アジアの四頭の龍と中国・日本という後背地を持つ儒教資本主義に比べて、仏教の経済思想は相対的に注目されてこなかったが、経済関連の言及が相対的に豊富な仏教は、最近のインドの浮上と生態主義の拡散によって、新たな経済代案として注目されている。[233]とりわけ仏教の経済思想は、道教や儒教・西教に比べて相対的に生産よりも分配に偏った差別化された経済思想であり、縁起論という厳格な道徳律によって支配される現代的経済思想といえる。[234]分配中心的で倫理中心的な仏教の資本主義は、人間の義務を重視する特性が「菩薩資本主義」という語によく現れるため、仏教の経済思想を菩薩資本主義[235]と呼びうる。
仏教菩薩資本主義を日常生活に近い部分から考察すると、歴史・重点経済活動・教理・社会観・経済活動態度・市場観・国家観・価値理論・問題点・差異点・改善点などにおいて、社会契約主義および古典経済学と類似した分配観を持っていることが分かる。
仏教資本主義の歴史を考察すると、仏教もまたマテオ・リッチが西洋に初めて紹介する。[236]仏教はカントの義務主義倫理学に影響を与える。[237]アリストテレスの徳の倫理学から始まった西洋の倫理学は、西教の共同体主義的倫理学、カントの義務論的社会契約主義倫理学を経て、英国功利主義に至る。
社会契約主義の根源である義務主義倫理学の始祖カントは、自らも自らの思想が仏教に近いとは知らなかったが、後代の人々がカント哲学と仏教の類似点を多く指摘した。[238]
カントは、二律背反という原理を西洋で初めて導入し、インド哲学のような「3」の体系を導入する。[239]仏教とインドは、それぞれ「中(中)」「空(空)」「0(零)」という概念を開発し、男/女・陰/陽の二分法のみで成る世界に仏教的三分法を導入し、カントの「二律背反」概念もまた「0」のような第三の概念であった。カントは二律背反を活用して、大陸の合理論は「内容なき形式」であって空虚であり、英国の経験論は「形式なき内容」であって盲目であると批判し、「0」のように合理論でも経験論でもない先験的な知識を主張しえた。仏教のように現象学的に両者を否定したカントは、再び社会契約主義のように義務論を要請する。[240]道徳的でありえない人間は「善」と「神」を要請せねばならないが、こうした要請もまた、仏教において「無我(無我)」が「善(善)」を要請するのと同じである。カントの影響を受けたショーペンハウアー[241]、そしてショーペンハウアーの影響を受けたニーチェも仏教を高く評価する。[242]仏教は社会契約主義経済倫理と、それに関連した平等思想に大きな影響を与えた。
仏教の重点経済活動は、静止しているかに見える虚空(空)が崩れては成るという意の成住壊空(成住壊空)という仏教の循環観に現れるように、貯蓄—生産—流通—分配のうち、財産とは縁起(縁起)によって生じ、階級を認めないため、[243]公正な分配を中心に経済活動が現れる。
仏教の教理体系を見れば、効率性よりも縁起論に従って公正に分配する、分配中心の循環を強調する宗教といえる。仏教において分配を強調する理由は二通りに解釈される。一つは、仏教が発生したインドは天恵の風土のため食糧生産に人為的努力がほとんど必要なく、二期作も可能で、天災が起きてもそれを運命に帰したため、インドのような社会では当然「作る」道徳よりも「分ける」道徳が強調されたという。[244]もう一つの解釈は、生産力が極めて低い社会階級においては、生産物の均等配分がなければ人々は共に生きていけず、釈迦在世時のインドは種族社会で生産力が極めて低い社会であったというものである。[245]「XはXでも–Xでもない」として新たな動きそれ自体を否定し動きを固定させる仏教は、効率性よりも衡平性と「正義」を強調する点で社会契約主義と類似している。[246]
仏教の重点経済活動を見ると、仏教はしばしば世俗的な労働を離れた超越的宗教として認識されもするが、ブッダの教えはそうした認識が偏見であることを示すという。[247]
釈迦如来は、何の経済活動もしない人を盲人、財産を得たり増やしたりする方法は知るが善悪を区別する眼のない人を、両眼ある人を「財産を得たり増やしたりする方法も知りながら善悪を区別することもできる人」とし、正しい分配に立脚した経済活動を大切にする。[248]
道教的な貯蓄を通じて経済潜在力が膨張した経済は、創造的飛躍をする前に、飛躍後の財富をいかに分配するかをまず考慮する姿となる。社会契約主義もまた、「自由至上主義において最大多数の幸福のための自然的な極大化方法はない」とするA・C・アローの不可能性定理に対する代案として出現したという。[249]
