Ⅰ. 序論(はじめに) · 1. 研究の必要性

神を冒涜した罪により、ギリシア神話のシーシュポスは、永遠に岩山の頂へ岩を上げてもまた転がり落ちるという苦痛の罰に処せられたという。シーシュポスのように、極度に発達した物質文明のなかにあっても満足を知らない現代人の精神的苦痛は、現代人の経済哲学が儒仏仙・西教に由来しながらも、自らの存在だけでは問題を解決しえない自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義の枠に閉じ込められ、循環[1]という方法によってその枠を抜け出せずにいることにある。とりわけ循環は、シーシュポスのように絶対者の助けなしには決して岩を山頂に上げることはできないという秘密を蔵しているからである。

宗教が倫理を発展させ、倫理が経済を発展させるという宗教と経済の好循環を信じない現代人は、経済思想が宗教に起源したことを久しく忘れている。[2]しかし、宗教が経済発展の障害になるとして宗教を無視した近代以降、実質的な経済はかえって後退し、[3]人間はウェーバーの言う直線的合理化という「鉄の檻」に閉じ込められるに至り、[4]経済思想はすなわち宗教思想であるとしたウェーバーの主張が再び注目されている。[5]実際、今日、韓中日の東洋三国が世界経済を主導するに至り、経済と倫理のうち倫理を優先する儒仏仙の循環的経済思想が、むしろ経済発展の原動力として浮上している。[6]

ウェーバーが述べたように、宗教は時代の経済的危機を克服してきた。[7]東洋の代表的宗教である儒教・仏教・道教と、西洋の西教(西教)[8]は、いずれも文明の枢軸時代と呼ばれる鉄器時代への転換期に、経済体制の変化に対応する思想体系として、王室と基層民衆の呼応のもとに発展してきた。[9]今日、経済発展の原動力である宗教がかつて経済発展の障害とみなされたのは、宗教自体の問題ではなく、世界経済が相互に交流して規模が大きくなったにもかかわらず、宗教は相互の循環がなされず、互いに衝突したためである。[10]宗教が互いに衝突する新たな状況において、人類は、宗教が経済問題を解決していた過去の循環の知恵を活かして諸宗教を相互に循環させる力量を発揮できず、既存の宗教を廃棄してしまうという過ちを犯してしまった。[11]

宗教を遠ざけた現代人は、ウェーバーが予言したとおり、事物がすべて直線的に[12]合理化される鉄の檻に閉じ込められ、経済はいっそう困難になった。そのなかで、儒仏仙の伝統が強い韓中日の東アジア三国の経済的発展は、儒仏仙と西教の経済思想の長所を統合して経済と倫理を循環させうる新たな宗教の出現を期待させるに至った。[13]

「マテオ・リッチ(利瑪竇)が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」[14]とする西洋経済学の東洋的淵源と、[15]「金は循環の理によって生じ、用いられる物である」[16]という、循環性によって特徴づけられる大巡思想の経済観は、儒・仏・仙と西教の長所を統合して、経済と倫理の新たな循環的経済観が可能であるとする。大巡思想に現れた西洋思想の東洋的淵源によれば、西教は東洋の儒・仏・仙と結合して個人と共同体の葛藤を解決する西洋の経済倫理となり、倫理と経済のうち倫理を優先する東洋の循環的経済観は倫理と経済の葛藤を解決するため、個人と共同体・経済と倫理の循環性を通じて儒・仏・仙と西教の衝突を解決できるからである。

経済学と倫理学の相互循環についての主張は古くからあったが、倫理学と経済学の基盤となった儒・仏・仙と西教が循環的関係にあるという主張は、大巡思想が初めてである。大巡思想は、経済と倫理が循環するのみならず、個人と共同体もまた循環関係にあるため、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸から生じる経済問題はすべて循環的方法によって解決しうるとする。「金は循環の理[17]によって生じ、用いられる物」という意味のなかには、第一に、万物が天命(天命)によって生じ、各自の必要に応じて使用されるという循環論的分配倫理が込められているのみならず、第二に、儒仏仙と西教に基づく経済思想もまた内部的に循環するという意味が含まれている。

今日の経済問題の核心軸は個人—共同体、倫理—経済といえるため、循環の危機を具体的にみると、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸に従って四つに区分される。第一に、個人—経済の側面における経済動機崩壊の問題[18]、第二に、個人—倫理の側面における経済倫理の失踪、第三に、共同体—経済の側面における資本主義—共産主義という体制の問題[19]、第四に、共同体—倫理の側面における、ますます深刻化する環境危機の問題である。

[原文图示:image1

[図1.1] 現代の経済問題

インターネットは世界を、万人が互いに共感する共感の時代[20]にしたが、むしろ技術の発達によって一つのウイルスが世界全体のネットワークを崩壊させる今日、循環の麻痺による経済危機は、過去の経済危機とは比較にならぬほどその規模と余波が日ごとに深刻化し、人類は日常的な経済崩壊の危険に晒されている。東洋宗教では早くから、経済と倫理のうち倫理を優先すれば経済を生かしうるとする。「経済(経済)」という語の起源と、東洋的思想の精髄である『大学』では、経済と倫理の相互循環を強調している。東洋の「経済(経済)」とは、「世界の経緯(経緯)を立てて民を救済(救済)する」という「経世済民(経世済民)」の略[21]であり、『大学(大学)』では「徳(徳)は本であり、財(財)は末である(徳者本也 財者末也[22])。本を外にして末を内にすれば、民を争わせ、奪うことへと導く(外本內末 爭民施奪)。このゆえに財が集まれば民は散じ、財が散ずれば民が集まる(是故財聚則民散 財散則民聚)[23]」として、倫理を優先してこそ経済の循環を再生しうるとする。今日の世界経済は、「経済(経済)」の定義および『大学(大学)』とは正反対に、受け取るばかりで与えない一方的な経済論理によって循環の危機に直面するに至った。

