Ⅰ. 序論

Ⅰ. 序論(はじめに)

1. 研究の必要性

神を冒涜した罪により、ギリシア神話のシーシュポスは、永遠に岩山の頂へ岩を上げてもまた転がり落ちるという苦痛の罰に処せられたという。シーシュポスのように、極度に発達した物質文明のなかにあっても満足を知らない現代人の精神的苦痛は、現代人の経済哲学が儒仏仙・西教に由来しながらも、自らの存在だけでは問題を解決しえない自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義の枠に閉じ込められ、循環1)という方法によってその枠を抜け出せずにいることにある。とりわけ循環は、シーシュポスのように絶対者の助けなしには決して岩を山頂に上げることはできないという秘密を蔵しているからである。

宗教が倫理を発展させ、倫理が経済を発展させるという宗教と経済の好循環を信じない現代人は、経済思想が宗教に起源したことを久しく忘れている。2)しかし、宗教が経済発展の障害になるとして宗教を無視した近代以降、実質的な経済はかえって後退し、3)人間はウェーバーの言う直線的合理化という「鉄の檻」に閉じ込められるに至り、4)経済思想はすなわち宗教思想であるとしたウェーバーの主張が再び注目されている。5)実際、今日、韓中日の東洋三国が世界経済を主導するに至り、経済と倫理のうち倫理を優先する儒仏仙の循環的経済思想が、むしろ経済発展の原動力として浮上している。6)

ウェーバーが述べたように、宗教は時代の経済的危機を克服してきた。7)東洋の代表的宗教である儒教・仏教・道教と、西洋の西教(西教)8)は、いずれも文明の枢軸時代と呼ばれる鉄器時代への転換期に、経済体制の変化に対応する思想体系として、王室と基層民衆の呼応のもとに発展してきた。9)今日、経済発展の原動力である宗教がかつて経済発展の障害とみなされたのは、宗教自体の問題ではなく、世界経済が相互に交流して規模が大きくなったにもかかわらず、宗教は相互の循環がなされず、互いに衝突したためである。10)宗教が互いに衝突する新たな状況において、人類は、宗教が経済問題を解決していた過去の循環の知恵を活かして諸宗教を相互に循環させる力量を発揮できず、既存の宗教を廃棄してしまうという過ちを犯してしまった。11)

宗教を遠ざけた現代人は、ウェーバーが予言したとおり、事物がすべて直線的に12)合理化される鉄の檻に閉じ込められ、経済はいっそう困難になった。そのなかで、儒仏仙の伝統が強い韓中日の東アジア三国の経済的発展は、儒仏仙と西教の経済思想の長所を統合して経済と倫理を循環させうる新たな宗教の出現を期待させるに至った。13)

「マテオ・リッチ(利瑪竇)が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」14)とする西洋経済学の東洋的淵源と、15)「金は循環の理によって生じ、用いられる物である」16)という、循環性によって特徴づけられる大巡思想の経済観は、儒・仏・仙と西教の長所を統合して、経済と倫理の新たな循環的経済観が可能であるとする。大巡思想に現れた西洋思想の東洋的淵源によれば、西教は東洋の儒・仏・仙と結合して個人と共同体の葛藤を解決する西洋の経済倫理となり、倫理と経済のうち倫理を優先する東洋の循環的経済観は倫理と経済の葛藤を解決するため、個人と共同体・経済と倫理の循環性を通じて儒・仏・仙と西教の衝突を解決できるからである。

経済学と倫理学の相互循環についての主張は古くからあったが、倫理学と経済学の基盤となった儒・仏・仙と西教が循環的関係にあるという主張は、大巡思想が初めてである。大巡思想は、経済と倫理が循環するのみならず、個人と共同体もまた循環関係にあるため、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸から生じる経済問題はすべて循環的方法によって解決しうるとする。「金は循環の理17)によって生じ、用いられる物」という意味のなかには、第一に、万物が天命(天命)によって生じ、各自の必要に応じて使用されるという循環論的分配倫理が込められているのみならず、第二に、儒仏仙と西教に基づく経済思想もまた内部的に循環するという意味が含まれている。

今日の経済問題の核心軸は個人—共同体、倫理—経済といえるため、循環の危機を具体的にみると、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸に従って四つに区分される。第一に、個人—経済の側面における経済動機崩壊の問題18)、第二に、個人—倫理の側面における経済倫理の失踪、第三に、共同体—経済の側面における資本主義—共産主義という体制の問題19)、第四に、共同体—倫理の側面における、ますます深刻化する環境危機の問題である。

[図1.1] 現代の経済問題

インターネットは世界を、万人が互いに共感する共感の時代20)にしたが、むしろ技術の発達によって一つのウイルスが世界全体のネットワークを崩壊させる今日、循環の麻痺による経済危機は、過去の経済危機とは比較にならぬほどその規模と余波が日ごとに深刻化し、人類は日常的な経済崩壊の危険に晒されている。東洋宗教では早くから、経済と倫理のうち倫理を優先すれば経済を生かしうるとする。「経済(経済)」という語の起源と、東洋的思想の精髄である『大学』では、経済と倫理の相互循環を強調している。東洋の「経済(経済)」とは、「世界の経緯(経緯)を立てて民を救済(救済)する」という「経世済民(経世済民)」の略21)であり、『大学(大学)』では「徳(徳)は本であり、財(財)は末である(徳者本也 財者末也22))。本を外にして末を内にすれば、民を争わせ、奪うことへと導く(外本內末 爭民施奪)。このゆえに財が集まれば民は散じ、財が散ずれば民が集まる(是故財聚則民散 財散則民聚)23)」として、倫理を優先してこそ経済の循環を再生しうるとする。今日の世界経済は、「経済(経済)」の定義および『大学(大学)』とは正反対に、受け取るばかりで与えない一方的な経済論理によって循環の危機に直面するに至った。

西洋経済学において、個人と共同体の循環問題は、今日「囚人のジレンマ」のようなゲーム理論に基づく行動経済学に答えを求めている。24)行動経済学において経済の循環を回復させる方法もまた、個人と共同体の優先順位の交替である。「囚人のジレンマ」とは、二人の囚人が捕らえられ、双方に「相手より先に白状すれば罪を軽減する」という条件が与えられたとき、囚人がいかなる判断を下すのが最も賢明かを研究する学問である。囚人のジレンマを研究する行動経済学では、両者とも白状しなければ皆に有利であるが、両者とも白状するという最悪の決定に陥りやすく、今日の市場経済はまさに囚人のジレンマのように不必要な危機を経ており、協同を通じて最悪の危機状況を脱しうるとする。25)とりわけ囚人のジレンマは、状況が反復・循環するほどより賢明な判断が期待できるが、現実は逆に現れているのが嘆かわしい現実である。

米国の世界的な資本主義経済批判家ガルブレイスは「経済は道徳という海の上に浮かぶ島である」とし、経済と社会倫理が衝突して新たな経済思想の出現なしには環境危機と人間疎外を解決できない今日、経済が社会倫理と無関係であるとするのは一つの幻想にすぎないとする。26)物理学・化学などと同じくノーベル賞に含まれ、あたかも物理学・化学のように実証的な科学として認められようとする経済学27)は、実は倫理学から出発した学問であるという。28)1998年ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、経済学は倫理学と工学の二つに起源するとする。29)ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』30)で言及したように、西洋資本主義は、財富の獲得が救済の徴であるとするカルヴァン31)の予定説32)に由来した。資本主義は倫理学から生じたのみならず、宗教に起源した。33)

行動経済学が提示する社会と個人の循環問題に対する解法は、明確な結論は導いているが、実際に人類が発展させてきた遺産を盛り込むことはできない。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』34)で示したように、社会と個人の循環問題は、伝統的に宗教と経済の関係についての経済—宗教—倫理学的研究においてより深く扱われてきており、具体的な答えを提示しうる。

循環は、経済と倫理の諸問題を解決するポストモダニズム的な解決方法である。35)今日、循環的経済観は前近代的経済観と誤解されるが、36)自然科学において循環は、自然が証明したとおり、万物の長所を最大限に活かして最も効果的に作用させる方法であるという。アインシュタインが円を通じてニュートン物理学を相対化し難題を解決したように、循環は互いに相反する直線運動を和解させる、一段高次の運動である。37)アインシュタインの循環的世界観においてユークリッドの数学がすべて書き改められたように、38)科学技術の発達によって循環となった世界では、経済学もまた循環的に書き改められる。倫理と経済の循環は経済学において最も重要な要素であり、今日、改革志向が消え失せたのは、経済循環に対する信念がなくなったためであるという。倫理道徳を金科玉条としてきた韓国においても、今日、大統領や宗教者が冬季五輪招致のような文化的イシューの経済的効果をテレビで臆面もなく語っているのは、今後の韓国経済の発展のためには危険なことである。

倫理と経済の循環が経済の核心である理由は、経済循環が今日麻痺してはじめて明確に現れるようになった。第一に、循環は微視的に経済発展の動機を提示する。循環が麻痺すると、安定を求めようとする人間の属性によって社会が極度に保守化し、発展が停滞した。「恒産(恒産)なければ恒心(恒心)なし」39)という孟子の言のように、今日まで循環的経済観を維持してきたアルジェリアの農民を調査していたフランス構造主義40)社会学者ブルデューは、循環的経済観が消えれば発展への意欲が消えることを発見し、現代資本主義の停滞の原因に対する答えを循環的経済観に求めた。41)

第二に、循環は巨視的に経済危機を治療する。循環は、西洋のラッセルのパラドックスのように、直線的な論理構造の最善の解答である構造と過程が解決しえない解答を提示する。血が身体全体を循環し、不足する部分のものを溢れる部分から補うように、循環は経済全体の効率性と底力を最大化する。今日、循環の麻痺によってもたらされた現代人の経済動機の喪失、道徳的葛藤、資本主義と共産主義の理念紛争と環境問題という経済危機に直面しており、経済危機は東洋の循環原理によって解決しうる。

経済観のみならず世界観においても、循環性は大巡思想のみの固有な特性ではない。循環思想は宗教の一般的な特性である。42)この論考で強調する大巡思想の循環性は、「部分の和は全体より大きい」とする複雑系科学のように、儒仏仙と西教のすべてが中心的な役割を果たす多元的循環性である。

また、既存の科学が循環論に基づかなかったからといって、循環性の科学が既存科学より優越しているわけではない。循環性の基礎となる陰陽の概念は、今日その科学性が大いに認められている概念であるにもかかわらず、ウェーバーが明らかにしたように、過去には多くの問題点を抱えていた。43)とりわけ陰陽思想に立脚して万物を象徴化する儒教の場合、「儒教の典憲」と名づけうるほどの問題を抱えていた。44)今日の大巡思想の循環的経済観は、過去の循環と陰陽が持っていた短所を克服して長所化した思想であり、他宗教より優越していると主張するものではない。45)

宗教では現実に現れる経済思想についての言及はまれであるが、あらゆる思想と同じく、経済において宗教思想の最終的な結論が集約されるため、後代の宗教ほど経済に関する思想が明確であるといえる。大巡思想には、経済と関連する宗教の思想が他宗教と比べて明確に言及されている。今日、循環的経済観は極めて包括的で複雑な理論を必要とする。各宗教の経済思想の長所を発展させた大巡思想の循環論的経済観を考察することにしよう。

2. 先行研究の検討

大巡思想の循環的経済観についての先行研究は、第一に、「利瑪竇が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」とする西洋経済思想の東洋宗教的淵源についての研究、第二に、「金は循環の理によって生じ、用いられる物」という大巡経済思想の循環的特徴についての理論、第三に、貨幣の循環性と宗教との相関関係についての研究から成る。

まず第一の、「利瑪竇が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」とする西洋経済学の東洋宗教的淵源についての代表的研究としては、46)西洋近代文明が中国に起源したとする西洋文明中国起源説と、経済思想は宗教に由来したとするウェーバーの研究を挙げることができる。西洋文明中国起源説は、18世紀中葉まではヨーロッパの常識であったが、18世紀中葉以降、歴史歪曲が始まり、最近になってようやく復元されつつある。代表的な学者としては、中国では朱謙之47)、西洋では従属理論家として有名なフランク48)、ギャヴィン・メンジース49)、ジョン・M・ホブソン50)、H・G・クリール51)、韓国では黄台淵52)、全洪奭53)を挙げることができる。また、道徳的根拠を喪失した西洋哲学の危機を孟子哲学とフランス啓蒙哲学との比較研究に求め、孟子と啓蒙哲学者の問題意識の類似性を示すフランソワ・ジュリアン54)らがいる。循環的経済観を明らかにするにあたって、まず西洋経済思想の東洋宗教的淵源を明らかにするのは、西洋の経済思想が東洋の宗教に淵源したことを明らかにすれば、経済思想が相互に循環することを証明しうるのみならず、グローバル文化のアイデンティティ危機の克服のためにも極めて重要な問題であるからである。55)

