世界の改造を任務とみなすとすれば、儒教は適応を任務とみなした。(김석근, 「유교윤리와 자본주의 정신-‘베버 테제’의 재음미」, 『동양사회사상』Vol.2 No.-, 동양사회사상학회, 1999, 211~212쪽)
  163. 298)現世的な繁栄を追求する繁栄神学は、プロテスタンティズムの起源となったというカルヴァンのMeditatio Futurae Vitaeから見れば、非聖書的であるという。(윤광원,「존 칼빈의 Meditatio Futurae Vitae의 관점에서 본 번영신학」,『조직신학연구 12호』, 한국복음주의조직신학회, 2009, 63~64쪽)
  164. 299)弟子たちが一堂に集まって祈っていたところ、突然、天から激しい風のような音があって、彼らの座っていた部屋中に満ち、火の舌のように分かれるものが、各人の上にとどまった。
  165. 300)禁欲主義と金の不道徳さを強調するルターと、安息年制を肯定的に評価するカルヴァンの姿のなかには、社会主義や共産主義の理念も見ることができるため、清教徒倫理が資本主義だけを誕生させたとみるのは偏狭な主張でありうるという。(황의서, 「루터, 칼빈, 웨슬리의 경제윤리」, 『신앙과 학문 16권 2집』, 기독교 학문 연구회, 2011)
  166. 301)表面的には交換と生産を中心に冷静にのみ動くように見える資本主義が、実際には愛と経済を連結させるという。愛と経済は全体性を持つ一つの運動であるという。(나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』, 동아시아, 2004, 17~20쪽)
  167. 302)カルヴァン以前にすでに高利貸は、ユダヤ人のみならず西教人に至るまで、イスラム社会とは異なりヨーロッパ社会で流行していた。ジャック・ル・ゴフは、「煉獄」という概念が高利貸を認めるために作られた概念であるという興味深い分析を提供しているという。(베르나르 마비스, 2003, 55~56쪽)
  168. 303)西教は、聖書やマリアとともに対称性の論理を神の本質に編入し、不条理を論理化させて作動する特異な一神教であるという。(나카자와 신이치 ,『대칭성 인류학』, 동아시아, 2004, 116~118쪽)
  169. 304)経済の流通が富を増殖させる資本主義の秘密を研究することが、経済学者の主要な任務であった。価値は最終的に贈与を通じて、労働・貯蓄・革新で生産された価値が実現され増殖される。(나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』, 동아시아, 2004, 134~142쪽)
  170. 305)プロテスタンティズムを資本主義精神の起源としたウェーバーの言葉は、事物の一面のみを指摘した。資本主義経済の起爆剤はすでにカトリックで完成されていたという。最初の複式簿記が開発された所はカトリックであり、アダム・スミスが基盤としたケネーの経済表は、カトリックが作った複式簿記から出たという。贈与—純粋贈与—交換へつながる西教と、聖子—聖霊—聖父へつながる資本主義・西教は、同一の思考様式によって生まれた双子といえる。(나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』, 동아시아, 2004, 183~184쪽)
  171. 306)経済学は極めて群衆心理を必要とするため、人間の模倣欲望を重視する。経済学が表面的に模倣欲望を否定したのとは異なり、最も偉大な経済学者たちは模倣に中心的な役割を付与してきた。(베르나르 마비스, 2003, 164쪽)ジンメルは『貨幣の哲学』において、貨幣という超越的財貨が人間共同体の中心に立つことになった過程を分析する。それは、ルネ・ジラールが再び確認したように、貨幣は群衆を一時的にのみ統制しうる一種の犠牲羊であった。(베르나르 마비스, 2003, 244~246쪽)
  172. 307)アダム・スミスを輩出したスコットランド啓蒙主義の伝統によれば、市場経済は、人間理性の限界あるいは束縛されない人間(homo economicus)・規則に従う動物としての人間・自生的秩序と行動という三つの規則を持っているという。一方、共同体経済は、共同体に束縛される人間・善の優先的原則・共同体主義という三つの原則に従うという。(민경국, 「시장경제에 대한 공동체주의적 비판과 공동체주의적 경제질서」, 『경상논총17집』, 한독경상학회, 1998, 76~77쪽, 각주19)
  173. 308)시오노야 유이치, 2002, 408~411쪽.
  174. 309)未開人は、現代の人間のように人間と物理的自然を技術開発で媒介せず、文化(象徴と意味)を媒介に対面する。サーリンズの文化概念どおり、物質と精神の二元的対立ではなく、第三項として物質と精神の関係を新たに構成する。それはまさに「物質の人格化」であり、これは贈与経済と互恵性の過程で作動する超越的な霊的交通として説明される。(원용찬, 「경제학의 방법론적 비판과 문화경제의 패러다임」, 『문화경제연구』Vol.1 No.1 한국문화경제학회, 1998, 33~34쪽)
  175. 310)カール・ポランニーは、現代は経済に対する社会の優位性を確保することが急務であり、社会の優位性はすなわち文化の地位を回復することであった。共同体の象徴に従って、同じ貨幣の物理的存在であっても、伝達される社会的意味は異なった。現代貨幣は、支払手段・価値尺度・計算手段・富の蓄積手段・交換手段をすべて合わせた「あらゆる目的の貨幣」であるが、古代貨幣は特定目的に従って貨幣が異なった。(원용찬, 1998, 31쪽)今日、共同体主義者は、実際に象徴価値を現す寄付カードのようなクーポン制を実施しようともいう。
  176. 311)経済理論において象徴価値を担う霊(霊)的能力はますます強調されている。米国のハーバード大学経済学教授バローは、2003年以降から霊的資本(spiritual capital)の重要性を強調するという。(Barro and McCleary, 2003, 황의서, 「루터, 칼빈, 웨슬리의 경제윤리」, 『신앙과 학문 16권 2집』, 기독교 학문 연구회, 2011, 308쪽에서 재인용)
  177. 312)ビル・ゲイツは、人間の本性には私益追求と他人を世話する二つの心が同時にあるとする。企業が極貧層を救う創造的資本主義が資本主義の希望であるとする。(빌게이츠, 『창조적 자본주의』, 이콘, 2011, 23~24쪽)
  178. 313)現代の経済学者たちは、問題解決に答えが一つ以上であればこれを非科学的なものとみなして嫌う。一つしかなく予測可能な彼らの世界を破壊するためである。彼らは収穫逓減の原理に自らを縛りつけているという。(브라이언 아서, 『복잡계 경제학』, 김웅철 역, 평범사, 1997, 63-66쪽)収穫逓減原理は経済学の根本仮定であったが、ブライアン・アーサーは収穫逓増の原理を導入した。循環的経済学は収穫逓増・増産の経済学である。
  179. 314)민경국, 「시장경제에 대한 공동체주의적 비판과 공동체주의적 경제질서」, 『경상논총17집』, 한독경상학회, 1998, 68쪽.
  180. 315)マッキンタイア(1990)、서광조, 「공동체주의와 경제원리」,『경제학의 역사와 사상 제4호』, 2001.
  181. 316)(原文は空白。)
  182. 317)直線的思考方式からは「最大の論理」が出て、循環的思考方式からは「最適の論理」が出る。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 350쪽)
  183. 318)現代の経済・政治・社会体制は、資本主義・民主主義・社会保障の三要素になっており、この統合体を福祉国家という。(시오노야 유이치, 2002, 21쪽)
  184. 319)1000ウォンが貨幣の形態で銀行にあれば、支払準備率に従って10倍・100倍に大きくなりうる。貯蓄は動かなくても万物を循環させうる。