西洋経済学において、個人と共同体の循環問題は、今日「囚人のジレンマ」のようなゲーム理論に基づく行動経済学に答えを求めている。[24]行動経済学において経済の循環を回復させる方法もまた、個人と共同体の優先順位の交替である。「囚人のジレンマ」とは、二人の囚人が捕らえられ、双方に「相手より先に白状すれば罪を軽減する」という条件が与えられたとき、囚人がいかなる判断を下すのが最も賢明かを研究する学問である。囚人のジレンマを研究する行動経済学では、両者とも白状しなければ皆に有利であるが、両者とも白状するという最悪の決定に陥りやすく、今日の市場経済はまさに囚人のジレンマのように不必要な危機を経ており、協同を通じて最悪の危機状況を脱しうるとする。[25]とりわけ囚人のジレンマは、状況が反復・循環するほどより賢明な判断が期待できるが、現実は逆に現れているのが嘆かわしい現実である。

米国の世界的な資本主義経済批判家ガルブレイスは「経済は道徳という海の上に浮かぶ島である」とし、経済と社会倫理が衝突して新たな経済思想の出現なしには環境危機と人間疎外を解決できない今日、経済が社会倫理と無関係であるとするのは一つの幻想にすぎないとする。[26]物理学・化学などと同じくノーベル賞に含まれ、あたかも物理学・化学のように実証的な科学として認められようとする経済学[27]は、実は倫理学から出発した学問であるという。[28]1998年ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、経済学は倫理学と工学の二つに起源するとする。[29]ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』[30]で言及したように、西洋資本主義は、財富の獲得が救済の徴であるとするカルヴァン[31]の予定説[32]に由来した。資本主義は倫理学から生じたのみならず、宗教に起源した。[33]

行動経済学が提示する社会と個人の循環問題に対する解法は、明確な結論は導いているが、実際に人類が発展させてきた遺産を盛り込むことはできない。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』[34]で示したように、社会と個人の循環問題は、伝統的に宗教と経済の関係についての経済—宗教—倫理学的研究においてより深く扱われてきており、具体的な答えを提示しうる。

循環は、経済と倫理の諸問題を解決するポストモダニズム的な解決方法である。[35]今日、循環的経済観は前近代的経済観と誤解されるが、[36]自然科学において循環は、自然が証明したとおり、万物の長所を最大限に活かして最も効果的に作用させる方法であるという。アインシュタインが円を通じてニュートン物理学を相対化し難題を解決したように、循環は互いに相反する直線運動を和解させる、一段高次の運動である。[37]アインシュタインの循環的世界観においてユークリッドの数学がすべて書き改められたように、[38]科学技術の発達によって循環となった世界では、経済学もまた循環的に書き改められる。倫理と経済の循環は経済学において最も重要な要素であり、今日、改革志向が消え失せたのは、経済循環に対する信念がなくなったためであるという。倫理道徳を金科玉条としてきた韓国においても、今日、大統領や宗教者が冬季五輪招致のような文化的イシューの経済的効果をテレビで臆面もなく語っているのは、今後の韓国経済の発展のためには危険なことである。

倫理と経済の循環が経済の核心である理由は、経済循環が今日麻痺してはじめて明確に現れるようになった。第一に、循環は微視的に経済発展の動機を提示する。循環が麻痺すると、安定を求めようとする人間の属性によって社会が極度に保守化し、発展が停滞した。「恒産(恒産)なければ恒心(恒心)なし」[39]という孟子の言のように、今日まで循環的経済観を維持してきたアルジェリアの農民を調査していたフランス構造主義[40]社会学者ブルデューは、循環的経済観が消えれば発展への意欲が消えることを発見し、現代資本主義の停滞の原因に対する答えを循環的経済観に求めた。[41]

第二に、循環は巨視的に経済危機を治療する。循環は、西洋のラッセルのパラドックスのように、直線的な論理構造の最善の解答である構造と過程が解決しえない解答を提示する。血が身体全体を循環し、不足する部分のものを溢れる部分から補うように、循環は経済全体の効率性と底力を最大化する。今日、循環の麻痺によってもたらされた現代人の経済動機の喪失、道徳的葛藤、資本主義と共産主義の理念紛争と環境問題という経済危機に直面しており、経済危機は東洋の循環原理によって解決しうる。

経済観のみならず世界観においても、循環性は大巡思想のみの固有な特性ではない。循環思想は宗教の一般的な特性である。[42]この論考で強調する大巡思想の循環性は、「部分の和は全体より大きい」とする複雑系科学のように、儒仏仙と西教のすべてが中心的な役割を果たす多元的循環性である。

また、既存の科学が循環論に基づかなかったからといって、循環性の科学が既存科学より優越しているわけではない。循環性の基礎となる陰陽の概念は、今日その科学性が大いに認められている概念であるにもかかわらず、ウェーバーが明らかにしたように、過去には多くの問題点を抱えていた。[43]とりわけ陰陽思想に立脚して万物を象徴化する儒教の場合、「儒教の典憲」と名づけうるほどの問題を抱えていた。[44]今日の大巡思想の循環的経済観は、過去の循環と陰陽が持っていた短所を克服して長所化した思想であり、他宗教より優越していると主張するものではない。[45]