ウェーバーは、経済発展の土台であった東洋の宗教が西洋経済思想へと発展し、東洋の宗教が循環すれば宗教を通じて再びアジア的経済停滞を解決しうることは発見しなかったが、初めて経済思想がすなわち宗教思想であることを指摘した。56)カルヴァンは、実際にジュネーヴ57)で商業と高利貸に対する神学的正当化を世界で初めて行うことによって長老派の始祖となると同時に、現代資本主義の始祖ともなったという。58)当時イスラム教は高利貸を強力に禁じていたため、世界で初めて高利貸を認めたのは中国とインドであった。59)しかしカルヴァンは高利貸と安息年制度を認めた程度であり、60)実際に西洋の資本主義が本格化するのは、17世紀末、マテオ・リッチの死後、中国から伝わった儒仏仙の富国強兵策が伝えられた後であった。61)しかし、アダム・スミスまで中国の優越性を認めていた西洋は、ウェーバー以降、東洋を植民地化するオリエンタリズムの性格を現す。ウェーバーが実証主義社会科学を批判して創案した理念型(Ideal Type)と理解社会学は、西洋思想の東洋宗教的淵源を否定するのにうってつけであった。62)

ウェーバーが資本主義の始祖をカルヴァンとしながら明らかにしなかったのは、西洋近代文明の東洋起源である。実際、ウェーバーとは異なり、黄台淵は、西洋が決定的に資本主義体制を発展させえたのは、西洋がカルヴァンによって財富観を自由主義的財富観へ転換したことよりも、当時最も富裕な中国を発見63)したためであるとする。64)大巡思想に現れるとおり、マテオ・リッチ(利瑪竇)は当時最も富裕な中国に地上天国を建設するために宣教活動を行い、65)マテオ・リッチとイエズス会宣教師たちが宣教活動のために翻訳した中国の経済思想関連の書冊は、中国の富裕な経済についての評判とともに、全ヨーロッパに「中国に倣え」ブームと新たな中国式経済思想を巻き起こした。66)カルヴァンの思想によってかろうじて伝統とは異なる自由主義的財富観へ転換したものの、一抹の躊躇を抱えていた西洋は、中国の自由主義的財富観67)に立脚した富国強兵の経済思想に魅了されると、残る躊躇を未練なく振り払い、中国の経済思想をさらに極端化させた。68)孔子と司馬遷の富国強兵策に倣い、アダム・スミスは、中国の道(道)に相当する見えざる手69)が人間の利己心充足の欲求を調節してくれるのだから、安心して財富を蓄えよと述べた。70)中国の経済思想は中国固有の循環性に立脚した循環的経済思想であったが、西洋化された経済思想は、出発こそ共同体主義に立脚した禁欲主義であったものの、蓄積された資本の力に押されて循環性は省略され、財富観と富国強兵に主に偏重するようになる。ただし東洋では、ウェーバーが説明したように、儒仏仙が経済発展の原動力であったのが障害要素へ転落したが、西洋ではむしろ西教と結合して経済発展の起爆剤となり、今日、韓中日で再び経済発展の原動力として復活するのである。

大巡思想の循環的経済観の妥当性を明らかにする第二の先行研究は、「循環の理によって用いる金」という貨幣の経済的機能についての、経済と倫理の関係についての研究といえる。経済倫理理論とは、経済は倫理と陰陽のように相互作用する関係にあり、経済倫理は人間が志向する徳・善・正義を中心に、自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義という四つの経済倫理形態があるとする理論である。アリストテレスの徳の倫理学から始まった西洋の倫理学は、西教の共同体主義的倫理学71)、カントの義務論72)的社会契約主義倫理学を経て、英国功利主義と自由至上主義に至る。73)貨幣の経済的機能もまた、個人—共同体、経済—社会という枠で分類しうるため、第二の先行研究は細部的に四つに区分される。

[図1.2] 宗教別の方法論および代表的研究者 74)

第一に、個人—経済の側面において貨幣と経済の根源が宗教にあることを明らかにする、経済と宗教の循環関係についての実証主義的研究としては、生涯にわたって宗教と経済の相互循環的関係を通じて現代社会学の方法論を確立したとされるウェーバーの研究がある。ウェーバーは、宗教は経済の周辺問題にすぎないとする唯物論に対して、宗教が経済の核心的鍵であることを証明する社会科学方法論を定礎した。75)貨幣の循環性についての実証主義的研究は、経済倫理的に自由至上主義76)として現れる。

第二に、宗教と経済の循環的関係を個人—経済的側面において実証主義的に明らかにしたのがウェーバーであるとすれば、77)個人—倫理の側面において、実際に経済と倫理が循環する価値論的な作用原理を現象学的な関係論によって明らかにしたのがジンメルである。78)ジンメルは、ウェーバーの理解社会学79)と対比される形式社会学80)という現象学81)的な関係論を開発し、ウェーバーの言う資本主義の始まりとなった西教倫理が、いかにして貨幣を神のごとく扱う資本主義へと変わっていくかを現象学的に示す。ジンメルの方法論を適用した宗教と経済の相互循環的関係についての研究を見れば、今日、ウェーバーの説明とは逆に、資本主義の根源となった禁欲的資本主義が今日では賭博資本主義へと流れてしまったことに対するベンヤミンの研究を挙げることができる。82)現象学的研究は、今日、貨幣が過去の神のようにいかにしてあらゆる交換の中心となり、人々がいかにして金に対する義務感を抱くようになったかを示す。貨幣の循環性についての現象学的研究は、経済倫理的に社会契約主義83)として現れる。

第三に、共同体—経済の側面において、ジンメルが明らかにした貨幣の現象学的機能が社会に構造的に適用される過程を明らかにしたのが、ボードリヤール84)とブルデュー85)の構造主義論である。ボードリヤールとブルデューは、個人的な側面では使用価値と交換価値としてのみ用いられていた商品が、共同体—経済の段階に来ると記号価値となり、今日の消費者は商品の記号価値を消費して生きていることを示す。貨幣の循環性についての構造主義的研究は、経済倫理的に功利主義86)へと発展する。

第四に、共同体—倫理の側面を見れば、構造化された資本主義が実際に動くときは関係中心的に動く87)といえるため、記号価値は他者へ贈与される象徴価値へと変わってこそ経済が循環するとする贈与論的経済学88)となる。記号価値論を主張したブルデューとボードリヤール89)は、記号価値は共同体を通じた象徴価値90)へと転化されねばならないとする。貨幣の循環性についての関係中心的研究は、マッキンタイア91)、マイケル・サンデル92)に代表される経済倫理的共同体主義である。93)

西洋の経済倫理のうち、とりわけ共同体理論は、資本主義の危機は共同体の喪失による循環危機にあるとする。循環論的経済観は、ジンメルが交換価値と効用価値が互いに循環することを明らかにしたように、四つの経済倫理形態である自由至上主義・功利主義・共同体主義・社会契約主義もまた循環することを明らかにする。

大巡思想の循環的経済観の妥当性を明らかにする第三の先行研究である、貨幣の循環性についての研究は、宗教の循環性と関連して、宗教循環論的世界観、東西洋の循環的経済観、大巡の循環論的世界観から成る。

第一に、宗教が相互に循環的関係に置かれていることを明らかにした研究としては、韓泰東94)の宗教論理についての研究を挙げることができる。韓泰東は、現代数理論理学を用いて、儒仏仙と西教はそれぞれ一つの論理構造として表すことができ、各論理は相互に循環的に関連していることを示した。また東洋の場合、韓中日が同じ儒教圏でありながら、それぞれ孟子(舜帝系列—性善説)、孔子(尭帝系列—性善性悪説)、荀子(禹帝系列—性悪説)の伝統を受け継いでいるため、今日の資本主義時代においても互いに異なる経済体制を維持するに至ったとする、韓中日における宗教と経済の関係についての李起東の研究がある。95)

第二に、微視的な循環的貨幣観は、巨視的には東西洋の多様な循環的経済観へと発展する。利己的人間を仮定して人間の利他的欲望を抑圧してきた古典経済学が偏狭であると批判されると、倫理と経済を同時に強調する代案的経済思想である循環論的経済学の重要性が注目されるようになった。カール・ポランニー96)、ブローデル97)のような社会経済学者は、経済は社会に基づいて現れる寄生的な例外現象であるとし、社会という共同体が崩れれば経済も共に崩れることを歴史を通じて証明した。98)人類社会学的には、マルセル・モースが、弱肉強食を主張する進化論的な資本主義経済学とは異なり、贈与が利己的交換よりも社会構成においてより根本的であることを示した。99)贈与論的経済学は、過去の西洋の三機能体系100)や東洋の三才(三才)思想101)、そして今日の複雑系経済学102)、生態主義的経済学103)、贈与論的経済学104)、共同体主義経済学105)が代表的といえる。

東洋では、循環論的経済観が易(易)の循環性に立脚して現れる。天地人三才(三才)として現れた易(易)の循環的経済観は、複雑系科学としての易(易)の発見とともに、諸宗教思想の関連性研究にまで進むようになった。蘇光燮は、相剋と相生の最小体系としての五行を証明し、106)それに後続する八卦についての証明が続いて、107)東洋の陰陽五行の科学性の基礎が整えられた。天地人の三才は五行へと拡大し、儒仏仙と西教の関係が四象(四象)的な関係として配置され、経済と関連する倫理思想もまた功利主義・共同体主義・社会正義論・自由至上主義という四象的な関係として要約されている。108)

易(易)の循環的経済観の具体的な形態は、西洋でも天地人と類似した三機能体系的な循環として現れた。40の言語を操るフランスのデュメジルは、印欧のあらゆる神話を分析し、印欧の神話は生産—分配—消費の三機能体系の循環構造になっていることを明らかにした。109)デュメジルの研究は、歴史に現れる経済循環のための重要な研究主題となる。歴史循環論はトインビーによって再び強調される。東西洋循環論の代表的理論である易(易)三才(三才)についての経済学的応用など、社会問題への適用可能性についての古典的研究としては、朴容淑110)、崔英辰111)の研究、最近の研究成果としては李炳哲112)の研究を挙げることができる。113)

第三に、循環論的経済思想としての大巡思想についての研究としては、生産と富の再分配を中心に近代性概念と関連した尹基峰114)の研究、真の近代性概念としての解冤と関連した李京源115)の研究、個人的怨恨と社会的怨恨の解冤様相と関連した高南植116)の研究を挙げることができる。

大巡思想において循環は総合的な研究方法論であり、既存の大巡思想研究は、大巡思想の循環論的性格を明らかにするうえで良い土台となる。大巡思想についての研究を全体的に見れば、既存の大巡思想研究は、新宗教としての側面、韓国宗教としての側面、東西洋統合の普遍的世界宗教としての側面から主に研究された。

まず、新宗教としての側面についての研究を見ると、主に旧韓末の社会経済的背景に応じた新宗教としての大巡思想を明らかにする。117)この論考と関連して注目されるこの分野の研究は、最近、大巡思想が活性化したのが旧韓末ではなく1980年代以降の韓国現代社会である点に着目し、大巡思想を単に旧韓末の新宗教とみるよりも、1980年代ポストモダニズムの次元で普遍的科学としてアプローチする研究である。118)大巡思想と多少の差異があるといえる甑山思想119)が主に新宗教の立場から研究される120)とすれば、大巡思想はポストモダニズムとも連携して研究が進められている。121)また、新宗教指導者間に交流があったことが研究されることもある。122)

次に、韓国宗教としての側面についての研究を見れば、大巡思想が道教の韓国的発展的形態であるという研究123)や、大巡思想を儒仏仙三教合一124)、民族宗教125)、心論(心論)126)と関連づけた研究が進められた。この論考と関連して注目されるこの分野の研究もまた、大巡思想を旧韓末の民族アイデンティティ回復のための新宗教とみるよりも、韓流ブームに見られるように、儒仏仙三合を韓国的文化フレームの一つとみなす研究127)である。

第三に、世界宗教としての側面についての研究を見れば、フロイトの精神分析学128)、教育学129)、ヘーゲル130)、人間学131)、共同体主義132)、平等主義133)、生態学134)、環境倫理135)などのような西洋思想との比較研究や、儒仏仙東洋哲学との比較研究が進められた。この論考と関連して注目されるこの分野の研究は、最近、東洋思想が哲学というよりは精神分析学や複雑系科学のような科学とみなされる点に着目し、大巡思想を東西洋思想と比較される韓国的科学および科学方法論とみなす研究である。

以上の先行研究を総合すると、大巡思想の循環的経済観についての研究は、西洋経済思想史の東洋的淵源についての推論と、儒仏仙と西教の経済思想の交流に基づき、循環的な方法で個別的な思想研究を総合する研究が必要であることを示している。

