神を冒涜した罪により、ギリシア神話のシーシュポスは、永遠に岩山の頂へ岩を上げてもまた転がり落ちるという苦痛の罰に処せられたという。シーシュポスのように、極度に発達した物質文明のなかにあっても満足を知らない現代人の精神的苦痛は、現代人の経済哲学が儒仏仙・西教に由来しながらも、自らの存在だけでは問題を解決しえない自由至上主義・共同体主義・社会契約主義・功利主義の枠に閉じ込められ、循環[1]という方法によってその枠を抜け出せずにいることにある。とりわけ循環は、シーシュポスのように絶対者の助けなしには決して岩を山頂に上げることはできないという秘密を蔵しているからである。
宗教が倫理を発展させ、倫理が経済を発展させるという宗教と経済の好循環を信じない現代人は、経済思想が宗教に起源したことを久しく忘れている。[2]しかし、宗教が経済発展の障害になるとして宗教を無視した近代以降、実質的な経済はかえって後退し、[3]人間はウェーバーの言う直線的合理化という「鉄の檻」に閉じ込められるに至り、[4]経済思想はすなわち宗教思想であるとしたウェーバーの主張が再び注目されている。[5]実際、今日、韓中日の東洋三国が世界経済を主導するに至り、経済と倫理のうち倫理を優先する儒仏仙の循環的経済思想が、むしろ経済発展の原動力として浮上している。[6]
ウェーバーが述べたように、宗教は時代の経済的危機を克服してきた。[7]東洋の代表的宗教である儒教・仏教・道教と、西洋の西教(西教)[8]は、いずれも文明の枢軸時代と呼ばれる鉄器時代への転換期に、経済体制の変化に対応する思想体系として、王室と基層民衆の呼応のもとに発展してきた。[9]今日、経済発展の原動力である宗教がかつて経済発展の障害とみなされたのは、宗教自体の問題ではなく、世界経済が相互に交流して規模が大きくなったにもかかわらず、宗教は相互の循環がなされず、互いに衝突したためである。[10]宗教が互いに衝突する新たな状況において、人類は、宗教が経済問題を解決していた過去の循環の知恵を活かして諸宗教を相互に循環させる力量を発揮できず、既存の宗教を廃棄してしまうという過ちを犯してしまった。[11]
宗教を遠ざけた現代人は、ウェーバーが予言したとおり、事物がすべて直線的に[12]合理化される鉄の檻に閉じ込められ、経済はいっそう困難になった。そのなかで、儒仏仙の伝統が強い韓中日の東アジア三国の経済的発展は、儒仏仙と西教の経済思想の長所を統合して経済と倫理を循環させうる新たな宗教の出現を期待させるに至った。[13]
「マテオ・リッチ(利瑪竇)が東洋の文明神を率いて西洋で文運を開いた」[14]とする西洋経済学の東洋的淵源と、[15]「金は循環の理によって生じ、用いられる物である」[16]という、循環性によって特徴づけられる大巡思想の経済観は、儒・仏・仙と西教の長所を統合して、経済と倫理の新たな循環的経済観が可能であるとする。大巡思想に現れた西洋思想の東洋的淵源によれば、西教は東洋の儒・仏・仙と結合して個人と共同体の葛藤を解決する西洋の経済倫理となり、倫理と経済のうち倫理を優先する東洋の循環的経済観は倫理と経済の葛藤を解決するため、個人と共同体・経済と倫理の循環性を通じて儒・仏・仙と西教の衝突を解決できるからである。
経済学と倫理学の相互循環についての主張は古くからあったが、倫理学と経済学の基盤となった儒・仏・仙と西教が循環的関係にあるという主張は、大巡思想が初めてである。大巡思想は、経済と倫理が循環するのみならず、個人と共同体もまた循環関係にあるため、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸から生じる経済問題はすべて循環的方法によって解決しうるとする。「金は循環の理[17]によって生じ、用いられる物」という意味のなかには、第一に、万物が天命(天命)によって生じ、各自の必要に応じて使用されるという循環論的分配倫理が込められているのみならず、第二に、儒仏仙と西教に基づく経済思想もまた内部的に循環するという意味が含まれている。