宗教では現実に現れる経済思想についての言及はまれであるが、あらゆる思想と同じく、経済において宗教思想の最終的な結論が集約されるため、後代の宗教ほど経済に関する思想が明確であるといえる。大巡思想には、経済と関連する宗教の思想が他宗教と比べて明確に言及されている。今日、循環的経済観は極めて包括的で複雑な理論を必要とする。各宗教の経済思想の長所を発展させた大巡思想の循環論的経済観を考察することにしよう。

注释

  1. [1]すべての者が一等になって他人の認定を受けうる方法は、循環しかない。大巡(大巡)の「巡(巡)」は、「循環する」という意味が強調されている。
  2. [2]マルクスは「宗教は人民の阿片」とし、苦しく辛い所には宗教があるとして、宗教を催眠のような虚偽意識とみなしたが、ウェーバーは宗教と経済は循環関係にあるとする。宗教と経済の関係を上部構造と下部構造として説明したマルクスに対する最も有力な批判者としてウェーバーが知られているのは、ウェーバーがニーチェのように宗教と経済の循環的関係を示すことによって、マルクスの「歴史」概念の虚構性を暴露したためである。(유석춘,『막스베버와 동양사회』, 나남, 1992, 37쪽)ニーチェは経済(oekonomie)の概念を、人間の根源的な自己理解と同時に、自然と存在全体の混沌と秩序が反復される循環過程を叙述するために登場させる。ニーチェは道徳を「人間情緒の記号言語」という経済学的観点から眺める。ニーチェにとって「情緒の経済」は「力への意志」と対をなす重要な概念であった。(임홍빈,「‘정서의 경제’와 자연주의적 심리학」,『철학연구』Vol.113 No.-, 대한철학회, 2010, 291~303쪽)易学において相剋が相生の原動力となるように、循環的世界観において苦痛は発展の原動力となり、経済は宗教と循環関係に置かれる。
  3. [3]「労働の終末」という表現に代弁されるように、人間の労働はますます尊厳を失いつつある。「人間がもはや働きたがらない」という論理は、「人間の尊厳が近代以降、仕事によって生じた」という歴史的事実を歪曲したものである。近代の市民は、労働をすることによってその尊厳を獲得したためである。現代はますます失業が増加しており、失業は最も重要な経済問題である。(도미니크 슈나페르, 『노동의 종말에 반하여』, 김교신 역, 동문선, 2001, 15~16쪽)
  4. [4]ウェーバーはニーチェの価値革命を受け入れ、ニーチェの価値革命以後、世界の意味を求めることは無意味であるとした。「神は死んだ」という言葉に代表されるニーチェの価値革命は、マルクスのような物質的革命よりさらに恐ろしく人間の精神を変化させた。ニーチェの価値革命は、宗教のみならず科学・歴史すらそれ自体としては無意味であることを暴露した。(유석춘, 같은 책, 42~43쪽)鉄の檻は、一切の宗教的思考を否定して経済的論理のみを認める合理化の世界である。ウェーバーは、西教においてのみ科学と資本主義が出現しえたのは、神以外には祖先も否定して一切の伝統と魔術を否定する西教の伝統のために発生したとする。近代文明は「呪術の庭」から抜け出す代償として、何の感情もなくすべてが合理化される「鉄の檻」に閉じ込められることになった。「鉄の檻」は、単にすべてが合理化されて冷静であるという意味を超え、歴史すら無意味であるという虚無主義を意味する。ニーチェは新たな虚無主義に対する代案として永劫回帰、すなわち循環を提示した。ニーチェの言う「神は死んだ」という言葉は、循環的世界観の「神」が復活し、直線的意味の「神」が死んだという意味に解釈される。ニーチェ以後、彼の永遠回帰という循環思想はフロイトによって精神分析へ発展し、以後ラカン・ジジェクのような精神分析や、フーコー・バトラーなどの新歴史主義へ継承されて、今日の人文学界を二分している。両学派は、新歴史主義が精神分析と極めて異なるかのように主張して極めて対立するかのようだが、極めて親和的である。(권택영, 「영원회귀: 신역사주의와 정신분석의 대립을 넘어서」,『현대영어영문학』, 한국현대영어영문학회, Vol.48 No.-, 2004, 1쪽)
  5. [5]1960年代以降、後期産業社会へ進入した世界の人文学界は、ウェーバーの循環論理が基盤とするニーチェの時代であるポストモダニズムの時代となった。ウェーバーは、功利主義とマルクス主義が主流であった時代に、資本主義の原動力は金ではなく生の意味であると主張した。ウェーバーはマルクスとの差異点と方法論的多元主義で知られているが、マルクスとウェーバーは、「無限を有限で捉えうると考える」ドイツの神秘主義的伝統のなかで方法論的一貫性を維持している。ただ、ウェーバーはマルクスとは異なり、共同体を志向しうる人は特殊に限定されており、マルクスのような全体的な共同体は幻想であるとする。(윤원근,「독일 지적 전통의 신비적 세계관과 베버의 공동체 지향성」,『한국사회학회』Vol.34 No.-, 2000, 34~35쪽)しばしばポストモダニズムと呼ばれる文化的志向の思想的源流は、ニーチェ・フロイト・マルクスと呼ばれる、ソシュール以後の記号学が出会う地点で形成されたという。貨幣・記号・無意識は、近代的日常のなかに循環している脱近代の源泉であり事例である。(김상환,「화폐, 언어, 무의식」,『철학 사상』Vol. 56 No.-, 철학연구회, 2002, 23-24쪽)