3. 研究の範囲と方法

今日、大多数の人々の経済観は、儒仏仙と西教に基づく自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義から抜け出せずに傷ついているが、その原因が、経済は循環であり、自動的に見える循環には絶対的存在の介入があってこそ可能であるという循環の属性にあることを知らずにいる。この論考は、循環が韓国的科学の固有特性であるという観点から、易の循環原理と類似したラカンの循環論と、複雑系科学に代表されるポストモダニズムの循環的方法論によって、既存の研究成果を総合し、既存の経済思想を循環的に治療しうる大巡の経済思想を研究しようとするものである。この論考は、大巡思想の循環的経済観を研究するにあたり、儒仏仙と西教の経済思想の衝突の解決方案と、循環的経済観の具体的な形態についての研究を重点的に行おうとするものである。

まずⅠ章では、研究の必要性と先行研究、研究の範囲と方法について略述した。現代の環境危機と社会危機は経済の循環を麻痺させ、技術の発達によってその麻痺はバタフライ効果のように増幅されて社会的危険を引き起こす。現代の危機は、伝統に基づく新たな経済思想の出現によって解決され、そうした思想として大巡思想の循環的経済観についての研究が要請されることを明らかにした。Ⅱ章では、経済・倫理・宗教と大巡思想の総体的な比較のために、諸宗教が経済倫理の一つの側面において制限的に経済問題を解決しようとしたことを明らかにした。諸宗教の経済思想は、生産・流通・分配・貯蓄という経済活動過程のうち一つの部分を中心に発展した。本章は、既存の宗教の経済思想と経済倫理を、財富観—貯蓄—道教—自由至上主義、分配論—分配—仏教—社会契約主義、労働観—生産—儒教—功利主義、財貨観—流通—西教(西教)—共同体主義へと再編し、既存の宗教の経済問題解決原理としての制限的循環性を考察する。

Ⅲ章では、宗旨に現れた循環的経済観を分析する。Ⅲ-1章では、大巡思想の循環論的特性を具体的に明らかにしようとする。東西洋の循環論は易(易)に代表されるため、まず易(易)の循環性の属性である待対(待対)・流行(流行)・中和(中和)・回帰(回帰)・増殖(増殖)を定義し、複雑系科学とラカンの循環理論を当てはめてその意味を考察する。易の循環性の属性を宗旨と経済に応用し、Ⅲ-2章では道教に相当するといえる待対的(待対的)自由至上主義財富観、Ⅲ-3章では仏教に相当するといえる回帰的(回帰的)社会契約主義分配観、Ⅲ-4章では儒教に相当するといえる中和的(中和的)功利主義労働観、Ⅲ-5章では西教に相当するといえる流行的(流行的)共同体主義財貨観を、該当する宗旨と『典経』の一節の比較分析を通じて考察する。本論考は、多様なラカンと複雑系科学のうち循環性を強調した特定部分を経済と関連づけたため、本論考とは異なる解釈もいくらでも可能でありうることを明記しておく。

Ⅳ章では、Ⅲ章の分析を通じて現れた宗旨の循環的経済観が内包する価値を、経済問題と対応させて考察しようとする。Ⅳ-1章では、個人—経済側面の経済動機と関連して、陰陽合徳が経済動機の失踪に対する回復方案となりうることを考察することにする。Ⅳ-2章では、個人—倫理側面の経済倫理と関連した側面において、神人調化が経済倫理回復に対する代案となりうることを考察する。Ⅳ-3章では、共同体—経済という側面において、今日の資本主義と共産主義あるいは第三の道のような理念の問題は、「咎を作らない(척を結ばない)」という解冤相生の原理から葛藤が解決されうることを考察する。Ⅳ-4章では、共同体—倫理という側面において、道通真境という循環的世界の確立が人類の共同体性を回復させ、地上天国を作りうる道であることを考察した。

Ⅴ章むすびでは、本研究の限界と、Ⅳ章で明らかにした大巡思想の循環的経済観の価値が、大巡思想のみならず韓国思想の世界化の一方便となり、Ⅰ章で提示した現代の経済問題の解決策となりうることを確認する。

なお、本論考における、循環を通じた複雑系としての五行現象の理解、および五行に対する諸宗教と経済思想の配置など、この論考全体の内容は、大巡宗学科の公式的な立場ではなく、個人的な見解にすぎないことをあらかじめ明記する。

