陰陽合徳・神人調化・解冤相生・道通真境という大巡思想の循環的経済観は、それぞれ経済動機の回復、経済倫理の再生、経済理念の調和、環境危機の克服という経済問題に実際的に適用される。陰陽合徳に基づく待対的(待対的)自由至上主義財富観は経済動機の回復に、神人調化に基づく回帰的(回帰的)社会契約主義分配観は経済倫理の再生に、解冤相生に基づく功利主義的労働観は経済理念の調和に、道通真境に基づく流行的(流行的)共同体主義財貨観は環境危機の克服に寄与する。
まず、陰陽合徳に基づく待対的(待対的)自由至上主義財富観を経済動機と関連して考察すると、待対的(待対的)自由至上主義財富観は、今日、道教資本主義を発展させた自由至上主義が意図せずもたらした経済動機の喪失を、循環の力によって回復させる。
最初、自由の拡大という経済動機の問題を解決しようとして成立した道教は、儒教の力に押されて循環論に偏っていたところ、西洋に伝播して西教の積極的博愛精神と結合し、プロテスタンティズムのような自由至上主義へと発展し、人類の経済動機を大きく振作する。しかし、自由至上主義が振作させた人類の経済動機は、西教が持つ循環性の不足によってかえって大きく後退し、物質的欲望は肥大して精神的動機は虚弱な賭博資本主義へと転落する。相剋的な自由至上主義がもたらす精神的傷によって、人類は自由の拡大という経済動機を喪失し、上流層ではカジノ資本主義、一般人はロト資本主義に埋没する。資本主義を生きる現代人は、賭博のような偶然に運命を委ね、辛うじて一日一日を耐え抜き、何の積極的自由も実現できずにいる。
人類の経済動機の危機に対して、大巡の待対的自由至上主義は、ただ市場で商品を購入しうる自由のみを自由と規定した自由至上主義とは異なり、経済の循環性に立脚して、制度の基礎構造改革という自由の原初的な力の復活を、現代の経済動機危機の代案として提示する。大巡の待対的自由至上主義は、第一に、道教資本主義の循環的経済動機回復思想をまず強調し、第二に、自由至上主義の経済動機回復の問題点を循環性の危機として診断し、第三に、自由至上主義的財富観の経済動機危機の代案として陰陽合徳を提示し、第四に、陰陽合徳思想によって変化した自由至上主義である待対的自由至上主義がいかなる形態かを示す。
まず、大巡の待対的自由至上主義が道教資本主義の循環的経済動機回復思想を強調することを考察すると、大巡思想において財富は循環の結果であるため、循環を妨げない限り、財富に対する欲望は待対性(待対性)によって極めて強調される。[580]
我が事は、他人が死なんとするとき善く生きんとする事であり、他人が善く生きるときに栄華と福禄を享受せんとする事なり。(『典経』教法一章六節)
上文は、自由の拡大という経済動機の回復が人間の根源的な欲望であり、その欲望は他人と比較したときにもいっそう強調される重要な徳目となることを明確に提示している。とりわけ、人間として現実的な生と栄華・福禄という自由の拡大を追求することを強力に要請している。[581]東洋の古典的な「道人」という観念のために、大巡の財富観をしばしば財富観を否定するものと誤解するが、大巡思想の財富観は、循環を前提とする限り、自由至上主義財富観よりもさらに肯定的である。
次に、大巡の待対的自由至上主義が自由至上主義の経済動機回復の問題点を循環性の危機として診断することを考察すると、大巡思想において教育は経済循環のための核心的鍵であるため、循環を放棄して官吏・俸禄など現実的利益に偏る公利中心の教育を極めて批判する。
「この世に学校を広く建てて人を教えるのは、やがて天下を大きく文明化して三界の事に付し、神人(神人)の解冤を解こうとするものであるが、現下の学校教育は、学ぶ者をして官吏・俸禄などの卑劣な公利にのみ陥らせるため、それゆえに局外で成道することになった」と告げられ、言葉を終えられた。(『典経』教運一章十七節)
上文は、自由至上主義は自由を強調して、儒教に押されてまともに発展できなかった道教資本主義を受け入れて拡大発展させるのには寄与したが、自由の基盤である社会を無視して過度に自由を強調し、かえって自由の基盤である社会を崩し、基本的な自由まで崩して経済動機を極めて疲弊させたことを示す。とりわけ、自由の本質である社会制度改革を機能とする学校を、官吏・俸禄という個人的目的で運用することによって、全体の経済循環を決定的に崩したことを指摘している。
次に、大巡の待対的自由至上主義が自由至上主義的財富観の経済動機危機に対して提示する代案を考察すると、待対的自由至上主義は、倫理と財利のうち財利を優先する自由至上主義とは逆に、倫理を優先して提示する陰陽合徳を示す。陰陽合徳とは、太極において上にある火と下にある水の上下の順序を変え、水を上に、火を下に置いて力の均衡を回復し、自動的に循環させるのと同じ理をいう。[582]根本である倫理が水、財利が火であるとすれば、待対的自由至上主義は、火(財利)を水(倫理)の上に置く自由至上主義とは異なり、水(倫理)を火(上)に置く地天泰卦を実践する。