今日の経済問題の核心軸は個人—共同体、倫理—経済といえるため、循環の危機を具体的にみると、個人—共同体、経済—倫理という二つの軸に従って四つに区分される。第一に、個人—経済の側面における経済動機崩壊の問題[18]、第二に、個人—倫理の側面における経済倫理の失踪、第三に、共同体—経済の側面における資本主義—共産主義という体制の問題[19]、第四に、共同体—倫理の側面における、ますます深刻化する環境危機の問題である。
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[図1.1] 現代の経済問題
インターネットは世界を、万人が互いに共感する共感の時代[20]にしたが、むしろ技術の発達によって一つのウイルスが世界全体のネットワークを崩壊させる今日、循環の麻痺による経済危機は、過去の経済危機とは比較にならぬほどその規模と余波が日ごとに深刻化し、人類は日常的な経済崩壊の危険に晒されている。東洋宗教では早くから、経済と倫理のうち倫理を優先すれば経済を生かしうるとする。「経済(経済)」という語の起源と、東洋的思想の精髄である『大学』では、経済と倫理の相互循環を強調している。東洋の「経済(経済)」とは、「世界の経緯(経緯)を立てて民を救済(救済)する」という「経世済民(経世済民)」の略[21]であり、『大学(大学)』では「徳(徳)は本であり、財(財)は末である(徳者本也 財者末也[22])。本を外にして末を内にすれば、民を争わせ、奪うことへと導く(外本內末 爭民施奪)。このゆえに財が集まれば民は散じ、財が散ずれば民が集まる(是故財聚則民散 財散則民聚)[23]」として、倫理を優先してこそ経済の循環を再生しうるとする。今日の世界経済は、「経済(経済)」の定義および『大学(大学)』とは正反対に、受け取るばかりで与えない一方的な経済論理によって循環の危機に直面するに至った。
西洋経済学において、個人と共同体の循環問題は、今日「囚人のジレンマ」のようなゲーム理論に基づく行動経済学に答えを求めている。[24]行動経済学において経済の循環を回復させる方法もまた、個人と共同体の優先順位の交替である。「囚人のジレンマ」とは、二人の囚人が捕らえられ、双方に「相手より先に白状すれば罪を軽減する」という条件が与えられたとき、囚人がいかなる判断を下すのが最も賢明かを研究する学問である。囚人のジレンマを研究する行動経済学では、両者とも白状しなければ皆に有利であるが、両者とも白状するという最悪の決定に陥りやすく、今日の市場経済はまさに囚人のジレンマのように不必要な危機を経ており、協同を通じて最悪の危機状況を脱しうるとする。[25]とりわけ囚人のジレンマは、状況が反復・循環するほどより賢明な判断が期待できるが、現実は逆に現れているのが嘆かわしい現実である。
米国の世界的な資本主義経済批判家ガルブレイスは「経済は道徳という海の上に浮かぶ島である」とし、経済と社会倫理が衝突して新たな経済思想の出現なしには環境危機と人間疎外を解決できない今日、経済が社会倫理と無関係であるとするのは一つの幻想にすぎないとする。[26]物理学・化学などと同じくノーベル賞に含まれ、あたかも物理学・化学のように実証的な科学として認められようとする経済学[27]は、実は倫理学から出発した学問であるという。[28]1998年ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センは、経済学は倫理学と工学の二つに起源するとする。[29]ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』[30]で言及したように、西洋資本主義は、財富の獲得が救済の徴であるとするカルヴァン[31]の予定説[32]に由来した。資本主義は倫理学から生じたのみならず、宗教に起源した。[33]