Footnotes

  1. 1)すべての者が一等になって他人の認定を受けうる方法は、循環しかない。大巡(大巡)の「巡(巡)」は、「循環する」という意味が強調されている。
  2. 2)マルクスは「宗教は人民の阿片」とし、苦しく辛い所には宗教があるとして、宗教を催眠のような虚偽意識とみなしたが、ウェーバーは宗教と経済は循環関係にあるとする。宗教と経済の関係を上部構造と下部構造として説明したマルクスに対する最も有力な批判者としてウェーバーが知られているのは、ウェーバーがニーチェのように宗教と経済の循環的関係を示すことによって、マルクスの「歴史」概念の虚構性を暴露したためである。(유석춘,『막스베버와 동양사회』, 나남, 1992, 37쪽)ニーチェは経済(oekonomie)の概念を、人間の根源的な自己理解と同時に、自然と存在全体の混沌と秩序が反復される循環過程を叙述するために登場させる。ニーチェは道徳を「人間情緒の記号言語」という経済学的観点から眺める。ニーチェにとって「情緒の経済」は「力への意志」と対をなす重要な概念であった。(임홍빈,「‘정서의 경제’와 자연주의적 심리학」,『철학연구』Vol.113 No.-, 대한철학회, 2010, 291~303쪽)易学において相剋が相生の原動力となるように、循環的世界観において苦痛は発展の原動力となり、経済は宗教と循環関係に置かれる。
  3. 3)「労働の終末」という表現に代弁されるように、人間の労働はますます尊厳を失いつつある。「人間がもはや働きたがらない」という論理は、「人間の尊厳が近代以降、仕事によって生じた」という歴史的事実を歪曲したものである。近代の市民は、労働をすることによってその尊厳を獲得したためである。現代はますます失業が増加しており、失業は最も重要な経済問題である。(도미니크 슈나페르, 『노동의 종말에 반하여』, 김교신 역, 동문선, 2001, 15~16쪽)
  4. 4)ウェーバーはニーチェの価値革命を受け入れ、ニーチェの価値革命以後、世界の意味を求めることは無意味であるとした。「神は死んだ」という言葉に代表されるニーチェの価値革命は、マルクスのような物質的革命よりさらに恐ろしく人間の精神を変化させた。ニーチェの価値革命は、宗教のみならず科学・歴史すらそれ自体としては無意味であることを暴露した。(유석춘, 같은 책, 42~43쪽)鉄の檻は、一切の宗教的思考を否定して経済的論理のみを認める合理化の世界である。ウェーバーは、西教においてのみ科学と資本主義が出現しえたのは、神以外には祖先も否定して一切の伝統と魔術を否定する西教の伝統のために発生したとする。近代文明は「呪術の庭」から抜け出す代償として、何の感情もなくすべてが合理化される「鉄の檻」に閉じ込められることになった。「鉄の檻」は、単にすべてが合理化されて冷静であるという意味を超え、歴史すら無意味であるという虚無主義を意味する。ニーチェは新たな虚無主義に対する代案として永劫回帰、すなわち循環を提示した。ニーチェの言う「神は死んだ」という言葉は、循環的世界観の「神」が復活し、直線的意味の「神」が死んだという意味に解釈される。ニーチェ以後、彼の永遠回帰という循環思想はフロイトによって精神分析へ発展し、以後ラカン・ジジェクのような精神分析や、フーコー・バトラーなどの新歴史主義へ継承されて、今日の人文学界を二分している。両学派は、新歴史主義が精神分析と極めて異なるかのように主張して極めて対立するかのようだが、極めて親和的である。(권택영, 「영원회귀: 신역사주의와 정신분석의 대립을 넘어서」,『현대영어영문학』, 한국현대영어영문학회, Vol.48 No.-, 2004, 1쪽)
  5. 5)1960年代以降、後期産業社会へ進入した世界の人文学界は、ウェーバーの循環論理が基盤とするニーチェの時代であるポストモダニズムの時代となった。ウェーバーは、功利主義とマルクス主義が主流であった時代に、資本主義の原動力は金ではなく生の意味であると主張した。ウェーバーはマルクスとの差異点と方法論的多元主義で知られているが、マルクスとウェーバーは、「無限を有限で捉えうると考える」ドイツの神秘主義的伝統のなかで方法論的一貫性を維持している。ただ、ウェーバーはマルクスとは異なり、共同体を志向しうる人は特殊に限定されており、マルクスのような全体的な共同体は幻想であるとする。(윤원근,「독일 지적 전통의 신비적 세계관과 베버의 공동체 지향성」,『한국사회학회』Vol.34 No.-, 2000, 34~35쪽)しばしばポストモダニズムと呼ばれる文化的志向の思想的源流は、ニーチェ・フロイト・マルクスと呼ばれる、ソシュール以後の記号学が出会う地点で形成されたという。貨幣・記号・無意識は、近代的日常のなかに循環している脱近代の源泉であり事例である。(김상환,「화폐, 언어, 무의식」,『철학 사상』Vol. 56 No.-, 철학연구회, 2002, 23-24쪽)
  6. 6)世界文明の政治学的地形図を研究する学者たちは、世界文明を率いていた西洋とイスラムの文化が危機の兆候を示し、中国を含む東アジア文化圏が希望として登場しつつあるとする。(도미니크 모이시, 『감정의 지정학』, 랜덤하우스, 2010, 10-15쪽)韓中日の成長が儒仏仙と関連したという根拠は、韓中日の美学を通じて知ることができる。韓中日の美学は、イスラム・キリスト教の文化とは明確に区分される。韓中日の美学は、儒仏仙と関連した風流・興あるいは恨・無心として現れる。(신은경,『풍류(동아시아미학의 근원)』, 보고사, 1999, 589~594쪽)日常が文化を最もよく反映するため、日常と密接な美学が哲学と宗教の国民性への影響を最もよく反映するとするとき、興は道教、無心は仏教、恨は儒教に近いといえる。階層別に、興は全階層、無心は知識人階層であるとすれば、恨は疎外階層が多く、恨は両価的で複雑な感情といえる。韓中日は互いに地域的に近接していたが、特異にも儒・仏・仙において異質な様相を示す。財物を大切にする道教が、中国の魯迅が述べたように中国の根拠であるとすれば(김덕삼, 『도교의 기원』, 시간의 물레, 2002, 48~62쪽)、仏教のように生と死の境界を恐れない武士精神に代表される日本は代表的宗教として仏教がみなされ、孔子の祭祀である釈奠大祭が世界で唯一残り、性理学を宗教的な国家理念として重視した韓国は儒教国家として指目される。
  7. 7)世界宗教は、経済が招いた不平等に対する正当化機能として出現したとみる。(막스 베버, 『세계종교와 경제윤리』, 『막스베버 종교사회학 선집』, 나남, 2008, 142~146쪽)儒仏仙とキリスト教の教理は、気候と風土に適合した合理的な生産と分配の様式と多くの共通点を持っている。儒仏仙とキリスト教を気温順に見ると、最も寒い北方地方の儒教、最も暑い地方の仏教、相対的に暑い地域の道教があり、西教は遊牧民族で砂漠という環境を持った。インドの場合、生産に大きな問題がなく、また消費にも大きな問題がなかったため、現実超越的な仏教教理が適合し、道教は儒教より生産効率の高い温和な南方であったため自由主義的な道教教理が発展し、儒教はより寒い北方で功利主義的教理が発達する。西教は砂漠という極限状況で共同体的な教理として発展する。宗教が社会に適応すると、宗教は神観と世界観として固まり、文化別に部分と全体を見る観点が固まって経済に影響を与えた。崔奉永は、各文明は個体と共同体を個別的観点から見るか全体論的観点から見るかによって分類されうるとし、西教は神と人間を従属関係として見る「統体—従属者的世界観」から近代の「個別者—合体的世界観」へ、中国は「統体—部分者的世界観」、インドは「統体—縁起者的世界観」として分類されるとする。(최봉영,「‘사회’개념에 전제된 개체와 전체의 관계와 유형」,『동양사회사상』Vol.1 No.-, 동양사회사상학회, 1998, 88~101쪽)東西洋を比較してみるとき、個別者—合体的世界観は道教、統体—部分者的世界観は儒教、統体—縁起者的世界観は仏教、統体—従属者的世界観は西教に似ているといえる。ここで統体は全体、個別者は個体をいう。実際に、米国の心理学者ニスベットが明らかにしたように、飛んでいく鳥を見て西洋人は鳥の数を記憶し、東洋人は背景を記憶するという。また東洋は全体・状況・動詞・経験・共に生きる生を重視し、西洋は部分・本性・名詞・論理・独りで生きる生を重視するという。(리처드 니스벳,『생각의 지도』, 최인철 역, 김영사, 2004, 83~106쪽)
  8. 8)西教(西教、以下、西教はカトリックとキリスト教を総称する)は、西道(西道)・西学(西学)などの意味と共同で使用されもした。(염미양, 「대순사상의 서학관 연구」, 대진대학교 석사논문, 2005, 11~13쪽)ウェーバーの複雑な宗教論は、大きく二つの観点から要約されうる。第一は、宗教の担持者層が思惟的理論家集団か実践的行動家集団か、第二は、教理体系が「神」中心的救済宗教か「宇宙」中心的非救済的文化宗教体系かである。キリスト教の場合、典型的な都市の小市民層の宗教として発生して科学的で自然改造的な性格を持ち、唯一神信仰は伝統を否定させて科学的思考の道を開いた。一方、東洋宗教の特徴は、主要な担持者層が賤民層より特権層が多く、儒教の場合はとりわけ二つの階級の結合形態であった。担持勢力の豊かな生活条件は、現実適応的世界観と「苦痛の神義論(神正論)」ではなく「幸福の神義論」を追求させた。東洋宗教は西洋宗教に比べて知識人の救世論であり救済の貴族主義であった。要約すれば、禁欲的な西教は「世界支配」、儒教は「世界適応」、インドは「世界逃避」を一貫して合理化させた。西教は一貫した実践的合理主義であり、ヒンドゥー教と仏教は理論的合理主義である。それに対して儒教は、救済理念の不在のなかに実践的合理主義を内包していた。(전성우,「막스 베버의 유교론」, 『남명학 연구』Vol.16 No.-, 慶尙大學校南冥學硏究所, 2003, 310-314쪽)
  9. 9)グレアムは、中国の諸子百家の思想が天命秩序の崩壊に伴う再編の努力であったとみる。(A. C. 그레이엄 『도의 논쟁자들』, 새물결, 2001, 36쪽)
  10. 10)米ソ冷戦が終わると、世界危機の根源として隠されていた宗教の葛藤が現れ、危機の根源は文明の衝突として言及されており、その衝突は9.11事件が示すように、いまだ終わらず、さらに増幅されているものとみなされる。(새뮤얼 헌팅턴, 『문명의 충돌』, 김영사, 1997, 32~33쪽)大巡思想でも宗教を文明の根とみて(上略、仙道(仙道)と仏道(仏道)と儒道(儒道)と西道(西道)は世界各族の文化の土台となった、『典経』教運一章六十五節)、宗教間の衝突が社会経済的問題の根源となったことを言及する(世界のあらゆる族属はそれぞれ自らの生活経験の伝承(伝承)に従って特殊な思想を土台に色違いの文化を成し遂げたが、それを発揮するようになるや、ついに大きな是非が起こった。『典経』教法三章二十三節)。
  11. 11)ウェーバーとは異なり、ジンメルは、宗教は社会的相互作用の形式であるため、貨幣のように社会がある限り宗教がなければならないとする。科学と宗教は代替不可能な社会的関係であるため、現代人は決して宗教と科学の葛藤関係に陥らず、現代人はあくまでも主観的宗教を必要とすることになるとする。(김덕영, 「현대인에게도 종교는 필요한가」,『현상과 인식』Vol.23 No.1-, 한국인문사회과학학회, 1999, 66~76쪽)
  12. 12)現代資本主義と資本主義化された現代西教(西教)は、異例的に直線的な宗教思想である。現代資本主義と現代西教の時間観は、幸福は未来にあり、今日はただ明日のための準備時間にすぎない。ニーチェは、直線的な資本主義と西教を総じて形而上学と批判し、その反対給付として永劫回帰の生哲学を代案として提示したことがある。(강신주, 『상처받지 않을 권리』, 프로네시스, 2009, 410~413쪽)ニーチェの哲学のように、西教を除いた他のあらゆる文化は、循環を強調する相関的思惟を持っている。(A. C. 그레이엄 『음양과 상관적 사유』, 청계, 2001, 264쪽)
  13. 13)ウェーバーは、宗教が喪失された現代の状況を極めて悲観した。近代の宗教は経済と分離して、宗教が経済である資本主義を率いる力となったが、分離が深化した現代は、むしろ宗教が経済に従属したとする。(정태식, 「현대사회에서의 종교의 사회적 위치와 공공성」, 『신학사상』Vol.142 No.-, 한국신학연구소, 2008, 201~202쪽)
  14. 14)上帝がある日、金亨烈に仰せられた。「西洋人の利瑪竇(利瑪竇)が東洋に来て地上天国を建てようとしたが、長く根を張った儒教の弊習によって容易に改革できず、その意を成しえなかった。ただ、天上と地下の境界を開放して、各々の地域を堅く守って互いに行き来できなかった神明を相互に往来させ、彼が死後に東洋の文明神(文明神)を率いて西洋へ行き、文運(文運)を開いたのである。これより地下神は天上のあらゆる妙法に倣って人世にそれを施した。西洋のあらゆる文物は天国の模型に倣ったものである」と告げられ、「その文明は物質に偏って、かえって人類の驕慢を助長し、ついには天理を揺るがし、自然を征服しようとするところからあらゆる罪悪を絶え間なく犯して神道の権威を落としたがゆえに、天道と人事の常道が違えられ、三界が混乱して道の根源が断たれることになったので、原始のあらゆる神聖と仏・菩薩が会集して、人類と神明界のこの劫厄を九天に訴えたため、我は西洋(西洋)大法国(大法国)天啓塔(天啓塔)に降りて天下を大巡(大巡)し、この東土(東土)に止まり、母岳山金山寺(母岳山金山寺)三層殿(三層殿)弥勒金仏(弥勒金仏)に至って三十年を過ごし、崔済愚(崔済愚)に済世大道(済世大道)を啓示したが、済愚は儒教の典憲を超えて大道の真の意を明らかにすることができなかったため、甲子(甲子)年についに天命と神教(神教)を収め、辛未(辛未)年に降世したのである」と仰せられた。(대순진리회교무부(1974), 『전경』교운1장9절, 대순진리회출판부, 2010。以下、『典経』の引用は章(章)と節(節)で表記する。)
  15. 15)グローバル文化時代に、西洋思想の東洋的淵源を明らかにすることが重要な理由は、情報通信革命の発達による文明のグローバル化が、世界の各民族文化と文明を深刻なアイデンティティ危機に陥れるためである。(차성환, 「독일 사회과학의 오리엔탈리즘」, 『담론201』Vol.7 No.-, 한국사회역사학회, 2004, 274쪽)
  16. 16)金というものは循環の理によって生じ、用いられる物である。無理に求めて用いるべきものではなく、百年の貪物(百年貪物)が一朝の塵(一朝塵)である。(『典経』教法一章六十四節)