  6. [6]世界文明の政治学的地形図を研究する学者たちは、世界文明を率いていた西洋とイスラムの文化が危機の兆候を示し、中国を含む東アジア文化圏が希望として登場しつつあるとする。(도미니크 모이시, 『감정의 지정학』, 랜덤하우스, 2010, 10-15쪽)韓中日の成長が儒仏仙と関連したという根拠は、韓中日の美学を通じて知ることができる。韓中日の美学は、イスラム・キリスト教の文化とは明確に区分される。韓中日の美学は、儒仏仙と関連した風流・興あるいは恨・無心として現れる。(신은경,『풍류(동아시아미학의 근원)』, 보고사, 1999, 589~594쪽)日常が文化を最もよく反映するため、日常と密接な美学が哲学と宗教の国民性への影響を最もよく反映するとするとき、興は道教、無心は仏教、恨は儒教に近いといえる。階層別に、興は全階層、無心は知識人階層であるとすれば、恨は疎外階層が多く、恨は両価的で複雑な感情といえる。韓中日は互いに地域的に近接していたが、特異にも儒・仏・仙において異質な様相を示す。財物を大切にする道教が、中国の魯迅が述べたように中国の根拠であるとすれば(김덕삼, 『도교의 기원』, 시간의 물레, 2002, 48~62쪽)、仏教のように生と死の境界を恐れない武士精神に代表される日本は代表的宗教として仏教がみなされ、孔子の祭祀である釈奠大祭が世界で唯一残り、性理学を宗教的な国家理念として重視した韓国は儒教国家として指目される。
  7. [7]世界宗教は、経済が招いた不平等に対する正当化機能として出現したとみる。(막스 베버, 『세계종교와 경제윤리』, 『막스베버 종교사회학 선집』, 나남, 2008, 142~146쪽)儒仏仙とキリスト教の教理は、気候と風土に適合した合理的な生産と分配の様式と多くの共通点を持っている。儒仏仙とキリスト教を気温順に見ると、最も寒い北方地方の儒教、最も暑い地方の仏教、相対的に暑い地域の道教があり、西教は遊牧民族で砂漠という環境を持った。インドの場合、生産に大きな問題がなく、また消費にも大きな問題がなかったため、現実超越的な仏教教理が適合し、道教は儒教より生産効率の高い温和な南方であったため自由主義的な道教教理が発展し、儒教はより寒い北方で功利主義的教理が発達する。西教は砂漠という極限状況で共同体的な教理として発展する。宗教が社会に適応すると、宗教は神観と世界観として固まり、文化別に部分と全体を見る観点が固まって経済に影響を与えた。崔奉永は、各文明は個体と共同体を個別的観点から見るか全体論的観点から見るかによって分類されうるとし、西教は神と人間を従属関係として見る「統体—従属者的世界観」から近代の「個別者—合体的世界観」へ、中国は「統体—部分者的世界観」、インドは「統体—縁起者的世界観」として分類されるとする。(최봉영,「‘사회’개념에 전제된 개체와 전체의 관계와 유형」,『동양사회사상』Vol.1 No.-, 동양사회사상학회, 1998, 88~101쪽)東西洋を比較してみるとき、個別者—合体的世界観は道教、統体—部分者的世界観は儒教、統体—縁起者的世界観は仏教、統体—従属者的世界観は西教に似ているといえる。ここで統体は全体、個別者は個体をいう。実際に、米国の心理学者ニスベットが明らかにしたように、飛んでいく鳥を見て西洋人は鳥の数を記憶し、東洋人は背景を記憶するという。また東洋は全体・状況・動詞・経験・共に生きる生を重視し、西洋は部分・本性・名詞・論理・独りで生きる生を重視するという。(리처드 니스벳,『생각의 지도』, 최인철 역, 김영사, 2004, 83~106쪽)
  8. [8]西教(西教、以下、西教はカトリックとキリスト教を総称する)は、西道(西道)・西学(西学)などの意味と共同で使用されもした。(염미양, 「대순사상의 서학관 연구」, 대진대학교 석사논문, 2005, 11~13쪽)ウェーバーの複雑な宗教論は、大きく二つの観点から要約されうる。第一は、宗教の担持者層が思惟的理論家集団か実践的行動家集団か、第二は、教理体系が「神」中心的救済宗教か「宇宙」中心的非救済的文化宗教体系かである。キリスト教の場合、典型的な都市の小市民層の宗教として発生して科学的で自然改造的な性格を持ち、唯一神信仰は伝統を否定させて科学的思考の道を開いた。一方、東洋宗教の特徴は、主要な担持者層が賤民層より特権層が多く、儒教の場合はとりわけ二つの階級の結合形態であった。担持勢力の豊かな生活条件は、現実適応的世界観と「苦痛の神義論(神正論)」ではなく「幸福の神義論」を追求させた。東洋宗教は西洋宗教に比べて知識人の救世論であり救済の貴族主義であった。要約すれば、禁欲的な西教は「世界支配」、儒教は「世界適応」、インドは「世界逃避」を一貫して合理化させた。西教は一貫した実践的合理主義であり、ヒンドゥー教と仏教は理論的合理主義である。それに対して儒教は、救済理念の不在のなかに実践的合理主義を内包していた。(전성우,「막스 베버의 유교론」, 『남명학 연구』Vol.16 No.-, 慶尙大學校南冥學硏究所, 2003, 310-314쪽)
  9. [9]グレアムは、中国の諸子百家の思想が天命秩序の崩壊に伴う再編の努力であったとみる。(A. C. 그레이엄 『도의 논쟁자들』, 새물결, 2001, 36쪽)
  10. [10]米ソ冷戦が終わると、世界危機の根源として隠されていた宗教の葛藤が現れ、危機の根源は文明の衝突として言及されており、その衝突は9.11事件が示すように、いまだ終わらず、さらに増幅されているものとみなされる。(새뮤얼 헌팅턴, 『문명의 충돌』, 김영사, 1997, 32~33쪽)大巡思想でも宗教を文明の根とみて(上略、仙道(仙道)と仏道(仏道)と儒道(儒道)と西道(西道)は世界各族の文化の土台となった、『典経』教運一章六十五節)、宗教間の衝突が社会経済的問題の根源となったことを言及する(世界のあらゆる族属はそれぞれ自らの生活経験の伝承(伝承)に従って特殊な思想を土台に色違いの文化を成し遂げたが、それを発揮するようになるや、ついに大きな是非が起こった。『典経』教法三章二十三節)。