行動経済学が提示する社会と個人の循環問題に対する解法は、明確な結論は導いているが、実際に人類が発展させてきた遺産を盛り込むことはできない。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』[34]で示したように、社会と個人の循環問題は、伝統的に宗教と経済の関係についての経済—宗教—倫理学的研究においてより深く扱われてきており、具体的な答えを提示しうる。
循環は、経済と倫理の諸問題を解決するポストモダニズム的な解決方法である。[35]今日、循環的経済観は前近代的経済観と誤解されるが、[36]自然科学において循環は、自然が証明したとおり、万物の長所を最大限に活かして最も効果的に作用させる方法であるという。アインシュタインが円を通じてニュートン物理学を相対化し難題を解決したように、循環は互いに相反する直線運動を和解させる、一段高次の運動である。[37]アインシュタインの循環的世界観においてユークリッドの数学がすべて書き改められたように、[38]科学技術の発達によって循環となった世界では、経済学もまた循環的に書き改められる。倫理と経済の循環は経済学において最も重要な要素であり、今日、改革志向が消え失せたのは、経済循環に対する信念がなくなったためであるという。倫理道徳を金科玉条としてきた韓国においても、今日、大統領や宗教者が冬季五輪招致のような文化的イシューの経済的効果をテレビで臆面もなく語っているのは、今後の韓国経済の発展のためには危険なことである。
倫理と経済の循環が経済の核心である理由は、経済循環が今日麻痺してはじめて明確に現れるようになった。第一に、循環は微視的に経済発展の動機を提示する。循環が麻痺すると、安定を求めようとする人間の属性によって社会が極度に保守化し、発展が停滞した。「恒産(恒産)なければ恒心(恒心)なし」[39]という孟子の言のように、今日まで循環的経済観を維持してきたアルジェリアの農民を調査していたフランス構造主義[40]社会学者ブルデューは、循環的経済観が消えれば発展への意欲が消えることを発見し、現代資本主義の停滞の原因に対する答えを循環的経済観に求めた。[41]
第二に、循環は巨視的に経済危機を治療する。循環は、西洋のラッセルのパラドックスのように、直線的な論理構造の最善の解答である構造と過程が解決しえない解答を提示する。血が身体全体を循環し、不足する部分のものを溢れる部分から補うように、循環は経済全体の効率性と底力を最大化する。今日、循環の麻痺によってもたらされた現代人の経済動機の喪失、道徳的葛藤、資本主義と共産主義の理念紛争と環境問題という経済危機に直面しており、経済危機は東洋の循環原理によって解決しうる。
経済観のみならず世界観においても、循環性は大巡思想のみの固有な特性ではない。循環思想は宗教の一般的な特性である。[42]この論考で強調する大巡思想の循環性は、「部分の和は全体より大きい」とする複雑系科学のように、儒仏仙と西教のすべてが中心的な役割を果たす多元的循環性である。
また、既存の科学が循環論に基づかなかったからといって、循環性の科学が既存科学より優越しているわけではない。循環性の基礎となる陰陽の概念は、今日その科学性が大いに認められている概念であるにもかかわらず、ウェーバーが明らかにしたように、過去には多くの問題点を抱えていた。[43]とりわけ陰陽思想に立脚して万物を象徴化する儒教の場合、「儒教の典憲」と名づけうるほどの問題を抱えていた。[44]今日の大巡思想の循環的経済観は、過去の循環と陰陽が持っていた短所を克服して長所化した思想であり、他宗教より優越していると主張するものではない。[45]
宗教では現実に現れる経済思想についての言及はまれであるが、あらゆる思想と同じく、経済において宗教思想の最終的な結論が集約されるため、後代の宗教ほど経済に関する思想が明確であるといえる。大巡思想には、経済と関連する宗教の思想が他宗教と比べて明確に言及されている。今日、循環的経済観は極めて包括的で複雑な理論を必要とする。各宗教の経済思想の長所を発展させた大巡思想の循環論的経済観を考察することにしよう。