循環論では、発展は直線ではなく、「一陰一陽これを道という(一陰一陽之謂道)」[250]とするように、一度拡大すれば一度縮むという「乙(乙)」字の形態で発展する。[251]道教によって蓄積された力量は仏教的な思想によって養生(養生)された後に生まれ、再び儒教へ飛躍する。仏教は、縁起という循環論的法則に合わせて万物を正確に分配する。[252]
仏教の国家観を考察すると、やはり分配を強調する。[253]仏教では国王の分配政策を重視し、正しい経済運用の方向を提示してもいる。[254]
ブッダは、社会的諸問題は経済的不均等に起因しており、国家は適切な再分配政策を通じて社会的公正を実現せねばならないとする。
ブッダが主張した国家の分配政策の基準は、米国の政治経済学者ロールズ(J. Rawls)の社会契約主義的見解と相当の類似点を持つという。ロールズは、所得分配の公平とは、社会構成員の現在の社会的位置に関係なく、社会構成員の同意があるものであれば、それは公平とみなすべきと主張する。そして、最低所得集団である極貧者の厚生を最大限に上げうる所得分配政策であれば、ひとまず公平といえるとする。[255]
国家が、貧しい農夫に生産基盤を、商人に資本を、雇用人に賃金を支払うことによって、正しい方向への財貨の均等分配がなされ、社会正義が実現されうるというのが『究羅檀頭経』[256]の説明である。しかし両者がより接近しているといえるのは、道徳的命令にその基盤があるという点である。『究羅檀頭経』において国家の分配政策は、一時的な貧民救済の次元ではなく、貧しい人々が持続的に生計手段を持って生産活動に従事することによって自立の基盤を構築し、窮乏から脱するよう助けているという点にその意味があるという。[257]ロールズにおいても、道徳的原則が分配原則に対する判断の基準をなしていることを看過してはならないという。
仏教の社会観として福祉概念を見れば、仏教徒はとりわけ『優婆塞戒経』などで説かれている三つの福田の概念に留意しながら経済生活を営む。その三つの福田とは、功徳田(功徳田=敬田)・報恩田(報恩田)・貧窮田であり、社会福祉について仏教もまた、個人の自発的な動機[258]による結果とみなす。[259]
仏教の価値理論を考察すると、アダム・スミスの労働価値論と類似している。アダム・スミスの労働価値論は、現象学において判断中止した状態で、商品の流れのなかに価値の根源を求めたのと同じである。アダム・スミスから経済学が始まるというのは、アダム・スミスが「価値の根源は労働である」と初めて労働価値論を主張したためである。[260]労働価値論では、500ウォンの商品より1,000ウォンの商品が高い理由は、500ウォンの商品を作るのに必要な労働より、1,000ウォンの商品を作るのに労働がより多く入るからとする(訳注:原文は錯綜しているが趣旨は「投入労働量が価格を決める」)。あらゆる商品の価格を決定する価値の基準が人間の労働であると明らかにされると、経済と関連するあらゆる要素が一貫して整理された。仏教の縁起論は、西洋経済思想において労働価値論として現れる。[261]労働価値論とは、商品の価格を構成するのはその商品に投与された労働であるというものであり、「蒔いた分だけ刈り取る」という縁起論と一致する。商品が労働の対価であるなら、人々は労働の対価の分だけ公平に分配されうる。
あらゆる価値の根源が人間の労働であるため、労働を高める労働力の再生産は最も重要な生産となる。アダム・スミスによれば、生産的労働とは、労働力を再生産するのに必要な必需品生産に直接投与した労働をいう。釈迦如来もまた商業労働と生産労働を区別し、生産労働を強調する。
「仕事が多く担うところが多く労力の多くかかる業務と、仕事が少なく担うところが少なく労力の少なくかかる業務とがある。前者は耕作であり、後者は商業であるが、実行すれば偉大な果報を得るが、実行しなければ偉大な果報は得られない。」[262]
「商品の価格は投与された労働量である」とする労働価値論は、循環とは何の関連もないように見える。労働価値論の背景としての循環は、等価交換の法則を商品循環に適用すると現れる。市場は交換の法則が作用するため、市場のなかで不等価交換をする者は誰もいない。人間が自己の労働力を自己の労働力の再生産費用以上の対価で販売し、等価交換が連続するなら、誰も損をしないはずなのに、剰余価値はなぜ生じるのか。まさに誰かが絶えず与えているためであり、それがまさに自然の領域である。[263]
労働価値論において、自然の循環による贈与が価値の根源となることを最も明確に示す概念が、労働力と労働の区分である。労働力は労働しうる能力であり、労働は労働そのものである。労働力は一晩過ぎれば再び生じる再生可能性が、労働と労働力の違いである。労働力は、一晩を過ごすうちにどこかで新たな価値を付与されて来るのである。