  17. 17)進化論と古典経済学の影響によって、貨幣経済と人間の共同体的生活は相反して対立すると考える人が多い。市場もまた相互闘争から始まると考えるが、市場が生じたのは相互贈与のためであり、貨幣もまた相互贈与のなかで拒否されない交換物として登場したという。世界には共同体経済学と個人主義経済学の二つがあり、二つが均衡を成さねばならない。(주종환, 「공동체의 경제학(Ⅱ)」, 『사회경제평론』Vol.27 No.-, 한국사회경제학회, 2006, 279~280쪽)
  18. 18)今日、人々は過去に個人的な領域であった部分まで管理されている。(엘리 러셀 혹실드, 『감정노동』, 이매진, 2009, 17~33쪽)宗教が消えると、現代人は、ハーバーマスのいう生活世界の植民化のように、自己の感情と自尊心を売り買いする感情労働に苦しむことになった。各個人は人生の大部分を「経済」に投資しているが、「経済(経済)」に恨が結ばれて数多くの人が自殺しており、韓国は本格的な後期産業社会へ進入した1980年代以降、OECD国家のうち自殺増加率1位を記録した。韓国自殺予防協会は最近開かれた「生命愛国民運動展開のためのフォーラム」で、2011年現在、一日平均の自殺者数は42.6名であり、人口10万人当たり28.1人が自殺してOECD平均の11.3人より二倍以上高く、自殺増加率も最も高いと発表した。とりわけ40代から50代までは、自殺理由の50%以上が経済的理由であるという。(홍진표, 최순호, 「자살 예방_조사연구보고서」, 한국자살예방협회, 2011, 89~103쪽)
  19. 19)2008年の米国の多国籍金融会社リーマン・ブラザーズの破産は、経済理念論争を再び呼び起こした。自由市場経済学者ヌリエル・ルービニ教授は、金融危機を脱するには金融圏の国有化が唯一の選択の道であるとする。昨年4月と11月、ロンドンとワシントンで開かれたG-20首脳が経済危機を解決するために出した解法のうち、金融分野に対する政府の監督と規制強化を強調したのは、ルービニの主張と脈絡を同じくする。(윤병철, 「시뮬라시옹 사회의 그늘」,『담론201』Vol.12 No.3, 한국사회역사학회, 2009, 154쪽)米国はいまだ貨幣発行機関である中央銀行が政府の所有ではない。(이리유카바 최, 『그림자 정부(경제편)』, 해냄출판사, 2008)
  20. 20)제레미 리프킨, 『공감의 시대』 (이경남 역, 민음사, 2010) 712~718쪽。個体を強調する西洋において、共感が人間の根源的能力であるという思想は禁忌事項であった。「カントの理性ではなく共感が人間の根源である」とするショーペンハウアーの哲学は、禁忌事項に触れたがゆえに歓迎されなかった。しかしインターネット時代を迎えて、再び共感能力あるいは模倣欲望が再び浮上している。
  21. 21)儒学を修己治人(修己治人)の学問というように、経世は儒学の究極的目標である。経世済民(経世済民)は、世上(世上)を経営して百姓を救済(救済)する原理である。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」,『율곡사상연구』Vol.11 No.-, 율곡학회, 2005, 44쪽)
  22. 22)朱子の文において本末(本末)は二つの意味で使用されるという。一つは大学で使用された実践的脈絡で先後本末論であり、もう一つは中庸で使用された脈絡で本具(本具)論的脈絡であるという。徳を先んじてこそ財物は従ってくるのであり、財物を先んじる場合は経済が破綻する。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」, 『율곡사상연구』Vol.11 No.-, 율곡학회, 2005, 50쪽)
  23. 23)『대학·중용 강설』(이기동 편, 성균관대학교출판부, 2010) 90쪽
  24. 24)行動経済学によれば、人はいくらか自分の損になっても、他人を助けたり懲らしめたりするなど、正義に適う考えをする傾向があるという。さらに、利己心より利他心が時には進化競争においてむしろ有利とみることもある。(버나드 맨더빌, 『꿀벌의 우화』, 최윤재 역, 문예출판사, 2010, 51~52쪽)行動経済学は、パブロフの反射作用試験のように、刺激に対する人間行動の変化を見て心理を測定する行動主義心理学と関連した経済学である。行動経済学は、人間は理性より感情が、意識より無意識がより強いということを実験を通じて証明する。
  25. 25)囚人のジレンマであれ、どんなゲームであれ、善いものが生き残るという。(정태인, 『착한 것이 살아남는 경제의 숨겨진 법칙』, 상상너머, 2011, 89~93쪽)
  26. 26)法と制度のみならず、社会の道徳水準が経済に重要であるということは、今日あらためて注目されている。ガルブレイスが含まれる制度経済学派では、公式的な制度のほかにも道徳のような非公式的制度を早くから研究対象としている。利己心だけで経済がうまくいくのではなく、正義に適わない公権力の行使は経済にはむしろ害となる。(버나드 맨더빌, 같은 책, 2010, 51쪽)
  27. 27)経済学は、新古典派経済学では「人間の欲望に比して稀少に存在する資源をいかに効率的に配分するかという学問」と定義されるとすれば、古典経済学やマルクス経済学では「経済全体の再生産と関連した生産と分配の問題を扱うもの」と定義される。この「再生産」問題において、新古典派経済学の「稀少性」は問題とならない。(박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」,『한국사회』Vol.7 No.2, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 34쪽)
  28. 28)経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、倫理学教授として『国富論』とともに『道徳感情論』を書いて『国富論』を補完したという。常識とは異なり、『国富論』の各所に、今日「反企業情緒」と呼ばれる言及が現れる。アダム・スミスが二つの本で互いに矛盾する話をしたことは「アダム・スミス問題」といって長い論争があってきた。(버나드 맨더빌, 같은 책, 51쪽)人間を利己的に定義するのは、人間理性の限界を根拠としている。自由至上主義者ハイエクは、我々は無知の沼に生きているとする。(하이에크, 1969, 민경국,「시장경제에 대한 공동체주의적 비판과 공동체주의적 경제질서」,『경상논총』 Vol.17 No.-, 한독경상학회, 1998, 70~71쪽)
  29. 29)아마티아 센(1989), 『윤리학과 경제학』(박순성 외 역, 한울아카데미, 1999) 18~19쪽
  30. 30)マックス・ウェーバーは、マルクスの唯物論的方法論を批判しうる最高の理論家として認められてきた。とりわけウェーバーの理論のうちでも『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、マルクスの宗教起源論を批判しうる代表的な理論書であった。マルクスは「宗教とは、経済という物質的下部構造の秩序を反映する上部構造として虚偽意識である」とした一方、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で「宗教がむしろ資本主義という下部構造を作った」ことを論証することによって、マルクスの理論に致命的な批判に成功して世界的な理論家として認められた。(전성우,「막스 베버의 유교론」,『남명학 연구』Vol.16 No.-, 慶尙大學校 南冥學硏究所, 2003, 304쪽)
  31. 31)カルヴァン(Jean Calvin, 1509.7.10~1564.5.27)の本名はジャン・コーヴァン(Jean Cauvin)である。フランスで下層民として生まれたカルヴァンは、スイスのジュネーヴで西教(西教)教理に対する深く新たな理解を作り上げた。ルターが宗教改革を政治的に始めた人物であるとすれば、カルヴァンは宗教改革の成果を経済に反映させて実際的に成熟させたといえる。カルヴァンは米国の独立運動家フランクリンなどに影響を与え、今日の資本主義の禁欲的経済倫理の嚆矢としてウェーバーに指目された。(앙드레 비엘러,『칼빈의 경제윤리』, 성광문화사, 1985, 75~76쪽)
  32. 32)予定説が現世の祝福を追求する祈福信仰と異なるのは、究極的な目的が既存の西教のように来世にありつつ、現世の祝福はただ予定の証明であるという点である。したがって、予定説を信じる西教信者は、現世の祝福を受けても、来世を祈願する既存の西教人のように禁欲的にならざるをえない。祈福信仰は、現世の祝福は予定説と同じだが、禁欲主義という点で違いが出る。予定論者は神の前で絶対孤独である。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 6~7쪽)
  33. 33)唯一神を信じる他の宗教のうちでも、西教に唯一ある三位一体は、資本主義の構造と類似性が多いという。(나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』동아시아, 2004, 181~185쪽)
  34. 34)막스 베버, 『프로테스탄티즘의 윤리와 자본주의 정신』(김덕영 역, 길, 2010)
  35. 35)脱近代は、近代的行為の世界にすでに循環しているエネルギーであり、その価値である。ポストモダニズムは近代と対比して循環を特徴とする。(김상환, 「화폐, 언어, 무의식」, 『철학 사상』Vol. 56 No.-, 철학연구회, 2002, 23~24쪽)今日、「近代(modern)—以後(post)」という言葉で80年代以降の世界思想界の流れを主導している思想的潮流であるポストモダニズムもまた循環に基づく。マルクス・ニーチェ・フロイト・ソシュール・複雑系科学などに代表されるポストモダニズムでは、宗教と経済の循環のように、近代思想では貨幣・言語・無意識など互いに関連しないものが循環関係にあることを明らかにして、近代の固定観念を解体させる。ポストモダニズムの立場では、大巡思想もまた韓国で自生したポストモダニズムとみることができる。
  36. 36)ブルデューは、アルジェリアの農民たちが周易のように循環的な経済観を持っていたことを見て、循環論的な経済観を前近代的な経済観とみなした。しかし、循環的な経済観が消えると改革意志が消えることを発見し、循環的経済観の重要性を発見した。(가라타니 고진, 『트랜스크리틱』, 강신주, 2009, 236~239쪽에서 재인용)
  37. 37)소광섭, 『물리학과 대승기신론』(서울대학교 출판부, 1999) 45~47쪽
  38. 38)이광주, 「상대성이론으로 본 상제님의 권능」, 『상생의 길』 Vol2.No.-, 대순진리회 출판부, 2004, 131~136쪽
  39. 39)一定の財産がなければ、それによって常に一定でありうる心がなくなる。『맹자강설』 (이기동 편, 성균관대학교출판부, 2007) 65~66쪽。
  40. 40)構造主義は、観察する主体や行動する主体から独立した社会構造があるという思想である。構造主義は一言でいえば、社会の無意識を構造概念で解釈しようとした独創的な思想である。構造主義には、人間の主体的な決断を重視する実存主義に対する強い批判が込められている。構造主義は、記号学でロラン・バルト、哲学でフーコー、精神分析学でラカンなど、広範な影響を及ぼした。(나카야마 겐, 『사고의 용어사전』, 북바이북, 2009, 237~241쪽)構造主義は、万物が陰陽として構造化されるという易学思想と類似している。
  41. 41)ブルデューは、アルジェリアの農民たちが周易のように循環的な経済観を持っていたという。しかし資本主義の到来とともに循環的な時間観が消えたという。循環的な時間観が消えて不安が労働者を支配すると、社会改革のエネルギーが消えたという。したがって、現代の改革エネルギーが蘇るには、生産—消費組合という循環的経済体制が作られねばならないという。(가라타니 고진, 『트랜스크리틱』, 강신주, 2009, 236~239쪽에서 재인용)昼の想像力体系である直線的な時間観が、夜の想像力体系である循環的な時間観を代替したのは、ヨーロッパの「聖像破壊主義」のためで、ヨーロッパはその代償として①死②心理的社会的均衡の喪失③社会④神を喪失したという。(이희연,「'사회적 시간'(Social time)의 '기계적 차원'과 '순환적 차원'에 대하여」, 서강대학교 석사논문, 2002, 95쪽)昼の想像力体系と夜の想像力体系は、すなわち陰陽と循環を表すといえる。(질베르 뒤랑,『상상계의 인류학적 구조들』, 진형준 역, 문학동네, 2007, 670쪽)
  42. 42)西洋の場合、時間の循環について二つの伝統が伝わってきた。オリンポス宗教では、時間の変化に伴う自然の変化を見て倫理的契機を見出し、オルフェウス宗教の時間観は周期的な循環を示し神秘的表象を示すといえる。(장영란, 「시간의 신화와 철학의 윤리적 정초」,『철학과 현상학 연구』 Vol.40 No.-, 한국현상학회, 2009, 269쪽)「苦境のなかには無神論者がいない」という言葉のように、各宗教の神に対する理解は人間に対する理解と関連してきた。循環の場合、二元的に人間を理解すれば人格的・意志的絶対者を肯定することになり、一元的に人間を理解すれば絶対者を否定することになる。(이상익, 「동서 사상에 있어서의 인간과 神」, 『국학연구』Vol.3 No.-, 국학연구소, 1990, 2, 44쪽)
  43. 43)ウェーバーは、陰陽のように目的や結果を重視する東洋的合理性を実質合理性と呼び、過程と手続きを重視して誰もが同じ過程に従えば同一の結果を出しうる西洋の合理性を形式合理性と呼び、形式合理性が資本主義発展の基盤となるとみた。しかし、形式合理性が資本主義発展の始まりにおいては東洋を追い越しえたが、今日の東北アジアの経済成長が示すように、実質合理性が形式合理性よりさらに重要であることを示し、儒教思想は強権を恐れない自由思想を持っていることも明らかにされつつある。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 291~293쪽)ウェーバーは、儒教は伝統指向性、道教は呪術的傾向のために、西洋の形式合理性に到達しえなかったとする。韓国のキリスト教もまた道教の影響で多く変わったという。(양창삼, 「도교와 한국 기독교와의 관계성에 대한 연구」,『민족과 문화』, Vol.2 No.-, 漢陽大學校 民族學硏究所, 1994, 418쪽)