  11. [11]ウェーバーとは異なり、ジンメルは、宗教は社会的相互作用の形式であるため、貨幣のように社会がある限り宗教がなければならないとする。科学と宗教は代替不可能な社会的関係であるため、現代人は決して宗教と科学の葛藤関係に陥らず、現代人はあくまでも主観的宗教を必要とすることになるとする。(김덕영, 「현대인에게도 종교는 필요한가」,『현상과 인식』Vol.23 No.1-, 한국인문사회과학학회, 1999, 66~76쪽)
  12. [12]現代資本主義と資本主義化された現代西教(西教)は、異例的に直線的な宗教思想である。現代資本主義と現代西教の時間観は、幸福は未来にあり、今日はただ明日のための準備時間にすぎない。ニーチェは、直線的な資本主義と西教を総じて形而上学と批判し、その反対給付として永劫回帰の生哲学を代案として提示したことがある。(강신주, 『상처받지 않을 권리』, 프로네시스, 2009, 410~413쪽)ニーチェの哲学のように、西教を除いた他のあらゆる文化は、循環を強調する相関的思惟を持っている。(A. C. 그레이엄 『음양과 상관적 사유』, 청계, 2001, 264쪽)
  13. [13]ウェーバーは、宗教が喪失された現代の状況を極めて悲観した。近代の宗教は経済と分離して、宗教が経済である資本主義を率いる力となったが、分離が深化した現代は、むしろ宗教が経済に従属したとする。(정태식, 「현대사회에서의 종교의 사회적 위치와 공공성」, 『신학사상』Vol.142 No.-, 한국신학연구소, 2008, 201~202쪽)
  14. [14]上帝がある日、金亨烈に仰せられた。「西洋人の利瑪竇(利瑪竇)が東洋に来て地上天国を建てようとしたが、長く根を張った儒教の弊習によって容易に改革できず、その意を成しえなかった。ただ、天上と地下の境界を開放して、各々の地域を堅く守って互いに行き来できなかった神明を相互に往来させ、彼が死後に東洋の文明神(文明神)を率いて西洋へ行き、文運(文運)を開いたのである。これより地下神は天上のあらゆる妙法に倣って人世にそれを施した。西洋のあらゆる文物は天国の模型に倣ったものである」と告げられ、「その文明は物質に偏って、かえって人類の驕慢を助長し、ついには天理を揺るがし、自然を征服しようとするところからあらゆる罪悪を絶え間なく犯して神道の権威を落としたがゆえに、天道と人事の常道が違えられ、三界が混乱して道の根源が断たれることになったので、原始のあらゆる神聖と仏・菩薩が会集して、人類と神明界のこの劫厄を九天に訴えたため、我は西洋(西洋)大法国(大法国)天啓塔(天啓塔)に降りて天下を大巡(大巡)し、この東土(東土)に止まり、母岳山金山寺(母岳山金山寺)三層殿(三層殿)弥勒金仏(弥勒金仏)に至って三十年を過ごし、崔済愚(崔済愚)に済世大道(済世大道)を啓示したが、済愚は儒教の典憲を超えて大道の真の意を明らかにすることができなかったため、甲子(甲子)年についに天命と神教(神教)を収め、辛未(辛未)年に降世したのである」と仰せられた。(대순진리회교무부(1974), 『전경』교운1장9절, 대순진리회출판부, 2010。以下、『典経』の引用は章(章)と節(節)で表記する。)
  15. [15]グローバル文化時代に、西洋思想の東洋的淵源を明らかにすることが重要な理由は、情報通信革命の発達による文明のグローバル化が、世界の各民族文化と文明を深刻なアイデンティティ危機に陥れるためである。(차성환, 「독일 사회과학의 오리엔탈리즘」, 『담론201』Vol.7 No.-, 한국사회역사학회, 2004, 274쪽)
  16. [16]金というものは循環の理によって生じ、用いられる物である。無理に求めて用いるべきものではなく、百年の貪物(百年貪物)が一朝の塵(一朝塵)である。(『典経』教法一章六十四節)
  17. [17]進化論と古典経済学の影響によって、貨幣経済と人間の共同体的生活は相反して対立すると考える人が多い。市場もまた相互闘争から始まると考えるが、市場が生じたのは相互贈与のためであり、貨幣もまた相互贈与のなかで拒否されない交換物として登場したという。世界には共同体経済学と個人主義経済学の二つがあり、二つが均衡を成さねばならない。(주종환, 「공동체의 경제학(Ⅱ)」, 『사회경제평론』Vol.27 No.-, 한국사회경제학회, 2006, 279~280쪽)
  18. [18]今日、人々は過去に個人的な領域であった部分まで管理されている。(엘리 러셀 혹실드, 『감정노동』, 이매진, 2009, 17~33쪽)宗教が消えると、現代人は、ハーバーマスのいう生活世界の植民化のように、自己の感情と自尊心を売り買いする感情労働に苦しむことになった。各個人は人生の大部分を「経済」に投資しているが、「経済(経済)」に恨が結ばれて数多くの人が自殺しており、韓国は本格的な後期産業社会へ進入した1980年代以降、OECD国家のうち自殺増加率1位を記録した。韓国自殺予防協会は最近開かれた「生命愛国民運動展開のためのフォーラム」で、2011年現在、一日平均の自殺者数は42.6名であり、人口10万人当たり28.1人が自殺してOECD平均の11.3人より二倍以上高く、自殺増加率も最も高いと発表した。とりわけ40代から50代までは、自殺理由の50%以上が経済的理由であるという。(홍진표, 최순호, 「자살 예방_조사연구보고서」, 한국자살예방협회, 2011, 89~103쪽)