道教的貯蓄から発生した使用価値は、交換分配過程において実現される。限界効用論において効用が生じること自体が循環による差異の解消にあるように、労働価値論において、労働力と労働の差異から、自然の循環による純粋贈与、すなわち使用価値が現れる。労働価値論が流行(遊行)という動態的観点から循環を把握したとすれば、限界効用は待対(待対)という静態的関係から主観的観点で価値を把握したといえる。
仏教は膨張後に分配を強調するため、儒仏仙と西教のうち最も循環論的特徴が際立つ。[264]仏教の労働は、「縁起なくば分配なし」という、贈与と分配としての労働となる。[265]
仏教は、万生万物が互いに縁起論的に連結されて循環するため、人間は菩薩のように万物を自分の身のごとく思わねばならないという菩薩資本主義的分配観を持っている。[266]最近、社会の循環を強調する経済学は、仏教の循環論的経済思想に立脚して、既存の価値論の隠蔽された循環性を見出した。労働・効用・革新という既存の価値論の共通点は、儒仏仙とは異なり、いずれも人間の努力を強調して循環を隠蔽し、「価値の根源は人間の努力だけで生じたのではなく、自然の循環から生じる価値が人間の努力によって加工されるときに生じる」ことを隠したという点である。
環境危機と人間疎外を直線的な古典資本主義が解決してくれないと、西洋の財貨観は、蓄積のために欲求を抑制する禁欲主義的財貨観から生態学的経済観へと変貌することになる。[267]無限に財貨を蓄積していた人間は、環境問題と人間疎外という壁に突き当たり、共同体を通じた分配問題を解決しうる価値論を悩み始める。価値は革新によって無限に創出しうるという信頼が崩れ、自然と社会を共に考慮する循環価値論が登場し、人間労働の循環と欲望の対称性を強調する。とりわけ20世紀後半になってようやく一般人に広く知られ始めた仏教の経済思想は、最も人間の意識と一致する宗教経済思想であるという。[268]
仏教の問題点を考察すると、仏教と類似した社会契約正義論の問題点と似た問題を挙げることができる。ロールズの社会契約正義論において人間は、利益のために動くのではなく、契約という義務を守るために動く。仏教は公平な分配を志向するが、仏教は功利主義のように効率を追求することもなく、自由至上主義のように自由を志向することもなく、共同体主義のように「自らがまず分け与える」ことを志向しないという問題がある。仏教はただ、あらゆる価値が正義に適用されることを願うだけである。仏教の経済思想は、社会契約主義倫理論の福祉国家論と類似して、効率性が落ち、創造的な徳を排除している。社会が複雑になるにつれ、正義と公正な縁起という境界が不分明になった。
仏教菩薩資本主義と社会契約主義の違いを考察すると、仏教菩薩資本主義と社会契約主義はいずれも義務の遵守を強調するが、仏教菩薩資本主義は縁起(縁起)をより大切にするため、循環を義務より強調する一方、[269]社会契約主義は義務をより強調する。西欧の社会契約主義は社会保障制度の発展とともに資本主義の発展に大きく寄与したが、共産主義の崩壊に見られるように、人間と社会に対する不信をもたらして今日の危機を招いたため、社会契約主義には「恩を忘れない報恩精神」が、仏教菩薩資本主義には「個人の解脱を超えた共同体の尊重」が必要である。菩薩資本主義とロールズの社会契約主義倫理学を比較すると次のとおりである。
〈表2.5〉菩薩資本主義と社会契約主義比較表
| 菩薩資本主義 | 社会契約主義/古典派経済学 | |
|---|---|---|
| 影響史 | カント、ショーペンハウアーなどに影響 | 社会契約主義的平等思想に影響 |
| 理論 | 縁起論による公正な分配 | 効率性より公正性を重視 |
| 重点経済活動 | 正しい分配のための生産 | 経済論理ではなく正義の原則を重視 |
| 国家観 | 中立国家、社会公正性の維持 | 基礎的社会保障国家 |
| 社会/平等観 | 功徳田・報恩田・貧窮田 | 最低所得の維持 |
| 価値理論 | 無縁起・無分配 | 労働価値論 |
| 代表思想家 | シューマッハー | アダム・スミス、ロールズ、カント |
| 長所 | 対称性の回復、倫理の回復 | 経済学への義務導入による共同体発展の契機 |
| 問題点 | 縁起の境界の不透明 | 契約違反時の対策の名分の欠如 |
| 差異点 | 正義より循環を重視 | 循環より正義を重視 |
| 問題解決方案 | 縁起論の補完 | 義務遵守と連帯を通じた正義[270] |