  44. 44)西洋二分法の核心的特徴は「対立—存在論的思索の枠」で、東洋陰陽法が示す「相互—関係論的思考の枠」と対比される。代わりに、西洋二分法は独善的概念でイデオロギー的性向を帯びうるが、厳正さがある。(김영주, 「동양 음양법의 상호 관계론적 사색틀과 그 비판」, 『동양사회사상』Vol.8 No.-, 동양사회사상학회, 2003, 75~76쪽)循環的世界観と陰陽は、「相対的多様性」という良い側面に対応して「曖昧模糊さ」という悪い側面がある。「相対的多様性」は別の言葉で「水平的多様性」といえるが、東洋社会はウェーバーが明らかにしたように、生き生きとした現実と出会いながら、むしろ西洋思想よりさらに激しい差別が存在する二律背反と偽善があった。相対的多様性は我々の幼年期を老成した子供にし、我々の母と祖母の苛酷な悲しみを生んだ。(김영주,「서양 이분법과 동양음양법의 비판, 그리고 태극이분법」, 『한국사회학회 사회학대회 논문집』, 한국사회학회, 2001, 13~14쪽)金英珠は、東洋陰陽法に対する代案として太極二分法を提示し、両極法と両面法を代案として提示する。しかし、大巡思想の二分法は循環を主とする二分法であるという点が異なる。大巡思想に現れた陰陽は、陰陽循環の根本となる陰陽遁を強調することによって(「上帝が乙巳(乙巳)年の春のある日、文公信に『姜太公(姜太公)は七十二遁をして陰陽遁ができなかったが、我は陰陽遁までしたのである』と仰せられた」『典経』行録三章二十八節)、既存の陰陽論が持つ循環性を補完する。(신윤기, 「人然, 自然, 天然, 그리고 超然」,『상생문화』2,3호, 전국대진연합회, 1995, 13~14쪽)西洋の還元主義的方法論が、西洋の古代哲人から始まって西教の唯一神へ伝えられた「世界万物の起源と統一性という陰陽遁」を探す方法であったとすれば、東洋の循環論的方法論は「陰陽五行」という関係的思惟をしたといえる。(은남근, 『오행의 새로운 이해』, 법인문화사, 2000, 20~21쪽)フランスの構造主義者レヴィ=ストロースは、科学には「感覚的直観に極めて近い科学」と「極めて遠い科学」という二つの科学があるとする。(이창일, 『주역, 인간의 법칙』, 위즈덤하우스, 2011, 98~99쪽)
  45. 45)陰陽は、西洋でも最も重要な思想とみなされたことがある。陰陽の特徴は関係的・類比的思考であり、類比的思考はトマス・アクィナスの神存在証明の核心であった。すなわち、トマス・アクィナスの「神の言語」は「類比」、すなわち陰陽として現れる。(박승찬, 「유비개념의 신학적 적용」, 『가톨릭 신학과 사상』Vol. No.28, 신학과사상학회, 1999, 181~182쪽)ラッセルのパラドックスが発見されると、トマス・アクィナスの陰陽—類比的神存在証明は形而上学の新たな寵児として浮上した。ヨーロッパの代表的トマス主義者コレト(Coreth)は、人間は認識を超えるとき、ある存在が啓示されるとする。(정의채, 『형이상학』열린, 1997, 116쪽)類比的推理に根拠したトマス・アクィナスと朱子の性理学体系は、極めて類似性が多いという。(소병선, 『주자학과 토미즘의 철학적 협연』, 동과서, 2006, 203~210쪽)
  46. 46)『典経』では、マテオ・リッチが文明神を率いて行った後、震默によって道通神もまた西洋へ渡ったという表現で、西洋文明の東洋宗教的淵源を明らかにしている。震默は天上の妙法を母国である韓国と東洋に施そうとしたが、儒教の典憲によってかえって惨たらしく死に、西洋に行って事をなすことになる。「その後、震默が上座に『私は八日を限って尸解(尸解)によってインド国(印度国)へ行き、梵書と仏法をさらに習って来るから、部屋の戸を開け閉めするな』と厳しく言いつけ、すぐに入寂(入寂)した。鳳谷がこの事実を知って寺に駆けつけ震默を訪ねると、上座が外出中であることを知らせた。鳳谷が『では部屋に探すものがあるから』と言いながら部屋の戸を開けようとするのを上座が止めたが、無理やり部屋の戸を開けた。鳳谷は震默の上座に『どうしてこんな死体を部屋にそのまま置いて腐らせるのか。僧は死ねば火葬するのだ』と言いながら、庭に薪の山を積んで火葬した。上座が泣きながら止めたが、鳳谷はかえって叱りつけ、肉一片も残さず焼いた。震默がこれを知って戻り、空中から叫んで言った。『お前と私は何の恨みもないのに、どうしてそうするのか。』上座が自分の師の声を聞いて泣くと、鳳谷が『あれは妖鬼(妖鬼)の声である。聞かずに、指の骨一節も残さずよく焼かねばならぬ』と言うと、震默が叫んで言った。『お前が最後までそうするなら、お前の子孫は代々鍬を免れぬであろう。』そして東洋のあらゆる道通神(道通神)を率いて西洋へ移っていった。(『典経』公事三章十五節)」震默とマテオ・リッチの死後談は、檀君神話のように、理想世界建設のために神となってからも人間世界と関連して事をしていることを示す。(고남식,「九天 上帝의 降世神話와 地上天國」, 『대순사상논총』 Vol.15 No.-, 대진대학교 부설 대순사상학술원, 2002)震默は僧であり、『典経』に性理大全を暗誦するほど儒教と親近であったが、仙道とは特別な関連がないように見える。しかし「あらゆる道通神」としたため、震默が連れて行った道通神には儒仏仙道通神がすべて含まれているものとみられる。震默がすべて暗誦し、マテオ・リッチが翻訳した性理学関連の書籍は、すでに儒仏仙が統合された思想であった。
  47. 47)주겸지, 『중국이 만든 유럽의 근대』(청계, 2010)
  48. 48)안드레 군터 프랑크(1998), 『리오리엔트』(이산, 2003)
  49. 49)개빈 멘지스, 『1434 (중국의 정화 대함대 이탈리아 르네상스의 불을 지피다)』(21세기북스, 2010)
  50. 50)존 M. 홉슨,『서구 문명은 동양에서 시작되었다』(에코리브르, 2005)
  51. 51)H.G. 크릴,『중국사상의 이해』 (이동준, 이동인 공역, 경문사, 1984)。クリール(H.G. Creel)は、西洋に対する孔子の影響は、我々が時に気づくよりも大きかったとする。それは17~18世紀においていっそう大きく、かつてこうした事情を指してライヒヴァイン(Reichwein)は「孔子は18世紀啓蒙思想を支えた聖者となった」と述べた(下略)。世界の思想家のうち、一般人に自ら考えるよう委ねる思想家は極めてまれであるが、孔子は一歩進んで「そうすべきだ」と強力に主張した点で、クリールは孔子の主張を「知的民主主義」と規定した。(이상익, 『역사철학과 역학사상』, 성균관대학교출판부, 1996, 211~213쪽에서 재인용)
  52. 52)황태연, 『공자와 세계』(1-5) (청계, 2011)
  53. 53)黄台淵の研究に見られるように、英国が主に孔孟儒教の経験重視傾向の影響を受けて帰納的経験主義へ発展したとすれば、ヨーロッパ大陸は仏教の影響を受けた性理学の理性中心主義に影響を受けて、ライプニッツやフランス啓蒙主義のような合理主義へ発展した。(전홍석,「근대 유럽 계몽주의에 대한 송유이학(宋儒理學)의 영향과 그 문화 철학적 의미」,『동양철학연구』 Vol.57 No.-, 동양철학연구회, 2009, 304쪽)ライプニッツは1697年の『中国近事』で、中国人の道徳性が西洋より優れていることを認めた。ライプニッツはマテオ・リッチの文を読んだ。(라이프니츠, 『라이프니츠가 만난 중국』, 이동희 역, 2003, 176~180쪽)
  54. 54)フランソワ・ジュリアンは、啓蒙哲学が直接孟子から影響を受けたと主張するわけではないが、啓蒙哲学者の問題意識と孟子の問題意識が極めて近接していることを示している。孟子哲学は、ニーチェ哲学以後に中断された西洋道徳哲学の基礎を立てうる。(프랑수아 줄리앙, 『맹자와 계몽철학자의 대화』, 한울아카데미, 2009, 50~55쪽)孟子は、西洋に不在でニーチェが探していた「道徳の基礎」である循環の論理を提示する。東洋と西洋の哲学は「運行」と「創造」として比較されうるという。(프랑수아 줄리앙,『운행과 창조』, 유병태 역, 케이시, 2003)
  55. 55)社会主義の没落以後のヨーロッパのコソボ事態、9.11テロなどに見られるように、理念の時代が終結すると、アイデンティティの時代となったという。冷戦終結以後、各地の紛争はアイデンティティを中心とした紛争となり、アイデンティティの危機は、世界を恐怖・屈辱・希望の文化圏に細分して国際経済展望を暗くする。(도미니크 모이시, 『감정의 지정학』, 2010, 랜덤하우스, 35-36쪽)アイデンティティ混乱は、アイデンティティ間の秩序を整えうる新たな循環論理によって解決可能である。
  56. 56)これまで西欧の社会科学界内で、マックス・ウェーバーほど宗教に関して影響力ある研究結果を発表した人はいない。ウェーバー以前にすでにヘーゲルやマルクスがアジア的停滞性を明らかにしながらアジアの宗教に関して部分的に言及しているが、ウェーバーのそれには及ばない。ウェーバーは、宗教改革の時期から中国文明が入る前の18世紀まで、宗教倫理が資本主義の成立において宗教の影響力は絶対的であったとする。(유승무, 「베버의 대승불교 해석에 관한 비판적 이해」, 『중앙승가대학논문집』Vol.5 No.-, 중앙승가대학교, 1996, 290~296쪽)ウェーバーの影響を受けた今日の社会学者たちは、儒教が東洋資本主義発展の原動力となるとする。(김석근, 「유교윤리와 자본주의 정신-‘베버 테제’의 재음미」, 『동양사회사상』Vol.2 No.-, 동양사회사상학회, 1999.)
  57. 57)カルヴァンが住んだジュネーヴを含むヨーロッパの雰囲気は、当時、中国の文物を競争的に受け入れる時代であった。ヨーロッパのルネサンスは、常識とは異なり、ヨーロッパ自体の力で発生したのではなく、中国明の皇帝が送った鄭和の南海遠征部隊の船がイタリアに停泊したことから始まったという。実際、当代の天才と呼ばれたレオナルド・ダ・ヴィンチの発明品の相当数が、鄭和の南海遠征部隊が持って行った図面と一致するという。(개빈 멘지스, 『1434』, 21세기북스, 2010, 242~254쪽)
  58. 58)앙드레 비엘러,『칼빈의 경제윤리』(성광문화사, 1985) 97~104쪽
  59. 59)小切手・為替手形は、銀行業・両替・貿易と投資に対する利子貸付・契約法・会計法など、イタリア金融革命の核心は東洋で初めて開発されてイタリアに伝わったという。ルターの宗教改革もまた、イスラムの理性中心の自由思想の影響であるという。(존.M.홉슨,『서구 문명은 동양에서 시작되었다』, 정경옥 역, 에코리브르, 2005, 233쪽, 377쪽)
  60. 60)カルヴァンが高利貸を認める以前と以後の経済状況を考察すると、カルヴァンの高利貸の承認は、封建領主の没落・宗教改革・民族国家の登場に伴う「商人および国家利益の強調」を背景に発生し、利潤追求と富の問題を別個とする中国の影響を受けた重商主義へつながった。(서광조,「공동체주의와 경제원리」,『경제학의 역사와 사상』Vol.4 No.-, 2001, 113~114쪽)
  61. 61)大巡思想において富国強兵は、姜太公が伝えた方法で、人類歴史の核心変数とみた。
  62. 62)韓国の社会学界もまた、いまだウェーバーの枠に閉じ込められているという。(차성환, 「독일 사회과학의 오리엔탈리즘」, 『담론201』Vol.7 No.-, 한국사회역사학회, 2004, 276~277쪽, 297쪽)理念型は、物質が理念を決定するという唯物論に対して、理念が物質を決定しうることを証明するためにウェーバーが用いた概念である。理念型は、実際に内角の和が正確に180度の三角形が存在するわけではないが、そうした三角形があると仮定しうるように、禁欲主義という理念的な形態も存在すると仮定しえ、そうした存在が物質に影響を与えうるという意味を内包している。理解社会学は、物質のみを分析する実証主義社会学や唯物論とは異なり、社会の本質である理念型を理解するには「共感」という理解の方法が核心的であるとする社会学である。ウェーバーは、物質的な要素のみを強調する実証主義と唯物論を批判し、資本主義は清教徒の禁欲主義という理念型(Ideal Type)によって発展したことを理解社会学的に論証した。
  63. 63)中国の科学文明に対する世界的な権威として『中国の科学と文明』(이석호 역, 을유문화사, 1989)を書いたニーダムは、中国を停滞した国というのは逆説中の逆説であるとする。ルネサンスから西洋の産業革命に至るまで、西欧の発明品は、ヨーロッパ中心主義者が何と言おうと、大部分が中国の発明を模倣したものであるという。水力織機・金属活字などほとんどが韓中日のものを模倣したという間接的な証拠がある。14-15世紀のルネサンスが主に中国の物質的な影響を受けたとすれば、18世紀のマテオ・リッチ以後からは精神的な影響を受ける。(황태연, 2011,『공자와 세계』1권, 389~399쪽)
  64. 64)実際、アダム・スミスが中国の影響で『国富論』を書く前、西洋の富国強兵策である『国富論』は、民本主義と正反対のマキャヴェッリの『君主論』が関の山であった。
  65. 65)「中国はヨーロッパのどの地域よりもはるかに富裕な国である。」(아담 스미스, 『국부론』, 황태연, 『공자와 세계』2권, 2011, 청계, 872쪽에서 재인용)マテオ・リッチの目には、中国は道徳的側面と物質的側面においてすべてが完璧に見え、宗教が欠如していた。ヨーロッパよりまさった世界である神国(神国)を建設するには、あと数歩進めばよいことと思われた。(황태연, 『공자와 세계』2권, 2011, 청계, 487~488쪽)
  66. 66)当時、西洋で流行したロココ文化は、正確に中国文化の模倣とみることができる。(황태연, 2011, 『공자와 세계』1권, 425~437쪽)
  67. 67)孔子は天の命を体現する自由主義者であったという。(시오도어 드 베리,『중국의 자유전통』, 표정훈 역, 이산, 1998, 188~199쪽)しかし、中国の五・四運動が儒教を自由の敵と規定したのは、西洋から入ってきた自由概念が「自由をより深く広く保障してくれる法律や人権のようなもの」であったためであるという。(김태만,「아시아경제의 성공과 좌절」,『국제해양문제연구』Vol. 12 No.1, 한국해양대학교, 2001, 9~10쪽)