  19. [19]2008年の米国の多国籍金融会社リーマン・ブラザーズの破産は、経済理念論争を再び呼び起こした。自由市場経済学者ヌリエル・ルービニ教授は、金融危機を脱するには金融圏の国有化が唯一の選択の道であるとする。昨年4月と11月、ロンドンとワシントンで開かれたG-20首脳が経済危機を解決するために出した解法のうち、金融分野に対する政府の監督と規制強化を強調したのは、ルービニの主張と脈絡を同じくする。(윤병철, 「시뮬라시옹 사회의 그늘」,『담론201』Vol.12 No.3, 한국사회역사학회, 2009, 154쪽)米国はいまだ貨幣発行機関である中央銀行が政府の所有ではない。(이리유카바 최, 『그림자 정부(경제편)』, 해냄출판사, 2008)
  20. [20]제레미 리프킨, 『공감의 시대』 (이경남 역, 민음사, 2010) 712~718쪽。個体を強調する西洋において、共感が人間の根源的能力であるという思想は禁忌事項であった。「カントの理性ではなく共感が人間の根源である」とするショーペンハウアーの哲学は、禁忌事項に触れたがゆえに歓迎されなかった。しかしインターネット時代を迎えて、再び共感能力あるいは模倣欲望が再び浮上している。
  21. [21]儒学を修己治人(修己治人)の学問というように、経世は儒学の究極的目標である。経世済民(経世済民)は、世上(世上)を経営して百姓を救済(救済)する原理である。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」,『율곡사상연구』Vol.11 No.-, 율곡학회, 2005, 44쪽)
  22. [22]朱子の文において本末(本末)は二つの意味で使用されるという。一つは大学で使用された実践的脈絡で先後本末論であり、もう一つは中庸で使用された脈絡で本具(本具)論的脈絡であるという。徳を先んじてこそ財物は従ってくるのであり、財物を先んじる場合は経済が破綻する。(이상익, 「주자와 율곡의 경세론」, 『율곡사상연구』Vol.11 No.-, 율곡학회, 2005, 50쪽)
  23. [23]『대학·중용 강설』(이기동 편, 성균관대학교출판부, 2010) 90쪽
  24. [24]行動経済学によれば、人はいくらか自分の損になっても、他人を助けたり懲らしめたりするなど、正義に適う考えをする傾向があるという。さらに、利己心より利他心が時には進化競争においてむしろ有利とみることもある。(버나드 맨더빌, 『꿀벌의 우화』, 최윤재 역, 문예출판사, 2010, 51~52쪽)行動経済学は、パブロフの反射作用試験のように、刺激に対する人間行動の変化を見て心理を測定する行動主義心理学と関連した経済学である。行動経済学は、人間は理性より感情が、意識より無意識がより強いということを実験を通じて証明する。
  25. [25]囚人のジレンマであれ、どんなゲームであれ、善いものが生き残るという。(정태인, 『착한 것이 살아남는 경제의 숨겨진 법칙』, 상상너머, 2011, 89~93쪽)
  26. [26]法と制度のみならず、社会の道徳水準が経済に重要であるということは、今日あらためて注目されている。ガルブレイスが含まれる制度経済学派では、公式的な制度のほかにも道徳のような非公式的制度を早くから研究対象としている。利己心だけで経済がうまくいくのではなく、正義に適わない公権力の行使は経済にはむしろ害となる。(버나드 맨더빌, 같은 책, 2010, 51쪽)
  27. [27]経済学は、新古典派経済学では「人間の欲望に比して稀少に存在する資源をいかに効率的に配分するかという学問」と定義されるとすれば、古典経済学やマルクス経済学では「経済全体の再生産と関連した生産と分配の問題を扱うもの」と定義される。この「再生産」問題において、新古典派経済学の「稀少性」は問題とならない。(박만섭, 「정의: 경제학과 철학의 접점」,『한국사회』Vol.7 No.2, 고려대학교 한국사회연구소, 2006, 34쪽)
  28. [28]経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、倫理学教授として『国富論』とともに『道徳感情論』を書いて『国富論』を補完したという。常識とは異なり、『国富論』の各所に、今日「反企業情緒」と呼ばれる言及が現れる。アダム・スミスが二つの本で互いに矛盾する話をしたことは「アダム・スミス問題」といって長い論争があってきた。(버나드 맨더빌, 같은 책, 51쪽)人間を利己的に定義するのは、人間理性の限界を根拠としている。自由至上主義者ハイエクは、我々は無知の沼に生きているとする。(하이에크, 1969, 민경국,「시장경제에 대한 공동체주의적 비판과 공동체주의적 경제질서」,『경상논총』 Vol.17 No.-, 한독경상학회, 1998, 70~71쪽)
  29. [29]아마티아 센(1989), 『윤리학과 경제학』(박순성 외 역, 한울아카데미, 1999) 18~19쪽