『大学(大学)』に「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば、則ち道に近し(物有本末 事有終始 知所先後 即近道矣)」とあり、また「其の厚くする所の者に薄くして、其の薄くする所の者に厚きは、未だこれあらざるなり(其所厚者薄 其所薄者厚 未之有也)」とあるが、これを鏡として働け。(『典経』教法二章五十一節)
あらゆる事は、根本を厚く先にし、末を後に薄くせねばならないのに、根本である倫理道徳は薄く後にし、末(末)である財物は厚く先にする現代人のような人は失敗することを警告している。『典経』が強調する『大学』では、道徳を本(本)、財物を末(末)とし、財物を道徳より優先する場合に大きな危機に直面することを警告している。しかし現代人は、末端(末端)である財物を徳より優先して、自分でも知らぬうちに危機を助長している。
次に、大巡の待対的自由至上主義は、西洋の自由至上主義が陰陽合徳思想によって変化した待対的自由至上主義がいかなる形態かを示す。
我らの事は、他人をよくする功夫(勉学)である。他人がよくなり、残ったものだけを占めてもよいのであり、全明淑(全琫準)が挙事するとき、常人を両班とし、賤人(賤人)を貴くしようとする心を持っていたがゆえに、死してよくなり、朝鮮の冥府となったのである。(『典経』教法一章二節)
上文は、大巡の待対的財富観が、社会の力を借りずに個人の力で「社会保障がしてくれること」と同一の効果を創出しうることを示す。また、個人の財富をすなわちその人の能力とみる西洋の自由至上主義的財富観とは異なり、大巡の待対的自由至上主義は、他人の必要によって能力を発揮することになる「必要主義」であり、他人のために働いた功徳も財富となることを表す。あわせて、待対性によって物質より倫理を優先していることも示す。
道教と自由至上主義財富観において、社会的正義は個人の自由を妨げうるとする。道教は、儒教の仁と礼を「自然がその機能を喪失したとき最後に出てくるものが道(道)である」と表現した。[583]カルヴァンにとって財富は神の救済の予定に対する証明であり、他人が関与する問題ではなかった。道教とカルヴァン主義・自由至上主義は、いずれも最小限の国家介入を要請し、個人の自由を拘束しない社会福祉を希望する。自由至上主義を違背せずに社会保障を増進させるというジレンマは、資本主義の核心問題である。待対的財富観では、社会的保障を提供する個人も損にはならない。大巡思想では、私がよくなるには、私がまず与えればよい。宇宙は循環するため、私が与えた財富(財富)はどんな形であれ再び返ってくるからである。待対的財富を増やすには、「他人が与えてから返す」のではなく「他人が与える前にまず与える」という順序一つだけを変えればよいだけであるという。待対的財富を積むための順序を知るとき、道(道)に近いといえる。
自由至上主義的経済動機回復が失敗した理由は、自由至上主義的経済動機回復が追求する自由が、社会契約主義の正義、功利主義の共同体利益、共同体主義の共同体の卓越性と互いに衝突して、自由への懐疑感が生じたためである。[584]待対的自由至上主義において、「私がよくなるために他人をよくする」人間像は、社会契約主義と功利主義・共同体主義をすべて包んで経済動機を回復した人間像を示す。
以上、待対的自由至上主義が個人—経済の側面にある「経済動機」という経済問題を解決する過程を要約すると、次の表で表すことができる。
〈表4.1〉大巡思想の待対的財富観
| 詳細内訳 | 『典経』関連の一節 | |
|---|---|---|
| 自由至上主義的財富観の承認 | 現実の成功が生の重要な目的となる | 他人が善く生きるときに栄華と福禄を享受する功夫(教法一章六節) |
| 自由至上主義的財富観の問題点 | 自由の範囲の濫用(陰陽合徳がならない)/倫理より利益を優先/人性より公利中心の教育 | 学校の学問が官吏・俸禄に偏る(教運一章十七節) |
| 自由至上主義的財富観の問題点の解決方案 | 陰陽合徳/私が受けて与えるのではなく、まず与えて受けることへ順序を変える | 先後する所を知れば則ち道に近し(教法二章五十一節) |
| 大巡の待対的自由至上主義財富観 | 能力主義 VS 必要主義/社会正義も「功徳」という財富となる/待対性によって物質より倫理を優先 | 他人をよくする功夫(教法一章二節) |