  68. 68)朱謙之は、世界の文化的体系を宗教・哲学・科学の三つに分けうるが、インドが宗教文化の典型であるとすれば、中国文化は哲学文化、ヨーロッパ文化は科学文化として特徴づけられるとする。朱謙之は、中国哲学文化の影響を受けながら、ヨーロッパで哲学の時代がようやく到来しえたとする。(임병철,「르네상스, 계몽주의, 그리고 중국」,『서양사론』Vol.106 No.-, 한국서양사학회, 2010, 291쪽)
  69. 69)アダム・スミスと老子は「国家」は認めるが、社会は自生的な秩序によって運営されるとし、これをアダム・スミスは「見えざる手」、老子は「道」と表現したという。(구민희, 「아담스미스와 노자의 자유방임주의의 비교」, 『동양철학연구』 Vol.61 No.-, 동양철학연구회, 2010, 559~560쪽)老子の「無為」思想は儒教の経済思想に影響を与えた。
  70. 70)アダム・スミスのかの有名な「見えざる手」は、アダム・スミスが影響を受けた重農主義者ケネーの「無為(無為)」に対する翻訳レッセフェール(laissez-faire、自由放任)から出たという。無為において「為(為)」は「する」ではなく「させる」という意味で、「無為(無為)」は「させることがない」、すなわち「自由」を意味するという。「為(為)」を「する」と解釈すれば「無為(無為)」は神秘化される。(황태연, 『공자와 세계』1권, 2011, 42~43쪽)「無為(無為)」は道教の核心語であるが、『論語』は舜帝の政治を「見えざる手が調整する自由放任のような無為之治」と表現して「無為」を経済思想として使用している。(『論語』「衛霊公章」子曰 無爲而治者 其舜也與 夫何爲哉 恭己正南面而已矣)
  71. 71)西教は、東洋のような農耕社会ではなく遊牧社会を土台に成長し、家族主義に基づく共同体を脱して遊牧的な共同体を構築した。西教は同僚の信仰者を兄弟・姉妹と呼び、実際に兄弟・姉妹のような篤さを表現するため、共同体主義といえる。
  72. 72)カントは「私は何を知りうるか」「私は何をなしうるか」「私は何を美しいとするか」という三つの問いに対する三大批判書を書いたという。第一の問いは、科学的理性に相当する悟性について『純粋理性批判』を、第二の問いは、倫理的理性に相当する理性について『実践理性批判』を、第三の問いは、美学的理性に相当する審美的理性について『判断力批判』をそれぞれ書いたという。とりわけ『実践理性批判』では、『純粋理性批判』からは導き出せない人間の倫理論的義務について、人間は神に要請せねばならないとして、西洋義務論的倫理論の嚆矢を成す。
  73. 73)各思想の差異については、この論考の〈表2.2〉を参照。
  74. 74)循環的方法論は、万物が循環の論理のなかにあるとみなすため、事物を論理的四象限に分けて循環する体系の法則性を発見し、四象限に分けることを発見の始まりとする。四象限を数学に初めて導入したデカルトもまた、循環的思考の一つといえる。各宗教の思想別の影響関係はⅡ章で詳述する。
  75. 75)ウェーバーの社会学に対する方法論は、ハーバーマスによって、認識と関心に従って実証主義・解釈学—現象学・深層解釈学(マルクス、フロイト)の三つに分類された。(위르겐 하버마스, 『사회과학의 논리』박성수 역, 문예출판사, 1986, 7-41쪽)ハーバーマスの分類を象徴と意識を中心に再分類するとき、学問の方法論は循環的な関係にある。(박정진, 『한국문화 심정문화』, 미래문화사, 1990, 217쪽)
  76. 76)自由至上主義は、最初の中世時代の自由主義を経て現代に再誕生した自由至上主義をいう。とりわけ、ケインズ主義の政府介入に対する非効率性を主張する。代表的な著者にはロバート・ノージックがいる。ノージックと関連した本にはジョナサン・ウルフの『(ロバート・ノージック)自由主義政治哲学』(장동익 역, 철학과 현실사, 2006)がある。ノージックは「囚人のジレンマ」という経済学的不完全性定理といえるアローの不可能性定理から自由主義を救出した一等功臣であり、今日の新自由主義の哲学的基礎をより強力にした。(박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」, 『한국사회』Vol.7 No.2, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 57쪽)
  77. 77)ウェーバーの理解社会学もまた解釈学的な方法を用いたといえるが、ジンメルと比較したとき、相対的に、ニーチェについて哲学的に解釈受容したジンメルより、ウェーバーは経験科学的受容が大きかったといえる。(김덕영, 「니체와 모더니티 이론: 짐멜과 베버의 해석과 수용을 중심으로」, 『현상과 인식』Vol.25 No.3, 한국인문사회과학학회, 2001.)ベンヤミンもまたジンメルの方法を継承したが、ウェーバーの議論に対する反論となるため、ひとまず経済動機に該当して実証主義に分類した。
  78. 78)マルクスとウェーバーに隠れて陽の目を見なかったジンメルは、今日最も注目される社会学者である。ジンメルが数十年先んじて駆使した現象学的社会学方法は、今日の人文学を危機から救うほどの力を持っている。(김덕영,『현대의 현상학』, 나남, 1999, 85~94쪽)代表的な著書は『貨幣の哲学』(게오르그 짐멜, 안준섭 역, 한길사, 1990)、『ジンメルのモダニティ読み』(김덕영 역, 새물결, 2005)があり、国内では金徳永の翻訳書物が多く出版されている。
  79. 79)理解社会学は、ウェーバーがマルクスの唯物論的弁証法が欠如した人間の体験と理解を浮き彫りにした社会学である。ウェーバーの理解社会学は、英米式の実証主義社会学と差別化される高次元の社会学方法論として認められている。理解社会学の代表的な著述として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(김덕영 역, 길, 2010)が挙げられる。
  80. 80)ジンメルは、社会的相互作用とその形式を社会学の認識対象と定義し、ジンメルの社会学を形式社会学という。(김덕영,「현대인에게도 종교는 필요한가」,『현상과 인식』Vol.23 No.1-, 한국인문사회과학학회, 1999, 66쪽)ウェーバーとマルクスが巨視的な理論体系で社会を説明するとき、ジンメルは極めて軽い日常を主題とした研究をして、講演は超満員になるほど人気であったが、学界では認められなかった。ジンメルは、マルクスとウェーバーがいずれも注目しなかった日常の些細な事物に現れる社会学の形式に注目し、現象学という適合な方法を用いて、今日も認められる微視社会学を定礎した。
  81. 81)現象学とは、事物をあるがままに記述する学問である。現象学は、ある事物を観察するには常にある概念が入っているが、そうした概念を排除して(括弧に入れて)、事物と私が一つに連結されている意識の志向性を十分に活用して事物を記述することである。たとえば、現象学的心理主義は腹が立つとき腹が立つと表現し、ジンメルの現象学的社会学は金と個人の使用を第三者的観点からあるがままに叙述する。現象学は、実証主義や構造主義のように特定概念の限界に陥らずに新たな事実を発見するよい道具となる。現象学の方法論は、マルクス・フロイト・ニーチェのような重い理論ではなく軽い理論であるが、実証主義より人間の内面の真実を反映する斬新な方法論を提供して、現代の実存哲学など新たな学問の形成に広範な影響を及ぼした。
  82. 82)ジンメルの方法論を継承したベンヤミンは、「金に対する態度が神に対する態度に似ている」というジンメルの観察を発展させる。すべてが不確実な資本主義世界において、人生に起こるあらゆる事は、賭博の偶然性のように偶然にかかっている。神の恩寵もまた人間が予想しえない事であるから、人間は今日、賭博に没頭するように金に没頭しているという。流行がそれほど重要なのは、何が流行するか分からない偶然性のためであり、百貨店はこうした陶酔に捧げられた寺院となる。経済の循環に従って作られる流行を追う社会は、普遍的賭博場となった。(강신주, 1999, 135~165쪽)
  83. 83)義務論的倫理学を代表する人はジョン・ロールズである。ジョン・ロールズは義務論的経済倫理学を代表する人でありながら、今日、経済倫理全体を代表する人として脚光を浴びる理由は、ロールズによってこれまで隠蔽されていた社会正義の問題が経済学の真ん中に編入されえたためである。ロールズは、義務・正義などを計量可能な経済的変数とみなしうることを示した。ロールズの代表的著書には『正義論』(황경식 역, 이학사, 2003)がある。
  84. 84)ボードリヤールは、シミュラークル、すなわち現代経済の核心は、現代人が事物を消費するのではなく記号を消費しているということを最も明確に明らかにした学者として知られている。代表的な著書は『シミュラークルとシミュレーション』(장 보드리야르, 하태환 역, 민음사, 2012)などがある。
  85. 85)ブルデューは、社会の階層が趣向を通じて構造的に区別される現代社会の姿を最もよく照明した学者として知られている。代表的な著書は『ディスタンクシオン(区別)』(피에르 부르디외, 최종철 역, 새물결, 2005)がある。
  86. 86)功利主義は最大多数の最大幸福を至上価値として掲げるが、社会的総効用は極大化されうるものの、最大多数の最大幸福に該当しない少数者の権利が無視される。総効用の極大化を主張する厚生経済学は、功利主義思想を代表するといえる。功利主義もまた自由至上主義のように、西教伝統の共同体主義と背馳するという。(이재율, 「경제학에 미친 공리주의의 영향과 이에 대한 기독교적 반성」,『경영경제』Vol.32, 계명대학교 산업경영연구소, 1999, 103, 107~122쪽)
  87. 87)「関係中心」という言葉の意味は、経済と倫理のうち倫理優先を意味する。資本主義は表面は経済中心であるが、内面は他の社会のように社会が背景として位置づけられている。資本主義は社会を表面に上げてこそ持続可能であり、これをカール・ポランニーの言うように「大転換」と呼びうる。(원용찬,「경제학의 방법론적 비판과 문화경제의 패러다임」, 『문화경제연구』Vol.1 No.1 한국문화경제학회, 1998, 28~32쪽)
  88. 88)贈与論的経済学は、「利己的人間」を仮定する主流経済学の根本的な仮定が誤っていることを指摘する経済学である。資本主義社会を除く大部分の社会において、経済の動機は贈与を通じた循環であるため、資本主義経済学の「利己的人間」仮説は誤りであるという。代表的な学者と著書には、マルセル・モースの『贈与論』(이상률 역, 한길사, 2002)、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』(조한경 역, 문학동네, 2000)などがある。
  89. 89)ボードリヤールは、使用価値/交換価値の区分を通じたマルクスの政治経済学と、記号をシニフィアン(signifiant)/シニフィエ(signifie)に区分するソシュールの記号学を連結した。ボードリヤールの文化経済学における記号と意味作用の象徴概念は、マルクスの経済決定論が未開社会にまで適用されることを批判したポランニーの説と連結されるものであった。稀少性と剰余は、現代経済学が現れた大転換の時期に限って妥当な概念であるという。未開社会は対称性と中心性をもって動き、これをボードリヤールは「象徴的交換」という概念で整理して脱現代社会に適用し、記号とイメージを消費する象徴価値を新たに認識させた。(원용찬, 「경제학의 방법론적 비판과 문화경제의 패러다임」, 『문화경제연구』Vol.1 No.1 한국문화경제학회, 1998, 36~38쪽)
  90. 90)象徴価値と記号価値の違いは、象徴価値が記号価値に「既得権層の社会奉仕を意味するノブレス・オブリージュのような価値」を追加している点である。記号価値と象徴価値は、誇示消費か共有かによって区分される。最近、ビル・ゲイツが既得権層の社会寄付を促すように、既得権の寄付額、人類学において贈与を意味するポトラッチなどを象徴価値の例といえる。現代は、循環の障害による共同体の崩壊によって象徴価値が失踪しているのが問題の核心であるといえる。
  91. 91)マッキンタイアの代表的な著作は、今日の道徳的多元主義という問題的現実において、アリストテレスの共同体の徳を復活させることを要請した『美徳なき時代(徳の喪失)』(알래스데어 매킨타이어, 이진우 역, 문예출판사, 1997)である。
  92. 92)マイケル・サンデルは、「正義」という主題の講義で、ハーバード大学において20年間、最高の名講義に数えられ、最近、国内で話題となった。代表的な著作は、国内でベストセラーとして名を馳せた『これからの「正義」の話をしよう』(이창신 역, 김영사, 2010)である。
  93. 93)共同体主義は、自由主義が絶対視する自我概念が中世以後に現れた概念であるとし、社会契約主義が義務論を強調するのに比べて、アリストテレスやヘーゲルのように目的を強調し、現代人の問題が目的喪失にあると主張する。共同体主義は、自由主義が主張する価値中立性にはすでに価値概念が入っていると批判する。1980年代以降、米国で共同体主義が強く登場したのは、全世界的な不況に米国が影響を受けたものとみなされる。(이경직, 「자유주의와 공동체주의의 만남: 한국사회와 기독교」,『기독교사회 윤리』Vol.6 No.-, 한국기독교사회윤리학회, 2003, 142~146쪽)
  94. 94)韓泰東は、1960年代にすでに米国で数学博士・神学博士・医学博士・哲学博士を取得した国内学界の元老であった。延世大学で進められた、東西洋の思想を数学の隣接構造論で要約した『思惟の流れ』(연세대학교 출판부, 2005)についての講義は、東西洋全般にわたる難解な思想が極めて要領よく簡略化されて整理されうることを示した。
  95. 95)(이기동, 「한중일 유학의 과거 현재, 미래」,『동아시아 유교문화와 근현대』, 제4회 대진대학교 대학원 동북아 지역연구 학술회의, 2010, 1~3쪽)李起東は、形而上学的な性善・性悪説が今日の韓国と日本の社会経済的性格をいかに変化させたかについて詳細な説明を提供した。この論考では、韓中日が細部的には儒教において差異があるが、儒仏仙の大きな絵では中国が道教、韓国が儒教、日本が仏教的な性格が多く現れ、また日本は西洋の影響下で性悪説、韓国は性善説の伝統があったものとみなす。