  30. [30]マックス・ウェーバーは、マルクスの唯物論的方法論を批判しうる最高の理論家として認められてきた。とりわけウェーバーの理論のうちでも『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、マルクスの宗教起源論を批判しうる代表的な理論書であった。マルクスは「宗教とは、経済という物質的下部構造の秩序を反映する上部構造として虚偽意識である」とした一方、マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で「宗教がむしろ資本主義という下部構造を作った」ことを論証することによって、マルクスの理論に致命的な批判に成功して世界的な理論家として認められた。(전성우,「막스 베버의 유교론」,『남명학 연구』Vol.16 No.-, 慶尙大學校 南冥學硏究所, 2003, 304쪽)
  31. [31]カルヴァン(Jean Calvin, 1509.7.10~1564.5.27)の本名はジャン・コーヴァン(Jean Cauvin)である。フランスで下層民として生まれたカルヴァンは、スイスのジュネーヴで西教(西教)教理に対する深く新たな理解を作り上げた。ルターが宗教改革を政治的に始めた人物であるとすれば、カルヴァンは宗教改革の成果を経済に反映させて実際的に成熟させたといえる。カルヴァンは米国の独立運動家フランクリンなどに影響を与え、今日の資本主義の禁欲的経済倫理の嚆矢としてウェーバーに指目された。(앙드레 비엘러,『칼빈의 경제윤리』, 성광문화사, 1985, 75~76쪽)
  32. [32]予定説が現世の祝福を追求する祈福信仰と異なるのは、究極的な目的が既存の西教のように来世にありつつ、現世の祝福はただ予定の証明であるという点である。したがって、予定説を信じる西教信者は、現世の祝福を受けても、来世を祈願する既存の西教人のように禁欲的にならざるをえない。祈福信仰は、現世の祝福は予定説と同じだが、禁欲主義という点で違いが出る。予定論者は神の前で絶対孤独である。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 6~7쪽)
  33. [33]唯一神を信じる他の宗教のうちでも、西教に唯一ある三位一体は、資本主義の構造と類似性が多いという。(나카자와 신이치, 『사랑과 경제의 로고스』동아시아, 2004, 181~185쪽)
  34. [34]막스 베버, 『프로테스탄티즘의 윤리와 자본주의 정신』(김덕영 역, 길, 2010)
  35. [35]脱近代は、近代的行為の世界にすでに循環しているエネルギーであり、その価値である。ポストモダニズムは近代と対比して循環を特徴とする。(김상환, 「화폐, 언어, 무의식」, 『철학 사상』Vol. 56 No.-, 철학연구회, 2002, 23~24쪽)今日、「近代(modern)—以後(post)」という言葉で80年代以降の世界思想界の流れを主導している思想的潮流であるポストモダニズムもまた循環に基づく。マルクス・ニーチェ・フロイト・ソシュール・複雑系科学などに代表されるポストモダニズムでは、宗教と経済の循環のように、近代思想では貨幣・言語・無意識など互いに関連しないものが循環関係にあることを明らかにして、近代の固定観念を解体させる。ポストモダニズムの立場では、大巡思想もまた韓国で自生したポストモダニズムとみることができる。
  36. [36]ブルデューは、アルジェリアの農民たちが周易のように循環的な経済観を持っていたことを見て、循環論的な経済観を前近代的な経済観とみなした。しかし、循環的な経済観が消えると改革意志が消えることを発見し、循環的経済観の重要性を発見した。(가라타니 고진, 『트랜스크리틱』, 강신주, 2009, 236~239쪽에서 재인용)
  37. [37]소광섭, 『물리학과 대승기신론』(서울대학교 출판부, 1999) 45~47쪽
  38. [38]이광주, 「상대성이론으로 본 상제님의 권능」, 『상생의 길』 Vol2.No.-, 대순진리회 출판부, 2004, 131~136쪽
  39. [39]一定の財産がなければ、それによって常に一定でありうる心がなくなる。『맹자강설』 (이기동 편, 성균관대학교출판부, 2007) 65~66쪽。
  40. [40]構造主義は、観察する主体や行動する主体から独立した社会構造があるという思想である。構造主義は一言でいえば、社会の無意識を構造概念で解釈しようとした独創的な思想である。構造主義には、人間の主体的な決断を重視する実存主義に対する強い批判が込められている。構造主義は、記号学でロラン・バルト、哲学でフーコー、精神分析学でラカンなど、広範な影響を及ぼした。(나카야마 겐, 『사고의 용어사전』, 북바이북, 2009, 237~241쪽)構造主義は、万物が陰陽として構造化されるという易学思想と類似している。
  41. [41]ブルデューは、アルジェリアの農民たちが周易のように循環的な経済観を持っていたという。しかし資本主義の到来とともに循環的な時間観が消えたという。循環的な時間観が消えて不安が労働者を支配すると、社会改革のエネルギーが消えたという。したがって、現代の改革エネルギーが蘇るには、生産—消費組合という循環的経済体制が作られねばならないという。(가라타니 고진, 『트랜스크리틱』, 강신주, 2009, 236~239쪽에서 재인용)昼の想像力体系である直線的な時間観が、夜の想像力体系である循環的な時間観を代替したのは、ヨーロッパの「聖像破壊主義」のためで、ヨーロッパはその代償として①死②心理的社会的均衡の喪失③社会④神を喪失したという。(이희연,「'사회적 시간'(Social time)의 '기계적 차원'과 '순환적 차원'에 대하여」, 서강대학교 석사논문, 2002, 95쪽)昼の想像力体系と夜の想像力体系は、すなわち陰陽と循環を表すといえる。(질베르 뒤랑,『상상계의 인류학적 구조들』, 진형준 역, 문학동네, 2007, 670쪽)
  42. [42]西洋の場合、時間の循環について二つの伝統が伝わってきた。オリンポス宗教では、時間の変化に伴う自然の変化を見て倫理的契機を見出し、オルフェウス宗教の時間観は周期的な循環を示し神秘的表象を示すといえる。(장영란, 「시간의 신화와 철학의 윤리적 정초」,『철학과 현상학 연구』 Vol.40 No.-, 한국현상학회, 2009, 269쪽)「苦境のなかには無神論者がいない」という言葉のように、各宗教の神に対する理解は人間に対する理解と関連してきた。循環の場合、二元的に人間を理解すれば人格的・意志的絶対者を肯定することになり、一元的に人間を理解すれば絶対者を否定することになる。(이상익, 「동서 사상에 있어서의 인간과 神」, 『국학연구』Vol.3 No.-, 국학연구소, 1990, 2, 44쪽)
  43. [43]ウェーバーは、陰陽のように目的や結果を重視する東洋的合理性を実質合理性と呼び、過程と手続きを重視して誰もが同じ過程に従えば同一の結果を出しうる西洋の合理性を形式合理性と呼び、形式合理性が資本主義発展の基盤となるとみた。しかし、形式合理性が資本主義発展の始まりにおいては東洋を追い越しえたが、今日の東北アジアの経済成長が示すように、実質合理性が形式合理性よりさらに重要であることを示し、儒教思想は強権を恐れない自由思想を持っていることも明らかにされつつある。(김정계, 「막스베버의 종교윤리와 현대 자본주의」, 『산경연구』 Vol.15 No.-, 昌原大學校 産業經濟硏究所, 1997, 291~293쪽)ウェーバーは、儒教は伝統指向性、道教は呪術的傾向のために、西洋の形式合理性に到達しえなかったとする。韓国のキリスト教もまた道教の影響で多く変わったという。(양창삼, 「도교와 한국 기독교와의 관계성에 대한 연구」,『민족과 문화』, Vol.2 No.-, 漢陽大學校 民族學硏究所, 1994, 418쪽)
  44. [44]西洋二分法の核心的特徴は「対立—存在論的思索の枠」で、東洋陰陽法が示す「相互—関係論的思考の枠」と対比される。代わりに、西洋二分法は独善的概念でイデオロギー的性向を帯びうるが、厳正さがある。(김영주, 「동양 음양법의 상호 관계론적 사색틀과 그 비판」, 『동양사회사상』Vol.8 No.-, 동양사회사상학회, 2003, 75~76쪽)循環的世界観と陰陽は、「相対的多様性」という良い側面に対応して「曖昧模糊さ」という悪い側面がある。「相対的多様性」は別の言葉で「水平的多様性」といえるが、東洋社会はウェーバーが明らかにしたように、生き生きとした現実と出会いながら、むしろ西洋思想よりさらに激しい差別が存在する二律背反と偽善があった。相対的多様性は我々の幼年期を老成した子供にし、我々の母と祖母の苛酷な悲しみを生んだ。(김영주,「서양 이분법과 동양음양법의 비판, 그리고 태극이분법」, 『한국사회학회 사회학대회 논문집』, 한국사회학회, 2001, 13~14쪽)金英珠は、東洋陰陽法に対する代案として太極二分法を提示し、両極法と両面法を代案として提示する。しかし、大巡思想の二分法は循環を主とする二分法であるという点が異なる。大巡思想に現れた陰陽は、陰陽循環の根本となる陰陽遁を強調することによって(「上帝が乙巳(乙巳)年の春のある日、文公信に『姜太公(姜太公)は七十二遁をして陰陽遁ができなかったが、我は陰陽遁までしたのである』と仰せられた」『典経』行録三章二十八節)、既存の陰陽論が持つ循環性を補完する。(신윤기, 「人然, 自然, 天然, 그리고 超然」,『상생문화』2,3호, 전국대진연합회, 1995, 13~14쪽)西洋の還元主義的方法論が、西洋の古代哲人から始まって西教の唯一神へ伝えられた「世界万物の起源と統一性という陰陽遁」を探す方法であったとすれば、東洋の循環論的方法論は「陰陽五行」という関係的思惟をしたといえる。(은남근, 『오행의 새로운 이해』, 법인문화사, 2000, 20~21쪽)フランスの構造主義者レヴィ=ストロースは、科学には「感覚的直観に極めて近い科学」と「極めて遠い科学」という二つの科学があるとする。(이창일, 『주역, 인간의 법칙』, 위즈덤하우스, 2011, 98~99쪽)
  45. [45]陰陽は、西洋でも最も重要な思想とみなされたことがある。陰陽の特徴は関係的・類比的思考であり、類比的思考はトマス・アクィナスの神存在証明の核心であった。すなわち、トマス・アクィナスの「神の言語」は「類比」、すなわち陰陽として現れる。(박승찬, 「유비개념의 신학적 적용」, 『가톨릭 신학과 사상』Vol. No.28, 신학과사상학회, 1999, 181~182쪽)ラッセルのパラドックスが発見されると、トマス・アクィナスの陰陽—類比的神存在証明は形而上学の新たな寵児として浮上した。ヨーロッパの代表的トマス主義者コレト(Coreth)は、人間は認識を超えるとき、ある存在が啓示されるとする。(정의채, 『형이상학』열린, 1997, 116쪽)類比的推理に根拠したトマス・アクィナスと朱子の性理学体系は、極めて類似性が多いという。(소병선, 『주자학과 토미즘의 철학적 협연』, 동과서, 2006, 203~210쪽)