  96. 96)カール・ポランニーは、マルクス以後、経済と社会を別個とみなしてきた主流経済学に対して、経済の社会的背景を最も体系的に説明した経済人類学を創始した学者として知られている。ポランニーはモースのように、資本主義以外の社会を調査してパターンを発見し、資本主義もまた社会的背景を隠蔽しているだけであることを明らかにした。代表的な著書として『大転換』(홍기빈 역, 길, 2009)がある。
  97. 97)ブローデルは、既存史学が注目しなかった微視的な歴史を史学の主要観点として導出したアナール学派を創設した学者で、微視史に照らしてみると、世界経済史は長期循環・超長期循環・短期循環の三つの循環をするという。ポランニーが同一の時間帯の互いに異なる構造を説明する経済の共時的な構造を明らかにしたとすれば、ブローデルは互いに異なる時間帯の同一の構造を見出す通時的な構造を明らかにしたといえる。代表的な著書として『物質文明と資本主義』上・下(페르낭 브로델, 주경철 역, 까치, 1999)がある。
  98. 98)ブローデルとポランニーは、経済社会は三つの層で構成されており、市場経済は社会を基盤に生じたことを資本主義初期の歴史を通じて証明している。(다베타 마사히로 외, 『순환의 경제학』, 삼신각, 2002, 68~69쪽)
  99. 99)モースは、道徳と経済は我々の社会が持つ二つの礎石であり、いまだ道徳と贈与が礎石であることを明らかにしえていないとする。(마르셀 모스,『증여론』, 이상률 역, 한길사, 2002, 48~49쪽)フロイトは現代の文明は欲望を抑圧するとしたが、エーリッヒ・フロムが述べたように、人間は贈与を通じて存在しようとする欲望を抑圧している。贈与が人間の本性であるとすれば、ひたすら交換のみをする現代は、最も欲望を抑圧している世代である。(에리히 프롬, 『소유냐 존재냐』, 범우사, 1990, 34-35쪽)モースは、どんな力が「贈り物を受ければ返さずにいられないようにして」マオリ族が贈与社会を維持しえたかについての問いを投げかけた。歪曲されたり抑圧されたりしなければ、物質の循環こそ人間の心を安心させる作用でありうる。(브뤼노 카르센티, 『마르셀 모스, 총체적인 사회적 사실』, 동문선, 2009, 45~49쪽)
  100. 100)印欧神話の代表的な事例が、ヒンドゥー教のカースト制度とギリシア・ローマ神話であり、そのうちでもトロイ戦争神話といえる。カースト制度は、宗教あるいは奉仕を担うバラモン、政治あるいは分配を担うクシャトリヤ、生産を担うヴァイシャに分けられる。トロイ戦争においてヘレネをめぐる三女神は、それぞれ三機能を代表するという。生産を担当するヘラ、分配を担当するアテナ、そして消費を担当するアフロディテがいた。自由奔放に見えるギリシアの女神も三機能体系に属していた。(조르주 뒤메질,『대담』, 송대영 역, 동문선, 2006, 213~216쪽)韓国もまた辰韓・馬韓・弁韓の三機能体系があった。(박용숙, 『한국음양사상의미학』, 일월서각, 1990, 223~225쪽)三機能体系は、普遍的な世界の贈与論的経済体制といえる。
  101. 101)コンピュータ・遺伝子工学と周易の関連性が明らかにされるにつれ、周易の天地人三才思想は人工知能あるいは複雑系理論の重要なメンターとなっている。三才思想には、カオスとフラクタル(fractal、相同性)を含む複雑系とネットワーク、自己組織化理論など現代尖端科学が発見したものを先取りして、新科学のメンターとなっている。(최민자,「생태정치학적 사유와 현대 물리학의 실재관」,『동학학보』Vol.14, 동학학회, 2007, 168~173쪽)三才思想は東洋的な複雑系経済思想で、複雑系経済学が持つ収穫逓増の原理を通じた贈与論的・循環論的経済思想を持っている。
  102. 102)複雑系経済学は、自然現象のうちよく起こる無秩序から最小限の仮定を導入して法則を引き出す複雑系科学を経済学に適用した科学である。複雑系科学はカオスとフラクタル(fractal、相同性)で構成されているが、景気循環と周易の元亨利貞が類似した論理として現れる。春夏秋冬の循環は経済循環と同じ原理で生成・発展する。あらゆる複雑系は春夏秋冬の循環系として現れるため、経済学にも循環の論理が現れる。(폴 크루그만, 『자기조직의 경제』, 부키, 2002, 115~137쪽)これまで文学理論などに五行理論を適用した研究はあったが、経済理論について五行理論を適用した事例はまれである。
  103. 103)生態主義経済学は、自然の流れを研究する生態学と、人間の欲望を研究する経済学を調和させた経済学である。環境危機に伴い、人間の欲望は自然の命令に従って増えたり減ったり調節されねばならない。生態学的経済学は、これまでの経済学のうち初めて「人間の欲望が抑制されねばならない」と主張した経済学であるという意義がある。生態学は、西洋科学において最初の三数分化体系であるという。人間—物質、あるいは人間—神(神、生命)という二者関係の歴史のなかで、人間—物質—生命(神)という三数分化体系が現実に現れたのが生態学であるという。生態学的経済学は、自然と人間を行き来するがゆえに、生産—分配—消費の均衡を誘導する。代表的な生態学的経済著書としてはE. F. シューマッハー『スモール・イズ・ビューティフル(小さいことは美しい)』(김진욱 역, 범우사, 2008)がある。
  104. 104)「人間の欲望が利己的である」とする主流経済学に対して、「利己的人間という仮説は西欧社会に限定されている」ことを示す経済学が贈与論的経済学である。贈与論的経済学はモースから始まるが、西欧を除いてすべては「事物に霊(霊)がある」と信じ、「多く持つ」より「多く与えうる」人を立派とみて、多く持った人は極めて指弾された。資本主義を除く人類社会は、大部分が今日見れば「不思議の国のアリス」が住む国のように、資本主義と反対の論理で世が動く。(이재혁, 「선물의 Hau」,『韓國社會學 45(1):』 2011, 37-72쪽)
  105. 105)共同体主義経済学は、『これからの「正義」の話をしよう』で有名なマイケル・サンデルなどの共同体主義倫理学に主に該当する。
  106. 106)소광섭 「오행의 수리물리학적 모형」,『과학과 철학』Vol.4, 통나무, 1994。五行の最小体系である数字5については、94年に中国の胡化凱・石建軍(『従五行唯一性看中医理論的合理性』, 中医研究, 1994)もまた追加的に証明したという。しかし、蘇光燮の「五元一次連立微分方程式体系としての五行理論」は、五行それぞれの特性については全く説明が可能でない不完全なモデルである。(소재학, 「음양오행설에 관한 연구」, 원광대학교 동양학대학원 석사논문, 2005, 19-22쪽)
  107. 107)강용균,「오행과 팔행의 수학적 모형」, 『한국정신과학학회지』, Vol.3 No.1, 1999.
  108. 108)시오노야 유이치,『경제와 윤리』(필맥, 2006) 80~81쪽
  109. 109)ギリシア・ローマ・中世社会の三機能体系は、現代社会にも現れている。人々が循環を意識的に感じなくても、複雑系のように無意識的に三機能は現れる。(조르주 뒤메질,『대담』, 송대영 역, 동문선, 2006, 213~216쪽)
  110. 110)朴容淑は、最近も『シャーマン神話』『地中海文明と檀君朝鮮』などを通じて、持続的に三才思想を通じた循環の普遍性を主張している。
  111. 111)崔英辰の研究は、易学思想についての応用学問的アプローチのための哲学的概念の確立に役立った。(최영진, 「역학사상의 철학적 탐구」, 성균관대학교 박사 논문, 1989)
  112. 112)이병철 「역전의 삼재사상연구」, 한국교원대학교 석사논문, 2011
  113. 113)最近、循環的経済観は、その根拠となる作用機制が「無意識的対称性」という精神分析学的機能において発見されつつある。中沢新一は、循環論的経済観とラカンの精神分析学を結合して、贈与論的経済現象の心理学的機制と、資本主義—西教(西教)三位一体—贈与経済の同型構造を明らかにした。(나카자와 신이치(2002),『대칭성 인류학』, 동아시아, 2004, 128~129쪽)
  114. 114)윤기봉,「증산사상에서의 근대성 해석 문제」,『종교교육학연구』, Vol.34 No.-, 한국종교교육학회, 2010.
  115. 115)이경원, 「대순진리의 근대성과 변혁 사상」, 『동학학보』Vol.9 No.2-, 동학학회, 2005.
  116. 116)고남식, 『해원주제 강증산 전승연구』, 건국대학교 박사논문, 2003
  117. 117)趙勇基は、新宗教発生理論の側面から見れば、現代の既成宗教である西教・仏教もまた誕生当時は新宗教であったため、宗教社会学の立場から、既成宗教の誕生当時の社会と大巡思想が開創されるときの社会状況が類似しているならば、新宗教としての大巡思想は既存宗教に匹敵し、あるいはそれ以上にもなりうる価値を持つということを、ウェーバーとデュルケームのアプローチを統合して示している。(조용기,「대순사상의 사회인식과 사회개혁사상에 관한 연구」, 대진대학교 석사논문, 2001)
  118. 118)大巡思想を普遍的な学問の領域とみる研究を考察すると、宗教学的研究として李京源(『한국 신종교와 대순사상』, 문사철, 2011)と、宗教心理学的研究として高南植(「단주(丹朱) 해원(解寃) 전승(傳承)에 대한 문학치료적 접근」, 『문학치료연구』 Vol.4 No.-, 2006)の研究がある。ポストモダニズム思想としての大巡思想についての本格的研究である朴マリア(「포스트모던사회와 한국신종교 ; 포스트모던 사회와 대순진리회」『한국신종교학회』, Vol.20 No.-, 한국신종교학회, 2009)の論文は、現代ポストモダニズムに伴う多元主義問題の解決策としての大巡思想を提示する。本論考もまたその要旨に同意し、多元性の具現方案として循環を提示する。
  119. 119)김승남, 「대순사상의 해원과 인존에 관한 연구」, 대진대학교 박사논문, 2011, 10~11쪽
  120. 120)新宗教運動とみなした学者には柳炳徳・金洪喆・李康五・洪凡草・裵庸徳などがおり、学会には甑山思想研究会・新宗教学会がある。
  121. 121)大巡真理会の多元性は、教理的側面では儒仏仙の統合、宗教儀礼と組織の側面では伝統儀式と女性の価値性を実現する現代思想の調和、修道の方法論においては聖職者と信者の役割を同時に遂行する多元的面貌で、現社会に代案を提示しうる現代的面貌を持っている。(박마리아,「포스트모던사회와 한국신종교 ; 포스트모던 사회와 대순진리회」『한국신종교학회』, Vol.20 No.-, 한국신종교학회, 2009, 25쪽 ; 「한국신종교와 여성 : 에코페미니즘의 관점으로 본 대순진리회의 여성관」『한국신종교학회』, Vol.22 No.-, 한국신종교학회, 2010)
  122. 122)최준식, 『한국의 종교, 문화로 읽는다』1,2,3 (사계절, 2004)
  123. 123)나권수, 「대순사상에 나타난 지상신선사상연구」, 대진대학교 석사논문, 2008
  124. 124)三教合一と関連した代表的研究には金鐸と崔俊植の研究があるが、春夏秋冬という大巡思想の核心命題と連結することはできなかった。金鐸は、韓国精神文化研究院博士論文『甑山姜一淳の公事思想』(1995)において、『典経』と関連した膨大な漢文句の出典を明らかにし、大巡思想における儒仏仙三教合一の伝統を明らかにした。崔俊植は、米国テンプル大博士論文『中国と韓国の三教合一論発達史』(지문당, 2009)において、大巡思想と儒仏仙の習合的性格を論じ、大巡思想と関連した初の海外博士を取得した。「万物が春夏秋冬として循環し、自動的に見える循環が『土』のような絶対的存在の介入によって可能である」という、春夏秋冬という大巡思想の核心命題と大巡思想を連結した文としては、いまだ正式な論文として発表はされていないが、申允基の文章が代表的である。
  125. 125)김태수, 「대순사상의 민족주의적 요소에 대한 재해석」, 대진대학교 석사논문, 2001
  126. 126)진정애, 「대순사상에서의 심론연구」, 대진대학교 석사논문, 2005
  127. 127)大巡思想を韓国的フレームとみる研究には、李京源(『한국의 종교사상』, 문사철, 2010)と高南植(「해원설화에 대한 문학치료적 접근」,『문학치료연구』Vol.6 No.-, 한국문학치료학회, 2007)がある。
  128. 128)(고남식, 「단주(丹朱) 해원(解寃) 전승(傳承)에 대한 문학치료적 접근」, 『문학치료연구』 Vol.4 No.-, 2006)フロイトは、あらゆる人間関係を含めて事物の関係に至るまで、あらゆる関係を、陰陽に基づく性(性)を通じて父と子の関係に還元させた。これは、今日、易学が万物を父と子の関係に連結したことと通じるところがある。易学は、聖人という人格的存在によって、人格的存在である天地の意が自覚され闡明されることによって、天地と人間が父母と子女という関係として定位されることを明らかにする。(이현중,「정역의 干支 度數 원리(1)」,『동서철학연구』Vol.27 No.-, 한국동서철학회, 1998)
  129. 129)정지윤, 「재소자 교정교육에 대한 종교적 대안연구」대진대학교 석사논문, 2001
  130. 130)김태수, 「헤겔 정신현상학에 나타난 ‘자기-타자화’의 음양의 변증법」, 2009 대순문예, 대순진리회 여주도장 홈페이지.
  131. 131)김승남, 「대순사상의 해원과 인존에 관한 연구」, 대진대학교 박사논문, 2011
  132. 132)金奉燮は、「大巡思想が現代共同体主義が持つ矛盾を解決しうる代案である」という本論考と同じ論旨の文を展開し、現代共同体主義と大巡思想の共同体主義を詳細に比較した。本論考は金奉燮の研究に続いて、大巡思想が持つ経済思想と循環原理に注目した。(김봉섭, 「현대사회 공동체 이념으로서의 대순 사상에 관한 연구」, 대진대학교 석사논문, 2010)
  133. 133)이 현, 「조선후기 종교적 근대성과 평등이념의 전개양상」, 대진대학교 석사논문, 2010
  134. 134)박경혜, 「대순사상의 생명관 연구」, 대진대학교 석사논문, 2001
  135. 135)김태수, 「환경윤리의 도덕적 지위 문제에 관한 대순사상적 고찰」, 『제5회 대진대학교 대학원 학술대회』, 대진대학교 대학원, 2011